愛した彼女は

悠月 星花

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彼女の秘密と新しい宝物、そして……

誰もいない家に

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 仕事が終わりマンションへ帰ると、玄関を開けても真っ暗で、誰かが部屋にいる気配すら無かった。玄関にあるはずの靴をみたら、いつも履いている朱里の靴が無くなっていて、慌てて中に入り思わず部屋中を探し回る。

 部屋はそれほど大きくもないし、部屋数も少ないのですぐに終わる。部屋には、朱里の私物は置いてあるのに……朱里がいない。

「……朱里?」

 呼んでも返事のないこの部屋は寒々しく、僕の声だけが響いた。
 ここ1週間ほど、体調が悪いと朱里は仕事を休んでいた。僕は、何度も何度も病院へと言ったのだが、「大丈夫よ! 寝ていれば。大丈夫だから」と言っていたのに思い至って、ポケットの中にあるスマートフォンを握る。
 急に体調が悪くなり、救急車で運ばれたのでは? とか、悪い想像が頭の中をよぎっていく。震えながら、朱里に電話をかける。

『この電話は現在使われておりません……』
「そんな、そんなことないだろ? 朱里の番号なんだぞ?」

 震えてうまく押せないボタン。やっとの思いで、再度、電話をかけたが同じアナウンスが流れる。リダイヤルではなく、電話帳から検索し、電話をかけても同じアナウンスが流れていく。何度かけてもだ。

「一体何の冗談だ! ふざけんなよ!」

 僕は、スマートフォンをソファに投げつけた。視界の隅、机の上に置かれた一枚の紙が目に入り、それに一縷の望みをかけ近寄った。

『ごめんね、裕ともう一緒にはいられなくなりました。このマンションは、裕に譲るので自由に使ってください。私の私物については処分してください。
 警察にはいわないで……私の我儘で出ていくのだから。幸せになってね。さようなら。
                                          朱里 』

 たった数行の置き手紙は、僕を奈落の底に落とすのに十分なものであった。

 ……一緒にいられないってどういうことなんだ?

 分けもわからず、杏に電話をして朱里の居場所を聞くことにした。仲のいい杏なら、朱里の居場所を知っているかもしれないし、理由を聞いているかもしれない。
 真夜中ではあったが、電話を鳴らす。もう、休んでいるのだろう。電話に出るのに時間がかかる。その間も、不安と焦り、朱里を失うかもしれないというどうしようもないほど恐怖に体がどうにかなりそうだった。

「もしもし、杏さん?」
「どうしたの? こんな時間に」
「あのさ、朱里さんと電話が繋がらないんだけど……何か知らない?」
「繋がらないの? こんな時間だし、朱里さんも寝ているんじゃないかしら? ごめんね、わからないわ……」

 杏も朱里がいなくなったことすら知らないようで、すぐに電話を切った。僕は、朱里の交友関係ほとんど知らない。

 この様子だと病院に運ばれたというわけでもない。一体何がどうなっているのだろう……?

 朱里の実家に電話だ! と思い至ったのに、朱里の実家を知らなかった。場所も電話番号も何も知らないことに気がづいた。朱里のことだからと、どこかに置いていないかと引き出しを探す。住所が載っていそうなもの、電話番号が書いてあるかもしれない手帳。

 どこを見ても、朱里の実家へ繋がるものは、何一つなく、朱里が全て処分したか持っていってしまったのだろう。
 なすすべもなく、どうすることもできなくなってしまった。
 数ヶ月前、神様の前で誓って結婚したばかりなのに……僕は朱里のことを知らなさすぎることに項垂れた。

 ◇

 翌日、出社後に人事課へ朱里との事情を話し、結婚証明証を見せ、朱里の履歴書を見せてもらったが、実家に繋がるものはなかった。
 頭にチラつくものはあったが、それだけはないと頭を振って思い浮かんだアイツを追い出す。
 休みを取り方々を日が暮れるまで歩き回った。朱里の好きな服のブランドや立ち寄りそうなカフェ。この街で好きだったものや場所を全部探したが、見つからなかった。

 どこ行ったんだよ……朱里。

 気を抜いたとき、ふと思い至ったのは、幼馴染のアイツだった。スマホを取り出し、杏に電話をする。朱里から何か聞いているかもしれないと、会いたくもないアイツに会うために。

「杏さん、あの、朱里さんの幼馴染って……どこで働いてるか知っていますか?」
「世羅くん、どうしたの?」
「教えてください! お願いします!」

「……そこまで言うなら」と何か手帳のようなものを捲っている音が電話の向こうからする。

「どこだったかな……あぁ、〇×ってシステム会社だった! 今も、変わっていないはずだよ」
「今から行ってきます!」
「今から? あのさ世羅くん」
「……はい」
「朱里さんが会社辞めたのって、それなりに事情があると思うんだ。世羅くんが朱里さんのこと慕ってたのは知ってるけど、そっとしておいてやりなよ?」
「それは、無理です」
「どうしてこだわるの? 朱里さんにも……」
「僕、朱里さんと結婚しているんで! 朱里さんがいないと僕がダメなんです。それじゃあ、いってきます!」
「えっ……ブツン」

 ブチっと電話を切って、教えてもらったシステム会社に走った。今日の業務は終わりましたと立札があったが、まだ、受付に人が残っていたので呼んでもらう。僕の顔を見た瞬間、めんどくさそうに出てきたアイツの胸ぐらをグッと掴む。

「いきなり何するんだ!」
「朱里をどこにやった!」

 僕の質問に怯んだ上に、聡という朱里の幼馴染は驚いていた。

「朱里? 朱里がどうしたんだ?」
「しらばっくれるなよ! 急にいなくなったんだ。必要最低限の荷物を持って! 実家……、幼馴染なんだろう? 実家を教えてくれ!」
「朱里は何も言わずに出て行ったのか?」
「あぁ、お前は何か知っているのか?」
「知らない。ただ、何かに悩んでたことだけは確かだ」
「お前には、悩みも話すんだな……」

 その瞬間、掴んでいたものから力が抜ける。体中から気力が全て抜けていき、萎んでいく風船のようだった。

「いや、俺もはっきりとは聞いてないから知らない。ただ、かなり悩んでたと思うってだけだ。朱里が何も言わずに出て行ったんだったら、俺からも言えることはない。朱里の本当の実家は、俺も知らないんだ」
「幼馴染なのにか?」
「あぁ、朱里の父の転勤で。俺の実家の近くに変わってきたときに一緒にいただけで、本当の実家はしらない」

 聡のその言葉に項垂れた。詰んでしまったから。

 もう、僕にできることは……本当に何もない。朱里のことを知らなすぎる。結婚したというのに。

 ただ、毎日顔を合わせて、一緒にご飯を食べ、体を重ね、日々を一緒に過ごしてきただけだった。朱里のほんの一部を知っていただけに過ぎなかったことを思い知らされた。

「一体どこ、行ったんだよ……」

 聡もそんな僕に同情したのか、呟いた言葉すら響く玄関ホールで僕を見守ってくれる。

 ◆

 それからは、朱里が残してくれたマンションに意味もなく帰る日々。ここにいれば、また、「ただいま」と朱里が帰ってくるんじゃないかと思い、待ち続けるしかなかった。

「今日も暗いままか」

 朱里の想い出が残るこのマンションに帰るのはとても辛い。いない人を想って、帰ってこないといけないから……。帰ってきてくれると期待して待ち続けて4年がたとうとしている。このマンションに住み始めてもう6年になるのか……と、大きなため息とともに感慨深げに見上げていた。

 味気のない毎日を過ごすうちに、朱里への感情が段々薄れていくような気さえしていた。

 月日が流れれば、僕も昇格し、朱里が座っていた席に座ることになった。僕がいた席には、新しく入った女の子が座り、僕が朱里にしてもらっていたようにOJTをしている。
 会社に向かうのも辛い日々の中、朱里との想い出だけに縋って生活していた。湯島の機転で、新入社員の子を先輩として教える立場を与えられなかったら、会社にすら行かなくなっていたのかもしれない。

 ◆

 会社に向かうと、杏が血相を変えて駆け寄ってきた。それも、かなり顔色が悪い。

「杏さん、おはよう!」
「おはようどころじゃない! 世羅くん、朱里が……朱里が……あか……」

 僕の顔を見るなり、廊下で泣き崩れてしまった杏を抱きとめ、落ち着かせ椅子に座らせ話を聞く。驚いたように、周りは僕らを見ていくけど、今は杏を落ち着かせるほうが先決だ。

「朱里がどうかしたんですか? 居場所がわかったとか?」
「……死んだの、交通事故で。今朝、ニュースになってたの知らないの!」
「……朱里が死んだ? いつ!」
「昨日の夜よ!」
「杏さん、どこかわかる! それ! その場所!」

 いなくなった朱里の手がかりがやっとつかめた。ただ、僕にとって最悪の手がかりである。それでも、今なら、朱里に会えるかもしれない。そんな想いだけで、震える膝に力を込める。杏に教えてもらった事故をネットのニュース記事を読み、すぐさま、その場所へと飛んで行く。職場から駅に向かい新幹線に乗り、朱里の故郷についたのは昼が過ぎていた。

 土地勘のない僕は、朱里の実家の近くにある大きな駅で降り、レンタカーを借りて住所を手掛かりに車を走らせた。焦って焦って事故りそうになりながら、朱里の実家へと急ぐ。

 着いた先は、山々に囲まれたのどかな田舎。車を適当な広さのある駐車場に停めて、朱里の家を探すと『忌中』という紙が貼られている一軒の大きな日本家屋。表札を見ると、橘と書かれており、恐る恐るその家に入った。
「朱里ちゃん、まだ若いのに……」なんて声が聞こえてきたので、ここが朱里の実家で間違いない。

 僕は、つかつかと家の中に入っていき、朱里の眠っている棺に、やっとやっとたどりついたのだった。
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