愛した彼女は

悠月 星花

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プロローグ

残していったもの

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 向日葵が咲く頃、俺は彼女のことを想い出す。
 俺にとって太陽のような存在だった彼女は、俺の前で大輪の向日葵のように明るく笑う人であった。

 俺の太陽であり月であり、いつの日か世界の全てになった女性。

『僕』の愛情は彼女を追い込み、彼女は『僕』の前から忽然と消えてしまった。

 決して、彼女を追い詰めるつもりはなかった。ただ、『僕』は彼女を愛していたし、彼女に愛されたかっただけで、温かなその手で『僕』を包んでほしかっただけ。
 例え、それが、この世では、赦されないことであったとしても……彼女にだけは全てを赦されたかった。
 そして、彼女もそうであったと思い込んでいた。

 俺の前からいなくなってしまった彼女に、『僕』のことをどう思っているかと二度と尋ねることはできないけど、『僕』の側にいたことは、彼女にとって、果たして幸せな時間であっただろうか。
 俺は唯一無二の彼女だけに赦し赦され、愛し愛され、彼女とただ一緒に最後のときまで側にいたかったことが、重荷になったとしたら、滑稽以外の何でもない。

 いなくなった彼女の心の中には、何があったのか……『僕』は、まだ知らない。愛した彼女が、『僕』の前から消えてしまったあの日から、色のない灰色の世界を彷徨った時間は虚しさと、言い表しようもない孤独。

 彼女もこの絶望を味わえばいいと、何度思ったことだろう。彼女がいた場所にはいつしか知らない誰かがいて、その度に落胆した『僕』の心をわかればいいと願った。『僕』のいない世界で悩んで苦しんで泣いて……『僕』が必要だったと気づいてくれ、戻ってきてくれたら……、そんな虚しい夢を何度みただろう。目覚めたときに冷たいベッドを恨めしく、涙を堪えた日々。
 どうして、『僕』だけをあの想い出の詰まった場所に残していったのだろうか。
 何度考えても、火のない家に帰る寂しさに辛さに耐え続けた。彼女が戻ってくると信じて。

 彼女は『僕』に何も言ってくれなかった。一人で全てを抱えることなんてなかったはずなのに。『僕』が隣にいて、決して一人ではなかったはずなのに……。『僕』が……、『僕』がどんなときでもずっと側にいるとあの教会で誓ったじゃないか。左薬指に嵌る指環は、今も鈍い光を反射していた。

「愛しているよ、朱里」
「私もよ」
「僕たちのどちらかがが死ぬまでずっと一緒だ。約束だからね?」

 曖昧に笑った彼女は、この後、数ヶ月のうちに『僕』だけを残して、消えてしまったのである。


 ◇・◇・◇


「ねぇ! ねぇ!! ってば!」
「悪い、どうした? 裕里」
「雨降ってきたから、早く帰ろうよ! お父さん」
「本当だね。濡れて風邪ひくとダメだから、これを羽織りなさい」
「お父さんはいいの?」

「いいよ」と裕里に笑いかけ、手を差し出すと小さな手で握り返してくる。墓参りにきて、昔の彼女とのことを考えていたせいでぼんやりしていたようだ。娘に服を引っ張られ、苦しかった想い出から引き戻された。雨がポツポツと顔に当たり、涙を流しているかのように俺の頬を流れていく。あの日、枯れてしまったはずの涙は、二度と俺の頬を流れることはないだろう。

「お父さん、今日は変な天気だね? 晴れているのに、雨が降ってるなんて」
「お母さん、裕里が大きくなったって喜んで泣いているんじゃないか?」
「そうなのかな? お母さんのことよく思い出せないから……わからないや!」
「裕里は、お母さんが死んだとき、まだ、小さかったからな」

 指で小さかったといういと、ぷくっと頬を膨らませて、「そんなわけないよ!」と怒っている。クルクル表情の変わる娘は、手を繋いだまま、ぴょんぴょんと飛び跳ねていたと思ったら、ピタリと止まってジッと見上げてくる。

「ひとつだけ……お母さんのこと覚えているよ! 向日葵みたいに笑う人だった!」
「裕里もそう思うのか?」

 コクンと頷いて、握っていた手をさらにギュっと握ってくる。裕里なりに、感傷に浸っていた俺を慰めてくれるのだろう。

「裕里は、お母さんのこと好きか?」
「んー、お母さんのこと大嫌い!」

 好きだと返ってくるつもりで問いかけたのだが……、五歳の彼女は、彼女なりの感情が育っているらしい。予想に反した返事に戸惑いながら、空の上で見ているかもしれない朱里に苦笑いをする。

 ……大嫌いか。朱里……それでいいのか?

 朱里は「いいよ、それで」と笑ながらいうだろうが、返ってきた予想外の答えを何故なのか裕里に理由を聞くことにした。

「お母さんのこと……なんで嫌いなんだ?」
「お父さん、嫌いじゃないくて大嫌いね! だって、こんなにお母さんのことを大好きなお父さんを置いてお空に行っちゃうなんて許せないよ! お父さんは、お母さんが大好きで大好きで大好きなのに、お母さんはそんなことお構いなしだもん。お父さんのこと大好きだけど、私の大好きだけでは、お父さんは悲しい顔をするから、そんな顔をさせるお母さんが大嫌い!」

 我が娘ながら、少しずつ成長しているんだな……。

 馬鹿なことを思うと同時に、小さかった裕里が少しずつ成長をしていて月日が流れたことを感じた。頭からかぶっているシャツの上から、裕里の頭をクシャッと撫でる。

「裕里、俺はお母さんが大好きだけど、裕里はもっと大好きだぞ? それこそ、裕里がいれば、もうこの世の中なんでもできちゃうくらいに!」
「……お父さん、私のこと子供だと思ってるでしょ? なんでもできるわけないことくらい、私はもう知ってるよ! お父さんの……お父さんの好きな人ランキングは、ずっと変わらないもん。そんなウソは言わないで……」

 最後の方は、声が震えている。俯きながら、少し早足で歩いていく。小さな手は、落ち込んだ俺を導くように。

 涙を我慢しているのか、それにしても女の子は……おませさんだ。

 五歳とはいえ、もう立派に女なのだな……なんて、アホなことを考えてしまい苦笑いがもれてくる。朱里がいたら、きっと微笑みながら、『僕』をからかうに決まっている。

 裕里は朱里が一番だと言うけれど、俺にとって裕里以上の存在はこの世にいない。世界で一番愛しい子。朱里が、彼女が、生んだ僕たちの子どもだから。

 俺は急に立ち止まった。手を繋いでいるので、裕里も立ち止まって迷惑そうな顔をして振り返り、「どうしたの?」と小首をかしげている。その姿は、さながら小さな朱里で、さらに愛おしさがこみあげてきた。
 手を離し屈んで、裕里を抱きかかえた。

 裕里と出会ってから、もう三年がたとうとしている。抱きかかえると、そのずっしりした重さにも成長を感じる。

「お父さん、急にどうしたの?」
「いや、なんていうか……裕里をギュっとしたくなったんだけど、雨降ってるから悠長にここにはいられないし、裕里抱いて車まで走ろうかと思って……」

 まじまじとこちらを見つめ返してきたかと思えば、首に腕を回してギュっとなり首が絞まってくる。

「お父さん! はっしれーっ! れっつごぉ!!」
「はいはい、落っこちないようにしっかり捕まっていろよ?」

「うん!」と裕里が返事をしたことを確認して車まで走る。車に着く直前、裕里がポツリとこぼす。

「……お父さん、あのね?」
「どうした?」
「お母さんのこと……教えて」
「あぁ、いいよ。俺が知る限りのこと、全部教えてあげるよ」


 そう、『僕』が朱里と出会ってから別れ、裕里と出会うまでの話を……。
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