羽化の囁き

神楽冬呼

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第7話 闇

「なー、あの後どーなったんだよ」
和希がうるさい。
普段は仕事中、離れた場所で昼寝をしたりナンパをしたりしているのに、今日は出勤中からずっと質問攻めである。
「もう、仕事にならないじゃない。30分だけでいいから離れてて」
棚に本を戻しながら葵は溜息を吐いた。
実際、教えてあげられるようなことがなかったりもする。
部屋に戻り、お互いシャワーを浴び、いつものように一緒に眠り…眠っただけ。
ベットに入りキスをして、正直その先があるのかと覚悟したけれど、キスだけで終わり「おやすみ」だった。
(タイミングが、わからない…)
男の人って、いつ、何時なんどき、そう言う欲情スイッチが入るんだろうか。
「…つまんねーの。じゃー、ちょっと茶してくる」
和希は拗ねたような口調で棚の合間から出て行った。
流石に、和希に欲情スイッチの件は聞きにくい。
要と和希では、スイッチの数も場所もかなり違うだろうし…
葵はまた深く大きい溜息を吐いた。
「…深い溜息ね。悩み事かしら」
ふいに背後で声がした。
薫る花のような、まったりと甘い声。
「深鈴さん…」
振り返り、葵は数歩下がる。
深鈴が葵を見る目は、冷たく突き刺さる敵意以外なかった。
「私にはわからないわ…なぜ、貴女なの?」
怒りに震えた唇には、何も塗られていない。
あの鮮やかで艶やかな余裕を浮かべた唇が消えていた。
「要様の求める姿形、家柄だって申し分ない、全て完璧なのに」
うわ言のような言葉が異様な気配を生む。
この感じを葵は知っている。
に取り憑かれた者が見せる、虚ろな気配…人の欲に食らいつき、その欲を助長させる。
「この私を選ばないなんて…」
違うのは、その瞳だ。
闇に操られた者は皆一様に焦点のない虚ろな眼をしていた。
深鈴の瞳には怒りが込められている。
「私では血を深められないだなんてっ」
徐ろに深鈴がハンドバッグに手を入れる。
「一族の再興も私たちの未来には必要なことなのに…お父様が言っていたわ。天使えの血は薄まり続け、いずれ転生者がいなくなると…」
…転生者がいなくなる?
覚醒する者がいなくなるということは、あの時代に生きた架南たちの記憶が蘇ることがなくなると言うことだ…
本当にのだ…架南たちが。
深鈴の体が動くのが見えて、気づいた時には遅かった。
ナイフを手にした深鈴が飛びかかってくる。
焦りと恐怖で混乱する中、要の顔が声が浮かんだ。
刃物で襲われた時の対処法…
『片足を軸にして回転し、直線上からいなくなること』
要に教わった護身術。
(私だって、ただ側にいただけじゃない!)
葵はとっさに左足を軸にして体を回転させ、飛び込んできた深鈴の背中に回り込む。
『背後から首を掴み、体重をかけて押し倒す』
深鈴の首筋を掴み、力一杯背中にぶつかった。
ナイフが深鈴の手を離れ、床を滑る。
「……っ!」
冷たい床に顔を押し当てられた深鈴が声にならない声を上げた。
深鈴の首を掴み押さえつけたまま、葵は荒い呼吸を繰り返す。
緊張と興奮で喉が張り付くように乾いた。
深鈴の背に馬乗りになる自分の脚が震えている。
(…どうしよ、こっから先がわからない!)
深鈴の顔を葵はそっと覗きこむ。
噛み締める唇に、大きく見開かれた瞳…その瞳の白眼に黒い影が揺らいだ。
…闇がいる、深鈴の中に。
それに気づいて葵は一瞬怯んだ。
闇に取り憑かれた闇人やみびとには、何度も襲われてきた。
その過去の恐怖トラウマが、そうさせる。
体がすくんで、手が緩んだ。
その隙をつかれ、深鈴が頭を上げ葵の体を跳ね除ける。
棚に後頭部を打ち付け、葵の視界が揺れた。
「…お前なんかにっ」
深鈴が叫びながら馬乗りになり、その両手が葵の首に掴みかかった。
「お前がいなければ!あの人はっ…」
黒髪を振り乱す深鈴の、黒い瞳が見下ろしてくる。
ドロドロした闇が蠢く真っ黒な瞳…
その白く細い腕に青い血管が浮かび上がる。
『首を絞められた時…』
頭の中の要の声が霞む。
首に容赦なく深鈴の指が食い込み、頭にぼんやりと靄がかかる。
…苦しい、苦しくて、何も考えられない。
「葵っ?!」
和希の声が飛び込んできて、深鈴の手が首から離れた。
喉の奥が鳴り、急激に入り込んだ空気に激しく咳き込む。
「葵さん?!」
床に突っ伏した背中に手が触れる。
この声は…待っていた声、耳から聞こえる
「要くんっ…」
顔を上げてその手に、腕にすがりつく。
「うわ、ちょっ!やめろっ!!」
和希の絶叫が聞こえ、顔を上げると要の背後にナイフを振り上げた深鈴が見えた。
要は覆い被さる体勢で、左腕だけを持ち上げる。
その瞬間がまざまざと目に焼きつく、コマ送りの映画のように、要の左腕にナイフが食い込むのを、葵は見た。
「いやああぁぁ!!」
痛みに歪めた要の頬に、血が飛び散る。
要はそのまま拳を握ると腕を振り、深鈴を払い除けた。
床に倒れた深鈴を和希が押さえ込む。
「…要くん、腕が」
ナイフがそのまま要の腕に残っている。
「大丈夫ですよ」
フッと、要は口元に笑みを浮かべる。
「ここでますので」
ナイフを抜きもせず、要は深鈴の前へと歩み寄った。
要がボディバッグからペットボトルを取り出し、口でキャップを外すと中身を床にぶちまける。
水が緩々と盛り上がり、形を作った。
とぐろを巻く蛇の形へと…
「…なぜ、なぜ私ではだめなの」
深鈴は座り込み背後手に和希に拘束され、項垂れながら呟いている。
繰り返し、繰り返し、呪文のように。

「貴女が葵さんではないから、としか言えません」

要が静かにそれに応えた。
ピタリと深鈴の呟きが止まり、嗚咽と共に泣き声をあげた。
ユラユラと頭をもたげていた水蛇が、要の小さな頷きを合図に、口を開き深鈴の頭へと食らいつく。
そこへ、息を切らせた篠宮が駆け込んで来て、要に目配せをすると葵の元へとやってきた。
「呪縛が発動する前に行きましょう」
篠宮が葵の手を取り、即座に抱きかかえる。
「…あ、でも」
要を見ると、左腕からは血が滴っている。
深鈴は頭を水球に包まれ、もがいていた。
きっと間も無く闇は深鈴から離され、要により祓われる。
葵の言葉は聞かず、篠宮が歩き出す。
要がこちらを見て、頷いた。
優しく穏やかだけど、切ない瞳。
離れたくないのは、一緒なんだとわかった。


呪縛さえなければ、と何度も思った。
今とは違った形で一緒にいられる。
たくさんの可能性が広がる。
こんなことがあっても一番近くに最後までいられるのに…
もし、天使えの血が薄まり、転生者がいなくなれば、呪縛は消えるのだろうか。


篠宮によって病院に運ばれ、診察を受けた葵が陽だまりに戻ると、店の前に佇む人影があった。
「要くん?!」
葵が駆け寄ると、そのまま抱き寄せられる。
「…ここ外だよ」
「大丈夫、ギリギリ結界範囲内です」
要の声が、温もりが、堪らなく愛おしい。
葵は目を瞑り、要の胸の鼓動を聞く。
深く溶けていきそうな安心感。
要の腕の強さが増して、更に強く抱き締められて、葵はある事を思い出した。
「そうだ、左腕!」
ナイフで刺されているんだった…
要から体を離して葵は叫ぶ。
「応急処置はしたので、大丈夫ですよ」
適当にその辺の布を巻かれたような患部を見せて要は微笑む。
確かに、出血は止まっているようだけれど、どうしてこうも要は自分の負傷にはぞんざいなのか。
「手当て、してくれますか?」
葵が眉をしかめると、要がその顔を良く見ようとするかのように葵の頬にかかる髪を耳へとかけた。
要の指先がくすぐったい。
「…うん」
正直、病院に行って欲しいけど、頷いてしまっていた。
カランカラン、と鐘が鳴り店の扉が開く。
「そんなところでイチャついてないで、入りなさいよ」
溜息混じりに満琉が扉を開けていた。
それを確認した篠宮がタクシーを発進させる。
それまで篠宮がまだそこにいたことに葵は初めて気づき、恥ずかしくなる。
篠宮は病院に付き添う間も余計な事は言わず、ただ側にいてくれた。
気不味く感じてもいい時間のはずが、全くそんな事はなく、無口で静かな篠宮に救われたと思う。
「要くん、篠宮さんって…」
葵は言いかけて、やめる。
未だに篠宮の前世が誰かを知らない。
あえて、誰も明かしていないのだと思う。
知りたい気持ちもあるが、今は知らなくていいのかも知れないと思った。
「手当て、葵ちゃんがするんですって?」
篠宮に気をとられているうちに、満琉と要が何かを話していたようで、満琉が救急箱を持ってきた。
「はい、お願いね」
そう言って救急箱を葵に手渡す。
「あ、はいっ」
受け取ったはいいが、箱が大きいし重い。
一体何が入っているのかと思うほどだった。
「お客様がいるから、部屋でね」
そう言われて初めてお客様がいることに気づく。
そう言えば、今日は喫茶陽だまりの営業日…それなのに、店の前で抱き合っていたのかと思うと一気に頬が蒸気した。
「…すみません」
満琉に小さく謝り、すでにエレベーターホールへのドアを開けている要の元に急ぐ。
てっきり1階にある暖炉の間に行くのかと思ったら、4階の部屋に戻るのだと要が言う。
暖炉の間は何となく、人の気配がしたが深く考えずにエレベーターに乗り込んだ。
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