愛した彼女は

悠月 星花

文字の大きさ
上 下
5 / 19
彼女とワンコ

残業後の送りオオカミ? いえ、招き入れられたワンコです

しおりを挟む
 カタカタカタカタ……。

 時計をチラッと見ると夜の10時を回ったところだった。新人である僕は、上司である隣の女性に声をかける。

「あの、朱里さん、そろそろ帰りませんか?」
「んー帰りたかったら帰っていいよ? っていうか、まだ、世羅くんさ、新人なんだから、私なんかに合わせて残る必要はないし、仕事、片付いているんだからもう帰りさなさいよ?」
「でも、夜に女性の独り歩きは危なくないですか?」
「そうね、でも、この広いオフィスで世羅くんと二人でいるのも、然程変わらない気がする」

 視線をこちらにチラとも向けず、彼女はひたすらキーボードをたたき続けている。夜の7時くらいまでは、コンタクトで作業をしていた彼女も夜遅くなり人が減れば眼鏡へと変える。

 その姿も……いい!

 平日、ほぼ毎日残業をしている彼女のこんな姿を見れるのは、僕にとって眼福であった。何しろ、いつも、この時間になると、僕たち以外、誰もいなくなるからだ。
 息抜き代わりに何気ない会話をする。
 あの珈琲を奢った日から、少しずつ仕事以外の話も増えていった。もちろん、彼女は仕事に目が向いているから、僕のふった会話の返事は、「うん」とか「そう」とか適当であるのだけど……。

「すごい仕事人間なんですね? そのうち、体、壊しますよ?」
「仕事人間なんて言われたの初めてかも! 私もとうとうそんな風に言われるようになったのか、なんだか感慨深いわ!」

 やっぱりこちらをチラッとも見ない朱里は、唸りながらもキーボードを叩いて決議書をせっせと作っているところだ。この春から大きなプロジェクトを任され、チームリーダとなったらしく張り切っているのだと他の同僚から聞いた。
 でも、僕から見れば、張り切っているからというようでなく、彼女は自然体で仕事をしているように見える。なぜかというと、朱里は当然のごとく周りにもちゃんと目がいっているからなのだが……、一人一人をきちんと見て、的確に指示を出したり声をかけたりしている姿を見かけるからだろう。
 残業も多いが、それすら楽しんでしていて自然なのだ……それって、あんまりよろしくないのかもしれないけど、朱里がこの仕事が好きなんだとわかる。
 長年彼女と一緒に働いている同僚たちは、彼女が全身で働きたい! と訴えているので、誰も朱里の不規則な生活をとめようとしないのだ。
 だから、せめて僕がなんておこがましいことを思ってしまったのだが、それでもやめようとしない彼女。

 むぅーっと画面に顔を近づけている。頭をガリガリとかきながら髪の毛をふわっとさせた。この時間でもシャンプーの匂いがしてクラっとしそうだ。

 確かに、これは……朱里のいうように危ない。

「朱里さん、本当に帰りましょう! そろそろ帰らないと、守衛さんに怒られるんじゃないですか?」
「えっ! もうそんな時間?」

 守衛さんの言葉に反応して時計を確認し、「あちゃ……」と言いながら渋々片付け始めた。
 その姿をぼんやり眺める。昼間はきちっとした服装なのだが、やはり夜というのと人がいないというので首元を緩めていたり髪を変な風にゆったりしている姿は、このチームで見ているのは僕だけだろう。

「あっ! 世羅くん、まだいたの?」
「えぇ、いましたよ……さっきからずっと話しかけていますけど?」
「ごめんごめん。じゃあ、片付いたし、せっかくだから呑みに行こうか!」

 いいところまで片付いたらしく、ご機嫌の彼女は、僕の肩を叩いて「上着持ってくるから待ってて」とロッカーへ去っていく。戻ってきた彼女は、さっきのだらしない姿でなく昼間の彼女であった。

 今の姿もいいけど……さっきまでの姿もいいな。彼女になってくれたらあんな姿も見せてくれるようになるのだろうか?

 妄想は尽きることなくだ。朱里の全てを覗き見てみたい気持ちになる。ただ……入社日にやらかしたので、自分自身に必死に言い聞かせる。

 もぅ、馬鹿なことはするな。これ以上は、本気で嫌われる。

「よし! どこに行く? この時間だと……居酒屋かしらね!」

 エレベータに乗り込み気付く。いつも思うが、ここは狭い。当たり前だが、エレベータなのだ。狭いに決まっている。この小さな箱の中は、朱里の香りが充満してる。

 あぁ、朱里の香りって……変態くさいな。

 僕だって、学生時代にそれなりに彼女もいたし、それなりにいろいろと通過儀礼は済ませたわけだが……今は、初めて恋をしているかのようだった。

 恋? 今までしていなかった。……朱里さんの前にいるとそんな気さえする。

 今までは求められたから、応えた。それが正しい。

 まぁ……いろいろと若かったということ、いや、今も若いんだけど……そう、それなりに年を重ねて、こんなもどかしい気持ちを抱えることになるとは思いもしなかった。
 大人って意外と難しいようだ。こと男女となると……割り切った関係ならいざしらず、彼女か……と、目の前にいる女性を見ながら心の中で大ため息ものである。

「まだかなぁ?」と、独り言をつぶやいている朱里。独り言が多いと言っていたが、夜になると確かによく一人で話していて、ノリツッコミまで自分でこなしてしまう。聞いていたら、おもしろい。
 前を見ているので、表情がこちらからは見えないのだが、その後ろ姿をぼんやり眺める。

 彼女は5つ年上の31歳。「今年、前厄だったのよぉ!」と嘆いていて、先日は「彼氏が欲しい」と大声で叫んでいた。
 こんな時間まで残業をうきうきとしていたら……無理じゃないかと思うがあえて言わないでおく。嫌われたくないから。
 会話の端々から、心の癒しのために乙女ゲームをしているらしく、それをしていると、私にも王子様がいるはずで早く迎えに来てくれと常々言っている。

 意外と、乙女なんだ……朱里さん。

 朱里と同期のお姉様方は、結婚もして子持ちの人も多い。なので、独身の朱里を心配するのだが、朱里本人は、「大きなお世話!」と突っぱねているらしい。
 彼氏がほしいと言っているわりに、大きなお世話! とは、言っていることがめちゃくちゃだ。彼氏がいないからこそ、僕の隣で毎晩残業をして、適当に僕の話を聞いて、独り言を言って仕事をしているのだ。僕にとっては、ありがたい話ではある。でも、朱里と一番仲のいい杏に聞いたことがあった。

「朱里さんも結婚を前提にしていた彼氏いたのよ。彼氏の方が結婚に乗り気でね……なのに、あの子、逃げちゃったのよね。結婚無理!って。嫌いじゃないから……付き合えるけど、結婚したいって言われると、これ以上は一緒にいたくなくなったのって……どんな贅沢よね? 確か、幼馴染で、彼もこっちに出てきているのよ」

 なんてことだ。それって、結婚は気分じゃないけど、その幼馴染のこと好きじゃんね? だって、それ以来、誰とも付き合ってないっていうんだから。まぁ、あの仕事量じゃ、男の方が逃げていきそうだけどね……? 働き方改革とか世の中ざわついているのに、我先にと残業の泥沼に飛び込んでいくんだから……どう考えても、彼氏は無理だ。

 朱里さん、どうやったら振り向いてくれるんだろう? そんなスペック高そうな男を振って……僕なんて、5つも年下で部下で使えないし、初日からやらかすようなヤツだし……。

 考えているとだんだん、俯き加減になる。
 チーンとエレベータが着いたのに気づかず、その場に佇んでしまっていたようで、エレベータの扉が閉まったようだ。エレベータから先に降りていたのにわざわざ戻ってきたらしく、下から朱里が僕を覗き込んできた。

「大丈夫? 疲れたなら……帰る?」
「いえ、考え事してただけですから……いきましょう!」

 ニコッと笑って前を歩く朱里。とても機嫌がいいのがわかる。髪が左右に揺れ、体も全体的にうきうきと揺れている。

「朱里さん、ちゃんと歩かないとコケますよ!」
「コケるとかいわないで! 本当にコケそう! 私、受験とかで落ちるって言われると、本当に落ちたのよ! その代わり、本当に階段から落ちたときの試験は、全部通ったの!」
「それは、ちなみにいつの試験?」
「現役私立難関大学を受けたとき。落ちるって自分では思っていたんだけどね……そう思っていたら、受けに行ったときに駅の階段の一番上から滑り落ちたのよ! お尻は痛いし、滑り落ちたし、もう気が動転しちゃって……パニック!!」
「それで、受かったの?」
「そう、第一希望のところ」
「すごいですね! 朱里さんって。なんか、イロイロ持ってますよ!」

 あはは……と空に向かって朱里が笑う。その笑い声はどこか空虚で、初めて聞くような声だった。

「持っているわけないじゃない! 私は、生まれてすぐに母親に捨てられたのよ? まぁ、育ててくれた父がいたから、持っていたのかもしれないけど……」
「それって、聞かない方がいいやつですよね? すみません」
「えっ? いいよ! 別に隠してないし、話のネタだもん。前も話したかな? ネタだからいっか……生まれてすぐに捨てられた可哀想な朱里ちゃんって」

 ケラケラと明るく笑う朱里を後ろから抱きしめてしまった。

 なんていうか、そうは言っているけど、泣いているような気がしたから……。

「何? 色気づいているのかしら?」
「別に……そうじゃないです。ただ……なんとなく」
「なんとなくで、女性に抱きつくのはいただけないよ? 放してくれる?」
「嫌です」
「大声あげようか?」
「それは……困りますけど……もう少しだけ……ね?」
「ね? じゃないわよ。誰が通るかわからないところでやめてほしいわ!」
「誰もいなかったらいいですか?」
「そういうことじゃなくて!!」

 腕の中から朱里を解放し、代わりに手を握る。引きずるように歩き、そのまま大通りに出てタクシーを拾った。

 僕、今、何しているんだろう?

「どこ行くの?」

 ひっぱるがままタクシーに乗せてみたものの……現実的でないことに思いなおした。


「朱里さんの家まで送ります」
「送りオオカミさんだ!」
「ち……違います。僕は、朱里さんを送ったらちゃんと帰りますよ!」
「ふぅーん。帰るのか。じゃあ、運転手さん、○○町の△△マンションまで!」

 運転手さんは、返事をしてそのまま朱里の言った住所まで車を走らせる。無言のタクシー内。時折無線が流れるが、窓の外を眺めたまま黙ってしまった朱里に何か話しかけようと試みるが、口に出せるものが何一つなく、僕も黙って流れる車窓を睨みつける。

「あっ! 運転手さん、そこのコンビニでいいや! 止めて! お代いくらですか?」
「1200円になります」

 急に運転手に声をかけたかと思うと、朱里は「はーい」と言って電子マネーで支払いを済ませ、僕をタクシーから追い出す。

「早く、降りてくれない? 出られないじゃない!」

 押し出される形でタクシーから出され、朱里が降りたときにはタクシーが去っていく。

「朱里さん……タクシー」
「明日、世羅くん、休みでしょ? 付き合って!」

 付き合ってって言われたけど……僕の望んでいる付き合ってでは決してない。

 もやもやしていると、今度は朱里に手を握られコンビニに入っていく。
 おもむろにカゴを持たされ、酒類の方へツカツカと歩いていく朱里について行く。

「ほら、グズグズしない!」

 缶酎ハイを1本、2本、3本……数えるのやめよう。カゴいっぱいになっている。

「世羅くんは呑まないの?」
「いえ、僕、帰るんで……」
「えっ? せっかく買ったのに帰るの? 付き合ってっていったじゃん!」
「はぁ……こんな時間に女性の家に行くのって……どうなんですか?」
「ダメね? でも、まぁ、呑みたくなったのと、一人で呑んでもおいしくないから、決定事項! 上司命令!」
「それ、パワハラになりません?」
「じゃあ、さっきのセクハラにする?」
「いえ……お伺いします……できれば、その……ビールを……」
「はいはぁーい! ビールね。これ?」

 可愛く聞かれれば、「はい」と朱里に返事をするだけである。コンビニの支払いも朱里がシュッと終わらせてしまう。なんてスマートにしてしまうのだろう。まるで、理想の彼氏! である。
 大量の缶酎ハイと少量の缶ビールとおつまみの入ったビニール袋2袋分を一袋ずつ持つ。もちろん重い方を僕が持ち、軽い方を彼女が持つ。

 あぁ……理性よ……一晩居座ってくれることを願うよ。

 そう言い聞かせて、コンビニから朱里の部屋に手を繋いだまま向かう。まるで逃がさないと首輪をはめられたワンコのようであった。
しおりを挟む

処理中です...