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第1章 監獄の住人
1 盗まれた宝石
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人という種が誕生してからずっと、
多くの人々は畑を耕して、作物を育て
それを食べて暮らしてきた。
しかし今や、両側の道には雑草が生い茂り
流れる水は汚れ、小麦も芋も取れない
汚れて、実りのない大地が続いている。
ここは、18世紀の半ばの大英帝国。
陽もまだ上がりきらない午前浅く、一人の青年が
一人の少女を抱え込みゆっくりと歩く。
青年はよわよわしく息をする少女を心配して、
自分を励ますように声をかけ続けていた。
「がんばれ、グレイス。」
「がんばれ、グレイス。」
農村から都市部へ働きに来た彼らの親の世代は
過酷な労働環境で死に、残された彼らは
スリや泥棒、殺人をも犯していた。
工場の下水の流れこむ劣悪な環境の
川とは名ばかりのゴミだめで暮らす彼らには
希望などない。
工場の吐き出す灰色の煙と、悪臭の漂う
糞尿の流れこむ場所、そこが彼らのすべてだ。
普段どおり、スリや置き引きで稼いでいる彼らは
身なりのいい紳士から金貨の多く詰まっているであろう
革袋を手に入れた。そこには山のような宝石が入っていた。
窃盗団としても宝石を金には変えたかったが
これだけ大量の宝石では足がつくだろうことくらい
子供でも分かる。
頭領は無造作に宝石の入った革袋を倉庫に放り込むと
酒を飲んで寝込んでしまった。
彼、ライアン・マグレガーの妹は半年くらい前から
体調を崩している。原因は分からないが
唯一の肉親が死んでしまうのではないかと苦しんでいた、
それに盗賊ギルドのみんなも心配していた。
犯罪者の集団ではあるが、彼らは極悪人の集団などではなく
道徳的な意味では、善良なる者たち、であろう。
社会の構造が彼らから住む場所を奪い、工場は畑を奪い去った。
当然、彼らが医者にかかることなどなく、乞食同然の彼らに
ライアンの妹を助ける手段はなかった。
窃盗団の頭領も、宝石は換金できないとあきらめ
ゴミのように放置されていた。
ライアンはこんな生活から抜け出したかった。
自分は無理でも、せめて妹にはまともな生活を送ってほしい。
窃盗団で宝石を持ち出しても誰も怒らないだろうし、
このチャンスに、妹を腕のいい医者に診せてやりたかった。
だが、代金が大量の宝石では怪しまれる。
だから、闇の医者を探し求めていた。
宝石は英語で「ジュエル」、ユダヤ人の扱うものだ。
宝石の換金とともに、医者を探していることを
聞いて回ると、ある場所に行くように言われた。
彼らには不似合いな高級住宅街の一角を歩いていた。
朝早く、夜明け前ということもあって、見咎めらる事はない。
10月のマンチェスターは夜明け前ということもあって
凍えるような寒さだ。ライアンの着ている穴だらけの
薄いシャツとボロボロの半ズボンで耐えるには
かなりの忍耐を要する。
薄いぼろ布に包まれた病弱で顔が土色の妹が心配だ。
死んでしまうのではないかと思える。
自分たちの住んでいる汚泥と糞尿にまみれた街と
ここはなぜこんなにも違うのだろう。
日曜日の教会で、憎きブルジョアと叫ぶ
神父の言葉が身に凍みる。
それから、15分ほど歩き続けると、目的の場所が見えてきた。
これだけの宝石があれば、ずっと暮らしていけるだろう。
闇医者といえど鬼ではないのだ。
これだけの報酬を払えば大丈夫。
そう思い決意を固め叫んだ。そして、
根拠のない言い訳を心の中で呟きながら
ドアを強くノックした。
妹を置いていくのは心苦しいが、盗賊団にとって価値はなく
捨て置かれた宝石とはいえ、無断で持ち出したのだ、
掟に従い、過酷な制裁が待っているだろう。
それがルールというものだ。
たとえ犯罪組織であっても。
「夜分すみません、開けてください、ドアを開けてください。」
ライアンの声は静まり返った朝の空気に響いた。
アデルは早朝、外で物音がするような気がして起きた。
寒さで乾燥した空気が絡みつき、喉がひりつく様だ。
ベッドの脇に置いてある陶器製の水差しから、陶器のコップに
水を注ぐと、流し込むように飲みこんだ。
喉の痛みは少しましになったようだ。
高級住宅街らしく、部屋の調度品もそれなりのもので
使用人として暮らしているアデルのベッドは
なんと、天蓋付きだ。
とはいっても新調したものではなく、
破産した貴族の邸宅から売りに出されたものを
購入したものだ。
ユダヤ人がこんなところに暮らしているのは重大なリスクだ。
もちろん、大英帝国ではユダヤ人への差別も少なく、
寛大なほうだ。
これがフランスやイスパニアならいつ殺されてもおかしくない。
2階にある自室の窓を開けてみると、ドアの前にボロボロの
服を着た乞食にしか見えない兄妹が座り込み、
大声で必死に叫んでいた。
そもそも、ここに来るのは同胞の富裕層であり、
王家の侍従医を頂点とする、数百年より長く続く
ユダヤ人の積み上げたヒューミントの結晶なのだ。
高級住宅街にある、立派な家。
しかも、家具調度品は貴族の家と同レベル、
こんな場所がスパイ活動の拠点だとは、
なかなか気がつきにくいものだ。
スパイは香り高い紅茶と共にあるのだ。
おそらく、単なる闇医者とでも思っているのだろう。
免許制度のない時代に、光の医者も闇の医者も
ないだろうとは思うが、ここが闇の医者と呼ばれる所以は
患者を選ばないことだ。
その理由は、怪我をするということは、何かの事件に
巻き込まれていたりする、また、支払われる金銭の出所が
怪しい場合、情報が隠れていることが多いからだ。
そして、そういう患者はたいてい口が堅い。
そして、こちらに都合が悪ければ殺してしまえる。
ただ、扱いに困るのが、こういう馬鹿な勘違いをする
貧乏人だ。どうせお金など持っていないだろう。
その薄汚れたぼろ布で清潔な家には入っていただきたく
ないものだ。どう追い返せばいいか思案を巡らせながら
部屋の棚からランプを取り出し灯りを点すと、
アデルは部屋のドアを開けて廊下に出た。
やはり寒い。ここは重要拠点であり、
一日中薪をくべることも可能だが、
全室というわけにはいかない。所詮、使用人の部屋だ。
金持ちの中には、看護をするものがボロボロの部屋で生活
していると不安に思うものもあり。
そのおかげで、アデルもよい生活ができるわけだが。
もっとも受診しに来た先の医者や看護スタッフが
血色の悪い唇をしていたらかなり不安だろう。
さて
ドア越しに話しかけることにした。こういった乞食に
ドアを開けるのは勇気がいる。だから、ドアを開けずに
帰ってもらえるのが最良だ。
まずは代金の確認だ。そう考え、
「あのう、お代はお支払いいただけるのでしょうか。」
「全額前払いでないと受け付けることはできませんが。」
アデルは経験からお金は持っていなさそうだなと見当をつけ
それでも返事を待った。本人にお金がありませんと
申告させることは重要だ。医者は慈善事業でなくビジネスだ。
そう考えないものは、教会に行って神にでも祈ればいい。
「救貧院か教会に行かれてはどうですか。」そう言うと、
青年はやつれてボロボロの少女を抱えて必死に声を絞りあげた。
「お、お金はありません。」
(ああ、そう)しかし叫ばれるのは迷惑だ。
この類は、学習能力もなく、ただ叫ぶだろう。
何の工夫もない「お願い」はだれもいらない。
しかも、少女が死んだら恨みそうだ、困った。
ドアの中ほどにある覗き穴からじっと覗きながら、
アデルは兄妹の様子を注視していた。
アデルとしても、まったく同情しないわけではない。
自身も、もともとユダヤ貧民街ゲットーで、
ゴミを拾って暮らしていた。しかし、少なくとも誰かが
助けてくれるとは考えていなかった。
この診療所の主のガブリエルに治療を受けた時
諜報員に空きがあり、恩義を重く受け止めた、
忍耐強く、常識人である、使い捨てのエージェントと
なっただけだ。同情だったかもしれない、故に
幸運なことにゲットーを出て住み込みで、
看護の仕事をしている。
静かになったと思ったら、その青年はアデルの想定していない
言葉を吐いた。
「あ、あのう、宝石ではダメでしょうか。おそらく
ダイヤモンド、それにルビー サファイヤ。」
青年は怯えるようにそう言った。
「えっ。」
さすがのアデルも驚いて思わず声を出してしまった。
動揺を悟られないように口に手を当て、深呼吸をする。
金持ちやユダヤ人ならともかく、こんな浮浪者が
闇医者に宝石を持ってくる。ただ事ではない。
これは、医者という副業ではなく、本業である
諜報活動としてのお仕事のようだ。
反応のないアデルに向かって、青年は何かを悟ったらしく
こう付け加えた。
「知人に宝石商がいまして、財産を持ち運びできるように
宝石に交換して、ウェールズからマンチェスターに
出てきたんです。」ライアンもこんな嘘が通用するとは
まったく思っていなかった。だが、妹を助けたい。
「お願いします。」意識が遠のき、体が崩れ落ちる瞬間、
ドアのカギの開く音を、聞いた気がした。
アデルはいぶかった。なんて馬鹿な男だい。
盗品だと言っているもんだよ。
しかし、この量は異常すぎる。
(なんで、こんなに宝石を持っているんだい。)
(不自然だねぇ、放っておくわけにはいかないねぇ。)
アデルは一大決心をした。すごい演技をするぞと気合を入れた。
できるだけ、慈愛に満ちて心配する、優しいお姉さんに
見えるように。
「そうだねぇ、まあいいわ。どんとまかせな。」
「いま先生を呼んであげる。」
ドアを開けると、喜んだその兄妹をせかすように招き入れた。
絶対に逃がさないように。
「先生、先生、急患です。」
アデルは家中の人間に聞こえるように大声で叫んだ。
アデルとしては銅鑼でも鳴らして回りたい気分だ。
寝ぼけた使用人や同僚の看護の者が一斉に起きてきた。
「なんだ、なんだ、うるさいな。」
アデルのあるじでありラビであるガブリエルは不機嫌そうだ。
しかし、アデルという人物が無意味にこんなことをする馬鹿
でないことや、いたずらをする人物でないことも知っていた。
何か緊急の事案でもあったのだろう。
寝ぼけた頭を起こすためガブリエルは、
凍りつくように冷たいバケツの水に頭を突っ込むと
10秒ほど息をとめ顔をあげた。
鼻から水が入りむせた。
タオルを取って顔と頭を拭くと寒さが身に浸みた。
だが、頭はかなりはっきりした。
アデルは寝ぼけた使用人に兄妹を案内するように言うと
医師ガブリエルに青年から受け取った皮袋の中身を見せた。
何事かと思っていたが、ガブリエルも心臓が止まるかと思った。
信じられないほどの大量の宝石だ。
「どうやって、・・・手に入れたんだ。」
ガブリエルも思わずうめいていた。
ガブリエルは気持ちを切り替え、
医師としてではなく、諜報員として、
青年からできるだけ多くの情報を聞き出すことにした。
ガブリエルは心配そうに患者を診ると深刻そうに言った。
「かなり重症だ。栄養状態の良いところで、
長期間休養すれば命は助かるだろう。だが、
いままでの生活を続けるならば、近い将来
確実に命を落とすだろう。」
諜報員とはいえ医師だ。
義務は果たした。
青年は言った。
「代金は宝石で払います。」
「ウム、わかった。」
そう言うとガブリエルは考え込んだ。
「おじょうちゃん、名前はなんていうの。」
アデルは気さくに妹に話しかけた。
「グレイスだよ。グレイス・マクレガー。」
妹の答えを聞いた青年は仕方なく名乗った。
「俺は ライアン・マクレガーと言います。」
ガブリエルは押し殺すように聞こえるように呟いた。
「私としても救える命を救えないのはつらい。
だがこの宝石を君が持っている理由を知らなければ
対価として受け取ることはできない。」
医者は暗に出所を言わないと妹を見捨てると言っているのだ。
「先生、宝石商の知り合いがいるらしく、
全財産を宝石に変えてこちらに来たと・・・」
「黙りたまえ、アデル君。」
わざとらしいアデルとガブリエルの会話。
ガブリエルは問うた。
「きみは現金をこの宝石に変えたと言ったね。
では、君はこの宝石が何ポンドに相当するかわかるかね。」
自己の全財産だ。答えられない人間などいないだろう。
だが、ライアンは答えられなかった。
ガブリエルは優しく言った。
「盗品なんだね。」
「本来であれば、盗品の宝石を受け取るわけにはいかないし
私は君を死刑台に突き出さねばならない。
だが君が正直に話してくれるのならば、グレイスの
身柄は保障しよう。治療後、我が家で面倒を見てもよい。」
「君が直接殺して奪ったとか言うならともかく、
拾ったとか盗んだというだけなら見逃そう。」
あまりにも寛大な条件にライアンは混乱してしまった。
騙されているのではないかとも思った。
妹の命が掛っている、頭を必死に回転させた。
そんなとき、アデルがポツリとグレイスに話しかけた。
「わたしも治療費の払えない乞食だったんだよ。
毎日ゲットーでゴミを漁ってたよ。」
「それ、ほんとう。」
グレイスは無邪気に尋ねた。
ライアンにとって、この話はあまりにも都合がよすぎた。
だが、ほかに頼るところもない。
そもそも、この人たちが自分をだますメリットがない。
事情は呑み込めないが、縋るしかないのだ。
ライアンは腹をくくり、すべてを話すことにした。
ガブリエルは宝石はすべて放棄することを条件に
ライアンにまともな服や銀貨を渡し、
別の街のゲットーへ行くように言った。
「すぐに逃げたほうがいい。
妹さんのことは私が命に代えても守る。」
ガブリエルはそういうとアデルに指示を飛ばした。
ライアンは地面にひれ伏し、心からお礼を言った。
ガブリエルは少女をベッドに寝かせ 体を拭く様に
言うと、蒼白な顔をアデルに向ける、
今すぐゲットーの反ユダヤ主義へのレジスタンス活動拠点に
連絡するように言った。
アデルは事態をよく飲み込めずにいたが、
緊急であることは理解した。
ライアンを引き連れ早朝の街に飛び出した。
(逃げるかも、いや妹がいる。あれだけの宝石を盗めば
法律で死刑だ。盗賊団も拷問するだろう。
恩義は恐怖を超えることもあるか。)
アデルはそう判断し、ゲットーに走りこんだ。
事情をライアンから聞いたレジスタンスの男は言った。
「至急、ハッペンハイムに連絡を請う。」
それを聞くと大慌てで、2人の男が別々の方向に
飛び出していった。
「これだけの量の宝石がカルテルに見咎められぬとはな、くっ。」
男は歯軋りし、吐き捨てた。
「至急、ハッペンハイムに連絡を請う。」
今度は、その男ともう二人が外に走りだした。
全速力で走っているのだろう、見る見る姿が小さくなる。
「はぁ、どうするんだろうねぇ。」
アデルはそう溜息をつきながら、立ち尽くしていた。
多くの人々は畑を耕して、作物を育て
それを食べて暮らしてきた。
しかし今や、両側の道には雑草が生い茂り
流れる水は汚れ、小麦も芋も取れない
汚れて、実りのない大地が続いている。
ここは、18世紀の半ばの大英帝国。
陽もまだ上がりきらない午前浅く、一人の青年が
一人の少女を抱え込みゆっくりと歩く。
青年はよわよわしく息をする少女を心配して、
自分を励ますように声をかけ続けていた。
「がんばれ、グレイス。」
「がんばれ、グレイス。」
農村から都市部へ働きに来た彼らの親の世代は
過酷な労働環境で死に、残された彼らは
スリや泥棒、殺人をも犯していた。
工場の下水の流れこむ劣悪な環境の
川とは名ばかりのゴミだめで暮らす彼らには
希望などない。
工場の吐き出す灰色の煙と、悪臭の漂う
糞尿の流れこむ場所、そこが彼らのすべてだ。
普段どおり、スリや置き引きで稼いでいる彼らは
身なりのいい紳士から金貨の多く詰まっているであろう
革袋を手に入れた。そこには山のような宝石が入っていた。
窃盗団としても宝石を金には変えたかったが
これだけ大量の宝石では足がつくだろうことくらい
子供でも分かる。
頭領は無造作に宝石の入った革袋を倉庫に放り込むと
酒を飲んで寝込んでしまった。
彼、ライアン・マグレガーの妹は半年くらい前から
体調を崩している。原因は分からないが
唯一の肉親が死んでしまうのではないかと苦しんでいた、
それに盗賊ギルドのみんなも心配していた。
犯罪者の集団ではあるが、彼らは極悪人の集団などではなく
道徳的な意味では、善良なる者たち、であろう。
社会の構造が彼らから住む場所を奪い、工場は畑を奪い去った。
当然、彼らが医者にかかることなどなく、乞食同然の彼らに
ライアンの妹を助ける手段はなかった。
窃盗団の頭領も、宝石は換金できないとあきらめ
ゴミのように放置されていた。
ライアンはこんな生活から抜け出したかった。
自分は無理でも、せめて妹にはまともな生活を送ってほしい。
窃盗団で宝石を持ち出しても誰も怒らないだろうし、
このチャンスに、妹を腕のいい医者に診せてやりたかった。
だが、代金が大量の宝石では怪しまれる。
だから、闇の医者を探し求めていた。
宝石は英語で「ジュエル」、ユダヤ人の扱うものだ。
宝石の換金とともに、医者を探していることを
聞いて回ると、ある場所に行くように言われた。
彼らには不似合いな高級住宅街の一角を歩いていた。
朝早く、夜明け前ということもあって、見咎めらる事はない。
10月のマンチェスターは夜明け前ということもあって
凍えるような寒さだ。ライアンの着ている穴だらけの
薄いシャツとボロボロの半ズボンで耐えるには
かなりの忍耐を要する。
薄いぼろ布に包まれた病弱で顔が土色の妹が心配だ。
死んでしまうのではないかと思える。
自分たちの住んでいる汚泥と糞尿にまみれた街と
ここはなぜこんなにも違うのだろう。
日曜日の教会で、憎きブルジョアと叫ぶ
神父の言葉が身に凍みる。
それから、15分ほど歩き続けると、目的の場所が見えてきた。
これだけの宝石があれば、ずっと暮らしていけるだろう。
闇医者といえど鬼ではないのだ。
これだけの報酬を払えば大丈夫。
そう思い決意を固め叫んだ。そして、
根拠のない言い訳を心の中で呟きながら
ドアを強くノックした。
妹を置いていくのは心苦しいが、盗賊団にとって価値はなく
捨て置かれた宝石とはいえ、無断で持ち出したのだ、
掟に従い、過酷な制裁が待っているだろう。
それがルールというものだ。
たとえ犯罪組織であっても。
「夜分すみません、開けてください、ドアを開けてください。」
ライアンの声は静まり返った朝の空気に響いた。
アデルは早朝、外で物音がするような気がして起きた。
寒さで乾燥した空気が絡みつき、喉がひりつく様だ。
ベッドの脇に置いてある陶器製の水差しから、陶器のコップに
水を注ぐと、流し込むように飲みこんだ。
喉の痛みは少しましになったようだ。
高級住宅街らしく、部屋の調度品もそれなりのもので
使用人として暮らしているアデルのベッドは
なんと、天蓋付きだ。
とはいっても新調したものではなく、
破産した貴族の邸宅から売りに出されたものを
購入したものだ。
ユダヤ人がこんなところに暮らしているのは重大なリスクだ。
もちろん、大英帝国ではユダヤ人への差別も少なく、
寛大なほうだ。
これがフランスやイスパニアならいつ殺されてもおかしくない。
2階にある自室の窓を開けてみると、ドアの前にボロボロの
服を着た乞食にしか見えない兄妹が座り込み、
大声で必死に叫んでいた。
そもそも、ここに来るのは同胞の富裕層であり、
王家の侍従医を頂点とする、数百年より長く続く
ユダヤ人の積み上げたヒューミントの結晶なのだ。
高級住宅街にある、立派な家。
しかも、家具調度品は貴族の家と同レベル、
こんな場所がスパイ活動の拠点だとは、
なかなか気がつきにくいものだ。
スパイは香り高い紅茶と共にあるのだ。
おそらく、単なる闇医者とでも思っているのだろう。
免許制度のない時代に、光の医者も闇の医者も
ないだろうとは思うが、ここが闇の医者と呼ばれる所以は
患者を選ばないことだ。
その理由は、怪我をするということは、何かの事件に
巻き込まれていたりする、また、支払われる金銭の出所が
怪しい場合、情報が隠れていることが多いからだ。
そして、そういう患者はたいてい口が堅い。
そして、こちらに都合が悪ければ殺してしまえる。
ただ、扱いに困るのが、こういう馬鹿な勘違いをする
貧乏人だ。どうせお金など持っていないだろう。
その薄汚れたぼろ布で清潔な家には入っていただきたく
ないものだ。どう追い返せばいいか思案を巡らせながら
部屋の棚からランプを取り出し灯りを点すと、
アデルは部屋のドアを開けて廊下に出た。
やはり寒い。ここは重要拠点であり、
一日中薪をくべることも可能だが、
全室というわけにはいかない。所詮、使用人の部屋だ。
金持ちの中には、看護をするものがボロボロの部屋で生活
していると不安に思うものもあり。
そのおかげで、アデルもよい生活ができるわけだが。
もっとも受診しに来た先の医者や看護スタッフが
血色の悪い唇をしていたらかなり不安だろう。
さて
ドア越しに話しかけることにした。こういった乞食に
ドアを開けるのは勇気がいる。だから、ドアを開けずに
帰ってもらえるのが最良だ。
まずは代金の確認だ。そう考え、
「あのう、お代はお支払いいただけるのでしょうか。」
「全額前払いでないと受け付けることはできませんが。」
アデルは経験からお金は持っていなさそうだなと見当をつけ
それでも返事を待った。本人にお金がありませんと
申告させることは重要だ。医者は慈善事業でなくビジネスだ。
そう考えないものは、教会に行って神にでも祈ればいい。
「救貧院か教会に行かれてはどうですか。」そう言うと、
青年はやつれてボロボロの少女を抱えて必死に声を絞りあげた。
「お、お金はありません。」
(ああ、そう)しかし叫ばれるのは迷惑だ。
この類は、学習能力もなく、ただ叫ぶだろう。
何の工夫もない「お願い」はだれもいらない。
しかも、少女が死んだら恨みそうだ、困った。
ドアの中ほどにある覗き穴からじっと覗きながら、
アデルは兄妹の様子を注視していた。
アデルとしても、まったく同情しないわけではない。
自身も、もともとユダヤ貧民街ゲットーで、
ゴミを拾って暮らしていた。しかし、少なくとも誰かが
助けてくれるとは考えていなかった。
この診療所の主のガブリエルに治療を受けた時
諜報員に空きがあり、恩義を重く受け止めた、
忍耐強く、常識人である、使い捨てのエージェントと
なっただけだ。同情だったかもしれない、故に
幸運なことにゲットーを出て住み込みで、
看護の仕事をしている。
静かになったと思ったら、その青年はアデルの想定していない
言葉を吐いた。
「あ、あのう、宝石ではダメでしょうか。おそらく
ダイヤモンド、それにルビー サファイヤ。」
青年は怯えるようにそう言った。
「えっ。」
さすがのアデルも驚いて思わず声を出してしまった。
動揺を悟られないように口に手を当て、深呼吸をする。
金持ちやユダヤ人ならともかく、こんな浮浪者が
闇医者に宝石を持ってくる。ただ事ではない。
これは、医者という副業ではなく、本業である
諜報活動としてのお仕事のようだ。
反応のないアデルに向かって、青年は何かを悟ったらしく
こう付け加えた。
「知人に宝石商がいまして、財産を持ち運びできるように
宝石に交換して、ウェールズからマンチェスターに
出てきたんです。」ライアンもこんな嘘が通用するとは
まったく思っていなかった。だが、妹を助けたい。
「お願いします。」意識が遠のき、体が崩れ落ちる瞬間、
ドアのカギの開く音を、聞いた気がした。
アデルはいぶかった。なんて馬鹿な男だい。
盗品だと言っているもんだよ。
しかし、この量は異常すぎる。
(なんで、こんなに宝石を持っているんだい。)
(不自然だねぇ、放っておくわけにはいかないねぇ。)
アデルは一大決心をした。すごい演技をするぞと気合を入れた。
できるだけ、慈愛に満ちて心配する、優しいお姉さんに
見えるように。
「そうだねぇ、まあいいわ。どんとまかせな。」
「いま先生を呼んであげる。」
ドアを開けると、喜んだその兄妹をせかすように招き入れた。
絶対に逃がさないように。
「先生、先生、急患です。」
アデルは家中の人間に聞こえるように大声で叫んだ。
アデルとしては銅鑼でも鳴らして回りたい気分だ。
寝ぼけた使用人や同僚の看護の者が一斉に起きてきた。
「なんだ、なんだ、うるさいな。」
アデルのあるじでありラビであるガブリエルは不機嫌そうだ。
しかし、アデルという人物が無意味にこんなことをする馬鹿
でないことや、いたずらをする人物でないことも知っていた。
何か緊急の事案でもあったのだろう。
寝ぼけた頭を起こすためガブリエルは、
凍りつくように冷たいバケツの水に頭を突っ込むと
10秒ほど息をとめ顔をあげた。
鼻から水が入りむせた。
タオルを取って顔と頭を拭くと寒さが身に浸みた。
だが、頭はかなりはっきりした。
アデルは寝ぼけた使用人に兄妹を案内するように言うと
医師ガブリエルに青年から受け取った皮袋の中身を見せた。
何事かと思っていたが、ガブリエルも心臓が止まるかと思った。
信じられないほどの大量の宝石だ。
「どうやって、・・・手に入れたんだ。」
ガブリエルも思わずうめいていた。
ガブリエルは気持ちを切り替え、
医師としてではなく、諜報員として、
青年からできるだけ多くの情報を聞き出すことにした。
ガブリエルは心配そうに患者を診ると深刻そうに言った。
「かなり重症だ。栄養状態の良いところで、
長期間休養すれば命は助かるだろう。だが、
いままでの生活を続けるならば、近い将来
確実に命を落とすだろう。」
諜報員とはいえ医師だ。
義務は果たした。
青年は言った。
「代金は宝石で払います。」
「ウム、わかった。」
そう言うとガブリエルは考え込んだ。
「おじょうちゃん、名前はなんていうの。」
アデルは気さくに妹に話しかけた。
「グレイスだよ。グレイス・マクレガー。」
妹の答えを聞いた青年は仕方なく名乗った。
「俺は ライアン・マクレガーと言います。」
ガブリエルは押し殺すように聞こえるように呟いた。
「私としても救える命を救えないのはつらい。
だがこの宝石を君が持っている理由を知らなければ
対価として受け取ることはできない。」
医者は暗に出所を言わないと妹を見捨てると言っているのだ。
「先生、宝石商の知り合いがいるらしく、
全財産を宝石に変えてこちらに来たと・・・」
「黙りたまえ、アデル君。」
わざとらしいアデルとガブリエルの会話。
ガブリエルは問うた。
「きみは現金をこの宝石に変えたと言ったね。
では、君はこの宝石が何ポンドに相当するかわかるかね。」
自己の全財産だ。答えられない人間などいないだろう。
だが、ライアンは答えられなかった。
ガブリエルは優しく言った。
「盗品なんだね。」
「本来であれば、盗品の宝石を受け取るわけにはいかないし
私は君を死刑台に突き出さねばならない。
だが君が正直に話してくれるのならば、グレイスの
身柄は保障しよう。治療後、我が家で面倒を見てもよい。」
「君が直接殺して奪ったとか言うならともかく、
拾ったとか盗んだというだけなら見逃そう。」
あまりにも寛大な条件にライアンは混乱してしまった。
騙されているのではないかとも思った。
妹の命が掛っている、頭を必死に回転させた。
そんなとき、アデルがポツリとグレイスに話しかけた。
「わたしも治療費の払えない乞食だったんだよ。
毎日ゲットーでゴミを漁ってたよ。」
「それ、ほんとう。」
グレイスは無邪気に尋ねた。
ライアンにとって、この話はあまりにも都合がよすぎた。
だが、ほかに頼るところもない。
そもそも、この人たちが自分をだますメリットがない。
事情は呑み込めないが、縋るしかないのだ。
ライアンは腹をくくり、すべてを話すことにした。
ガブリエルは宝石はすべて放棄することを条件に
ライアンにまともな服や銀貨を渡し、
別の街のゲットーへ行くように言った。
「すぐに逃げたほうがいい。
妹さんのことは私が命に代えても守る。」
ガブリエルはそういうとアデルに指示を飛ばした。
ライアンは地面にひれ伏し、心からお礼を言った。
ガブリエルは少女をベッドに寝かせ 体を拭く様に
言うと、蒼白な顔をアデルに向ける、
今すぐゲットーの反ユダヤ主義へのレジスタンス活動拠点に
連絡するように言った。
アデルは事態をよく飲み込めずにいたが、
緊急であることは理解した。
ライアンを引き連れ早朝の街に飛び出した。
(逃げるかも、いや妹がいる。あれだけの宝石を盗めば
法律で死刑だ。盗賊団も拷問するだろう。
恩義は恐怖を超えることもあるか。)
アデルはそう判断し、ゲットーに走りこんだ。
事情をライアンから聞いたレジスタンスの男は言った。
「至急、ハッペンハイムに連絡を請う。」
それを聞くと大慌てで、2人の男が別々の方向に
飛び出していった。
「これだけの量の宝石がカルテルに見咎められぬとはな、くっ。」
男は歯軋りし、吐き捨てた。
「至急、ハッペンハイムに連絡を請う。」
今度は、その男ともう二人が外に走りだした。
全速力で走っているのだろう、見る見る姿が小さくなる。
「はぁ、どうするんだろうねぇ。」
アデルはそう溜息をつきながら、立ち尽くしていた。
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