愛した彼女は

悠月 星花

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閑話Ⅰ

忘れ形見

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「お父さんってさ……めっちゃ、夢見がちだよね?」

 5歳の子どもに言われ、ぐぅの根も出ないのだが……まず、その言葉、裕里は一体どこで覚えてきたのだろう。ませたとか、そういうレベルなのだろうか? 俺が、このくらいのときって、何をしてただろうと思い出すと、子どもにとても言えないと気づき口を噤む。

「幼稚園で、そんな話をしているのか?」
「うぅん、みやちゃんのお母さんの口癖だったり……先生が言ってた。男の人って、女に夢見がちって」

 おいおい……5歳の子どもの前でどんな話をなさっているのかわからないけど、ちょっと考えて話はしてほしいものだ。

 詳しく聞いてみたい気もするが、これは裕里の話にこれ以上のらない方がいいと判断する。裕里の父とはいえ……さすがに他の子のお母様方にたてつくことも怖いし、幼稚園の先生を敵に回して裕里に何かあってはと思うと黙っていよう。

 ただ、父としてひとつだけ……。

「裕里」
「なぁにぃ?」
「変な言葉ばかり覚えて、耳年増になるなよ?」
「みみどしま? 何それ! おいしいの?」
「変な言葉ばかり覚えるなってことだ。裕里の周りには、いろんな言葉が溢れているだ。年を重ねるといろんな言葉も覚える。いい言葉もあれば、悪い言葉もある。ありがとうは言われたら、裕里はどんな気持ちになる?」
「うーん、嬉しい?」
「じゃあ、大嫌いは?」
「……悲しい。あっ! お母さんに大嫌いって言ったから、さっき、泣いちゃったのかな?」
「さぁな、お母さんは、裕里に嫌いって言われたとしても、大好きよ! なんて言って寄ってくる、そんなタイプだと思うぞ?」
「そうなんだ……私、やっぱりお母さんのこと、全然知らないんだね?」
「当たり前だろ? お母さんが死んだのは、裕里がまだ3歳だったんだ。知らなくて当然。お父さんだって、そんなに長いことお母さんと一緒にいたわけじゃないから……知らないこともいっぱいあるよ」

 車の運転をしながら、隣に座る裕里を盗み見ると、「そうなんだ……」と呟いていた。しっかりしていても、まだ、5歳。母親が恋しいのだろうか?

「お母さんって、秘密がいっぱいなんだね?」

 思わず笑ってしまった。朱里には秘密がいっぱいだという裕里に。子どもの感性に暗くなりそうな俺が救われる。

「裕里、お母さんに秘密がいっぱいあったわけじゃなくて……お母さんをいっぱい知る前に俺の前からいなくなってしまったが正解だよ。お母さんは、とっても隠し事が苦手なんだ」

「へぇー」っと呟き、考え込んでいる裕里。その姿は、朱里を彷彿させるような姿である。

「お母さんのイメージって、私の中では、向日葵みたいに笑うイメージとシクシクと泣いているイメージだな。夜に起きると、よく泣いてた気がする」

 裕里から聞く初めて話に俺は思わず、車を急停止してしまった。幸い田舎だったこともあり、誰も走っていない公道でクラクションが鳴ることも、怒号が聞こえることも、事故が起こったりもしない。

「お父さん! 急に停まったら危ないよ!」
「……朱里、泣いていたのか?」
「えっ?」
「朱里、泣いていたのかって……答えて! 裕里」

 胸がざわめく感情のまま、裕里を揺さぶってしまう。知らない朱里を俺は知りたいという欲求を娘にぶつけてしまった。

「お父さん、痛い……痛いよ!!」
「あぁ……ごめん。痛かったよな……ごめん、ごめん裕里」
「もう!」

 よっぽど痛かったのか、両腕をさすりながらぽつりぽつりと裕里は思い出せる限りを話し始める。

「お母さん……夜中にたまに泣いてた。ごめんねごめんねって……1回なんで泣いてるのか聞いたことがある」

 ぽつぽつと話す裕里だが、当時3歳だったのだ。記憶が混濁している場合もある。それでも、少しでも離れていたあいだの朱里の話をどうしても聞きたくなってしまう。

「なんて言ってた? 覚えてたらでいいから教えてくれ」
「うーん……大好きな人をどこかに置いてきたとか……あとは……私? やっぱりよく覚えていない!」

 俺に気を使ったのか、ニカッと笑う裕里を見て涙が流れる。

『大好きな人』は俺のことだろうか? 泣くほどつらいなら、俺も連れていってくれたら、よかったのに。朱里さえいえれば、俺は……。

「お……お父さん? どうしたの? どっか痛いの?」

 いきなり泣き始めた俺をどうしたらいいのかわからず、裕里はおろおろと慌てている。小さな手を伸ばし、俺の頬に手を当ててきたが、その小さな手に触れられてさらに涙は零れる。シートベルトを外して、裕里は抱きついてきた。

「お母さんがね、私が泣くとよくぎゅっとしてくれたんだ! お父さん、泣かないで……私まで……」

 俺の肩に頭を置いた裕里から漏れる嗚咽。俺が泣き始めたから、不安に思ったのか裕里まで泣いてしまう。親子そろって、抱き合いながら……車の中で泣いた。車の中はカエルの合唱のように二人の嗚咽で響き渡る。

 ……違うな。朱里さえいればいいなんて。今はもう、裕里もいないと。

 ひとしきり泣いたあと、裕里にお願いをすることにした。

「裕里、お願いがあるんだけど……」
「何? お父さん。裕里ができること?」
「刑事ドラマとかでよくやってるDNA検査って知ってるか?」
「綿棒グリグリしてるやつだ!」

 5歳児……と思いつつ、俺の隣に座り、刑事ドラマを一緒に見ているからなのかどんなものか分かったらしい。「綿棒綿棒」とよくわからずに呟いている。

「あれ、やってくれる?」
「綿棒、口に突っ込むの?」
「そう……ダメかな?」
「いいよ! お父さん、綿棒くらいならやったげる!」

「ありがとう」と、もう一度抱きしめる。朱里の忘れ形見である『裕里』。俺の『裕』と朱里の『里』から名前が付けられていると安易な考えであるが、うすうす気づいていた。

 朱里の父に朱里の戸籍を見せてもらったとき、気付いたことが2つあった。
 1つは、裕里の父の欄が空白であったこと。
 もう1つは、あるはずのない見覚えのある名前が、朱里の戸籍にあったこと。

 朱里は、いつの日か、何かに気づいてしまったのだろう。
 俺は、朱里が離れてしまった本当の理由は、当時、何も知らなかった。どんな想いで決断したかもわからない。お義父からも、突然帰ってきて、「子どもを産んで育てたい」と言ったそうだ。
 俺じゃ役不足だったんだなと、彼女を心底恨んだことさえあったけど……もし、これが、本当なら、彼女がずっと一人で悩んでいたことだろう。
 俺は、そんなことすら知らずに、朱里の帰りをあのマンションで待ち続けていたのだ。なんて、馬鹿だったんだろうと今なら思う。

 大好きな人を置いてきたと泣いた朱里。
 その人物が、俺であってほしいと願いを込め、それが事実だと確認ができたとき、俺は朱里に何をしてあげられるのだろうか?
 裕里とこれからどうしていくのが正解なのか……迷いはあれど、朱里が隠した真実を突き詰めることにしたのだった。
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