羽化の囁き

神楽冬呼

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第1話 ハイツ・スローネ

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携帯電話の目覚ましアラームで目を覚ます。
「……………ん」
アラームに反応して、後ろから脇腹に置かれた腕が微かに動き、頭に頬ずりされる。
髪にかかる吐息がくすぐったい。
それが当たり前の朝。
眉目秀麗、才色兼備、天使の血を色濃く受け継いでいるこの青年は、どうやら朝に弱いらしい。
同棲を始めて早1ヶ月、青年が先に起きたことはない。
葵は、恐る恐る脇腹の腕を避け、そっとベットを抜け出す。
そして足早にトイレへと飛び込んだ。
(急がないとっ)
トイレのあとは洗面所で慌てて顔を洗い、化粧をする。
別に、スッピンを見せていない訳ではないし、化粧をしたところで変わり映えするかと言うと、そうでもない…………が、鏡に向かって真剣な顔で化粧をする姿を見られるのは抵抗があるのだ。
以前は別々の部屋があり、眠る時だけ一緒だったから、トイレも洗面所も完全に個別だった。
同じ部屋で暮らし、トイレも洗面所も共同となると、センシティブな部分がかなり多い。
恋愛初心者にはハードルが高過ぎた。
化粧を終え、こっそり寝室を覘く。
足音を忍ばせベットに近づき、葵は腰を下ろした。
先程まで自分がいた腕の中に枕がある。
大概、葵が腕の中からいなくなると、こうなっている。
何かを腕に抱いて眠るのが癖のようだ。
変に意識して眠れない時もあったけれど、今はこの腕なしに一人で眠れる気がしない。
十代の幼さが露わになる要の寝顔は、未だに違和感が残るが、最近は可愛らしく見えたりもする。
葵はそっと要の前髪に触れた。
その手を要が捕まえる。
「おはよ、要くん」
声をかけると長い睫毛に縁取られた瞼が開いて、要はゆっくり体を起こした。
「おはよう、葵さん…………」
背後から腕が回され、抱き寄せられる。
背中から伝わる温もりが心地良い。
細いけれど、しっかりと筋肉のついた力強い腕の中はとても安心する。
同棲のハードルなんか、とても些細に思えてくる至福のひと時。


「おはようございます」
朝7時半、身支度を済ませてすぐに1階にある喫茶陽だまりに向かう。
「おはよう、要に葵ちゃん」
カウンターの中で笑顔の満琉が出迎えてくれて、一緒に朝食を準備することが習慣になった。
「いつも仲が良いわね。要はもう少し遅くてもいいんじゃない?」
カウンターに座り、新聞を広げる要に満琉が声をかける。
「少し遅いと言っても30分くらいですよ。それなら一緒でいいです」
新聞から目も上げずに応える要に満琉はコーヒーを差し出した。
「ふぅ…………ん」
満琉は鼻から声を上げ、隣にいる葵を肘でつつく。
「一緒がいいんですって、一緒がっ」
悪戯な笑みを浮かべる満琉に葵は頬が熱くなった。
「満琉さん、『で』ですよ、『が』じゃなくって」
慌てる葵に満琉が笑い、要が口元だけで笑うと葵を見た。
「あの顔、『が』でいいみたいよ」
要の顔を見て、満琉が葵に耳打ちする。
どっちだって嬉しい。
『で』でも『が』でも、一緒なら…
葵はレタスを指で千切りながら、上目遣いに要を見た。
最近、要はまた眼鏡をかけ始めた。
眼鏡のレンズ越しに見える要の瞳が、氷の張った湖面がその下を見せないように、秘めた何かを思わせる。
「ほら、見つめ合ってないで、作るわよ」
「…………はい」
満琉は何かと冷やかしてくる。
気恥ずかしいのが80%、嬉しいのが20%、主に恥ずかしい気持ちが勝っていてリアクションに戸惑う。
静かにドアノブが回され、短髪に眼鏡、ライダースジャケットを羽織った篠宮が姿を見せた。
スッと伸びた背筋、長い手足に、気品すら感じさせる紳士的な面持ち、それに不釣り合いなライダースジャケットが強く印象に残る。
「おはようございます」
カウンターに座るのかと思いきや、挨拶を交わすと篠宮の足が外への扉へ向く。
「おはよう、今日は早く出る日?」
満琉が篠宮の背中を呼び止める。
「はい、少々調べ物がありまして」
篠宮は隔日勤務のタクシードライバーである。
出勤は午前10時からと普段はゆっくりと朝食をとっている。
どうやら朝食を食べずに出るらしい。
葵は様子を伺いながら、ステンレス製水筒を手に取る。
「のちほどお昼に立ち寄ります」
バイクの鍵を手に店を出ようとする篠宮の後を葵は追った。
「篠宮さん、コレ珈琲だから良かったら」
呼び止めて水筒を差し出すと、篠宮は意表をつかれたのか、しばし沈黙した。
「…………いらない、ですか?」
余計な事だったかと水筒を引っ込めようとしたら、篠宮が水筒を掴んだ。
「頂きます。お気遣いありがとうございます」
「行ってらっしゃい」
ほんの一瞬、口元に笑みを浮かべてから篠宮が店を出て行く。
口数が少なく、物静かで感情を表に出さないタイプだけに、表情は読み取り難いけれど、葵は篠宮に親しみを覚える。
未だに篠宮の前世が誰なのか知らないけれど、多分関わりがあったのだと思う。


前世で繋がりがあると、言葉では説明できない不思議な感覚に陥る。
魂の中に宿る記憶なのだろうか。
理屈では測りし得ない、魂の邂逅。
宿命、運命、愛や憎しみ、怒り、後悔…………ありとあらゆる想いを乗せて、魂は回帰する。
6階建の店舗兼賃貸住宅であるハイツ・スローネは同じ前世を共有する限られた者たちが棲む聖域。
1階にある喫茶陽だまりは住人たちの憩いの場となっている。


「おっはようございまーす」
朝8時近く、壊れんばかりの勢いでエレベーターホールから続くドアが開かれる。
「こら!静かに開けてって言ってるでしょう」
そして、満琉から毎朝、小言で朝の挨拶を返される和希はハイツ・スローネの新参者だ。
「大丈夫だって!鍛えられて強くなんだよ」
満琉の小言など意に介さず、和希は笑い飛ばす。
「まったく…………」と呟く満琉だが、和希のことを嫌っている訳ではないらしい。
相良和希、大学休学中にして、家出中の22才、スローネの家賃を労働で支払う居候。
ワックスで毛先を遊ばせルーズなニュアンスにセットしている茶髪に、ダメージジーンズ、見た目を裏切らず中身もしっかりチャラい青年である。
和希はカウンターに座らず、朝食を食べる葵の元へと歩いてきた。
カウンターから少し離れたテーブル席で要と葵は朝食をとっている。
住人が増えたからと、言うのは建前で、要が和希と一緒にカウンターに座りたくないのだと葵は感じている。
「あーおい、おはよ」
「おはよ、和希くん」
葵の肩に手を置いた和希を要は鋭い眼光で睨みつけた。
その視線を真っ直ぐに受け止め、和希がニヤリと笑う。
「おはようございます、兄上様。今朝のご機嫌はいかがですかね?」
「…………たった今、気分を損ねたところだ」
「それは良かった!」
要の眉間のシワが一層深くなる。
この二人、前世では兄弟であり、色々あったらしく見た目では仲が悪い。
利害の一致と言うことで、協力し合っている部分もあるが、最近和希が図に乗り出した。
当たらず障らずで距離を置けばいいのに、と葵は思うのだけれど、和希が何かと要に接触してくる。
「お前はあっちだ」
テーブル席に座ろうとする和希に、迷惑そうに要が言い放つ。
「…………あー、ハイハイ」
仕方なさそうに言いながら和希が背を向ける。
兄弟と言うより、頑固親父と反抗期の息子のような、そんな雰囲気だ。
そして、ぐしゃぐしゃの鳥の巣頭にヨレヨレの上下スウェット姿の男が、大きな欠伸をしてエレベーターホールからのドアを開けた。
ハイツ・スローネ所有者、西園寺 祥吾。
「おはよう…………祥吾、貴方のその格好」
満琉が驚ろきを隠せずに眉を上げ瞳を見開いた。
「これから依頼者がくるのよ」
「あ?そうだっけ?だけどほら、対応すんの要だろ?」
新聞を手に祥吾はカウンターに座る。
「俺はいないと思ってよ」
ギブスをはめた左腕をカウンターに上げ、ヘラヘラと笑った。
最近、祥吾は何かと無気力だ。
仕事にほぼ関わらなくなっている。
「…………祥吾さん、元気ないね」
葵はカウンターを振り返る。
「まだ怪我が痛むのかな??」
「静かで何よりです」
口元だけで笑い、要はティーカップを置いた。
口元は笑っているのに、眼鏡の奥にある目は笑っていない。
多分、要は祥吾が仕事に関わらない理由を知っているか、気づいているのかもしれない。
葵は何も言わずにカップを手にとった。
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