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8話 メリザの涙
8話 メリザの涙
夜会の翌朝、王宮はひどく静かだった。
もちろん実際には、人は動いている。侍女は朝の支度に追われ、侍従は来訪予定の変更を走って伝え、文官たちは昨夜の失態をどう記録し、どう言い繕うかで机にかじりついている。
だがその静けさは、秩序だった静寂ではない。
誰もが声を落とし、余計な一言を避け、下手に目立てば火の粉が飛ぶと知っている時の静けさだ。
つまり、最悪に近い朝だった。
「……北方侯爵家からの返書です」
王太子執務室で、文官が差し出した書簡をセルジュ・アストレアは乱暴に受け取った。
封を切り、中身に目を通した瞬間、その顔色がさらに悪くなる。
「なんだ、これは」
声は低いが、紙を持つ指には力が入りすぎていた。
文官は目を伏せたまま答える。
「昨夜のご挨拶に関しまして、今後の王家行事への出席は、時期を見て判断したいとのことです」
「時期を見て?」
「実質的には、距離を置くという意味かと」
セルジュは書簡を机に叩きつけた。
夜会の余波は、もう始まっている。
それも想像していたより早く、そして露骨に。
「たかが一度の夜会だぞ」
「一度、ではございますが」
年配の文官が慎重に言葉を選ぶ。
「王家の一度は、諸侯にとっては軽くございません」
「大げさだな」
「いいえ」
今度は別の重臣が口を開いた。
「問題は失敗そのものではなく、その失敗が“王家が弱っている証”と受け取られたことです」
セルジュは苛立たしげに舌打ちする。
誰も彼を慰めない。
誰も「昨夜は不運だった」とは言わない。
現場にいた者ほど、それが不運ではなく、積み重なった綻びの結果だと知っているからだ。
「コルネイユ嬢は?」
重臣の一人が問うた。
その言い方には、すでに冷たさが混じっていた。
セルジュは顔をしかめる。
「どうしてそこでメリザの名が出る」
「昨夜、北方侯爵夫人への挨拶で軽率な発言があったと報告を受けております」
「軽率ではない。少し親しみやすくしただけだ」
「その“少し”が命取りになる場でございます」
ぴしゃりと言い切られ、セルジュは不機嫌そうに黙り込んだ。
だが、反論はしない。いや、できないのだろう。
あの場の空気の凍り方は、彼自身も感じていたはずだから。
「……メリザはまだ慣れていない」
ようやく絞り出した言葉は、苦しい言い訳だった。
「これから学べばよい」
「王太子妃候補としての教育は、もちろん必要でございます」
重臣は淡々と答える。
「しかし昨夜のような公の場での未熟さは、王家そのものの未熟さとして見られます」
セルジュは拳を握った。
彼にとってメリザは、可憐で、自分を頼り、イザリエのように正論で追い詰めてこない存在だった。だからそばに置いた。だから守ってやりたいと思った。
だが今、その「守ってやりたい」という感情そのものが、王家の重荷になっていると突きつけられている。
それが面白いはずがない。
「……本人は何と言っている」
低く問うと、侍女長が一礼して前へ出た。
「コルネイユ嬢は、ご自身が責められていることに大変心を痛めておいでです」
「心を痛めている?」
「はい。『皆がわたくしばかり責めるのです』と」
セルジュは息を吐いた。
慰めに行くべきか、叱るべきか、一瞬迷ったような顔だった。だが結局、そのどちらも選びきれずに言う。
「……後で会う」
「かしこまりました」
その頃、王太子棟の奥にある客間では、メリザ・コルネイユが実際に泣いていた。
淡い桃色の室内着に身を包み、絹張りの長椅子に座った彼女は、膝の上でハンカチをぎゅっと握りしめている。目元は赤く、睫毛にはまだ涙が残っていた。
「どうして……」
か細い声で呟く。
「わたくし、そんなに悪いことを言いましたの……?」
傍に控えていた若い侍女は返事に困り、ただ頭を下げるしかなかった。
メリザに悪意があったとは言い切れない。
だが悪意がなければ許されるわけでもない。
むしろ上の立場へ行く者ほど、悪意のない無知がいちばん厄介だったりする。
「皆、イザリエ様なら、とか、フォンティーヌ様なら、ばかり……」
ぽろぽろと涙が零れる。
「そんなの、ずるいではありませんか。最初からできる方と比べられても、わたくし、困りますのに……」
その言い方には、被害者めいた響きがあった。
彼女の中では、本当に自分が「責められている側」なのだろう。
王太子に選ばれただけなのに。
少し可愛らしく、少し素直に、少し甘えただけなのに。
どうして皆、優しくしてくれないのだろう、と。
だがその幼さこそが、王宮では致命的だった。
扉が叩かれ、侍女が慌てて出迎える。
「殿下」
セルジュが入ってくると、メリザはすぐに立ち上がり、泣き腫らした目で彼を見上げた。
「殿下……」
その声は、以前なら彼の庇護欲を強く刺激しただろう。だが昨夜からの苛立ちと疲労が溜まっている今、セルジュの表情は硬いままだった。
「泣いていたのか」
「だって……」
メリザは唇を震わせた。
「皆が、わたくしのことを未熟だとか、軽いだとか……ひどいですわ。わたくし、ただ殿下のために、場を和ませようとしただけなのに……」
セルジュは彼女を見つめる。
可哀想だ、とは思う。
だがそれ以上に、今は面倒だ、という感情が先に立った。
「昨夜は少し、言葉が軽かった」
なるべく穏やかに言ったつもりだったが、メリザの顔はさらに曇った。
「殿下まで、そう仰るのですか……?」
「そういう意味ではない。ただ」
「ただ?」
「今は皆、神経質になっている」
「それは、わたくしのせいなのですか?」
その問いに、セルジュは即答できなかった。
完全に彼女のせいではない。
だが、彼女が火に油を注いでいる部分があるのも事実だ。
沈黙は時に、どんな言葉より雄弁である。
メリザはその沈黙を見て、はっと息を呑んだ。
「……そんな」
そして次の瞬間、彼女の目からまた涙が溢れた。
「わたくし、殿下に選ばれたから、頑張ろうと思いましたのに……!」
泣きながら一歩近づく。
「でも、何をしてもイザリエ様と比べられて、皆が冷たくて……わたくし、怖いですわ。どうして誰も優しくしてくれないの……?」
怖い。
優しくしてくれない。
その言葉は可愛らしく聞こえる一方で、王太子の伴侶候補としては、あまりにも弱すぎた。
セルジュは思わず、昨夜の広間を思い出す。
同じように大勢の視線が集まる中で、イザリエは一滴も涙を見せず、静かに礼をして去った。
その姿は冷たくも見えたが、同時に、誰よりも場を崩さなかった。
今さらながら、その違いが妙に鮮明に浮かぶ。
「……メリザ」
セルジュは言葉を選ぶ。
「泣いて済む場ではない」
それを口にした瞬間、メリザの表情が凍った。
「え……?」
「もちろん、辛いのはわかる。だが今は、泣くより先に学ばなければならない」
メリザは信じられないものを見るような顔をした。
彼がそんなことを言うとは、思っていなかったのだろう。
「殿下……わたくし、そんなにお荷物なのですか?」
その問いは、セルジュにとって面倒だった。
違うと即座に言えば、その場は収まる。だがそう言ってしまえば、また何も進まない気もした。
彼が返事に迷った、その一瞬。
メリザはすべてを悟ったように、顔色を失う。
「……っ」
彼女は俯き、握りしめたハンカチを胸元に押し当てた。
「わかりましたわ。わたくし、もう……お邪魔なのですね」
「そうは言っていない」
「でも、そう聞こえましたもの」
涙まじりに言う声は、どこか責めるようでもあった。
セルジュは深く息を吐く。
「今はそういう話をしているんじゃない」
「では、どういう話ですの?」
泣きながら問い返され、彼はますます答えに詰まる。
どういう話なのか。
王家の立て直し。
夜会の失点。
招待状の不備。
外交上の悪印象。
その中心で、目の前の少女は「自分が優しくされないこと」に傷ついている。
ずれが大きすぎるのだ。
「……後でまた話す」
それだけ言って、セルジュは半ば逃げるように部屋を出た。
扉が閉まると同時に、メリザは崩れるように長椅子へ座り込む。
「ひどい……」
彼が去った方角を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「殿下まで、わたくしを責めるの……?」
だがそれを聞いていた侍女たちは、もはや完全には同情できなかった。
王宮の空気は、そんな幼い悲劇に付き合えるほど、今は余裕がない。
午後、王妃は昨夜の失態について女官長と報告をまとめていた。
卓上には細かな記録が並ぶ。
配膳順の誤り。
挨拶の失礼。
席次の齟齬。
来客導線の重複。
そして、メリザ・コルネイユに関する所見。
「……これを本人に見せるのは酷かしら」
王妃が淡々と問う。
女官長は少し考えたあとで答えた。
「酷ではございます。ですが、必要かと」
「そうね」
王妃は指先で紙を整えた。
「可哀想だからと甘やかしていたら、もっと大きな場で、もっと痛い目を見る」
その一言には、母としての情よりも、王家の責任が勝っていた。
「イザリエは、一度も泣かなかったわね」
不意にこぼれたその言葉に、女官長は顔を上げる。
「はい」
「泣かなかったからこそ、皆、あの子が平気だと思っていたのかもしれない」
「……その面はあるかと」
王妃は小さく笑った。
苦い、どうしようもない笑みだった。
「泣く者ばかりが守られて、黙って支える者ほど当然にされる。愚かな話だわ」
女官長は何も言えなかった。
それは王妃自身も、その構造の一端を担っていたとわかっているからだろう。
一方、フォンティーヌ公爵家では、イザリエが父の書斎で今後の領地運営について話していた。
「王都向けの織布は予定通りで構いません。ただ、王家への優先分は一度見直したいですわ」
「同感だ」
父エドモンが頷く。
「今後の支払い能力も読みづらい」
話している内容は現実的で、冷静だ。
けれどイザリエの胸の片隅には、朝から小さなざわめきが残っていた。
王宮の様子について、いくつか耳に入っていたからだ。
昨夜の夜会の評判。
北方侯爵家の反応。
そして、メリザが泣いているという噂。
「お嬢様」
ユベールが静かに入ってくる。
「ディグレイス辺境伯より、お手紙です」
イザリエは少し目を上げた。
「ラウル様から?」
「はい」
封を切ると、やはり短い文面だった。
コルネイユ嬢が泣いているらしい。
だが泣いても夜会の失点は消えない。
君は気にするな。
最後の一文を見て、イザリエは思わず小さく息を漏らした。
「……本当に、この方は」
「いかがなさいました」
「いいえ。ずいぶん率直だと思って」
だが、その率直さがありがたかった。
メリザが泣いていると聞けば、少しだけ心がざわつく。自分がいなくなったせいで、あの場に立つことになった少女が、今さら現実の重さに押し潰されている。
それを可哀想だと思わないわけではない。
だが同時に、その涙がイザリエの痛みを打ち消すわけでもない。
「お嬢様」
「なに?」
「お顔が少し、曇っておられます」
イザリエは手紙を閉じた。
「……少しだけ、考えてしまったの」
「コルネイユ嬢のことを?」
「ええ」
素直に認めると、ユベールは静かに頷いた。
イザリエは窓の外へ目を向ける。
「泣くほど辛いのなら、最初からあの場に立つ覚悟など持たなければよかったのに、と思いますわ」
「はい」
「でも、そういうものでもないのでしょうね。誰かに選ばれて、守られて、優しくされるだけで足りると思ってしまうこともあるのでしょう」
「あるかもしれません」
「……昔の私なら、少しは同情していたかしら」
「今は?」
イザリエはゆっくりと息を吐く。
「今は、同情より先に思うの。私は、泣くことすら許されずに支えていたのだと」
その言葉は、静かだった。
怒鳴るでもなく、恨みをぶつけるでもなく、ただ事実としてそこにある。
そしてそれを口にした時、ようやくイザリエは、自分の中にまだ残っていたものの正体に触れた気がした。
悔しかったのだ。
メリザの涙が庇われ、自分の忍耐は当然として扱われたことが。
優しくされる価値は、泣ける者だけにあるのかと思わされたことが。
ユベールはその沈黙を破らず、ただ近くで控えていた。
やがてイザリエは、ラウルの手紙をもう一度見てから、小さく笑った。
「気にするな、ですって」
「辺境伯らしいお言葉です」
「ええ。本当に」
短くて、不器用で、けれど欲しいところにだけ届く。
その距離感が、今のイザリエにはちょうどよかった。
「返事を」
「かしこまりました」
「短くていいわ。『ご忠告のとおり、気にしすぎないよう努めます』と」
「承知いたしました」
ユベールが一礼して下がる。
部屋にひとり残り、イザリエはそっと目を閉じた。
王宮では、メリザが涙を流し、セルジュが苛立ち、王妃が現実と向き合っている。
けれどその混乱は、もう自分の責任ではない。
それでも少し痛むのは、昔の傷跡がまだ完全には薄れていないからだろう。
だが少なくとも今は、その痛みを「だから戻らなくては」と結びつけずに済む。
それだけでも、大きな前進だった。
夜会の翌朝、王宮はひどく静かだった。
もちろん実際には、人は動いている。侍女は朝の支度に追われ、侍従は来訪予定の変更を走って伝え、文官たちは昨夜の失態をどう記録し、どう言い繕うかで机にかじりついている。
だがその静けさは、秩序だった静寂ではない。
誰もが声を落とし、余計な一言を避け、下手に目立てば火の粉が飛ぶと知っている時の静けさだ。
つまり、最悪に近い朝だった。
「……北方侯爵家からの返書です」
王太子執務室で、文官が差し出した書簡をセルジュ・アストレアは乱暴に受け取った。
封を切り、中身に目を通した瞬間、その顔色がさらに悪くなる。
「なんだ、これは」
声は低いが、紙を持つ指には力が入りすぎていた。
文官は目を伏せたまま答える。
「昨夜のご挨拶に関しまして、今後の王家行事への出席は、時期を見て判断したいとのことです」
「時期を見て?」
「実質的には、距離を置くという意味かと」
セルジュは書簡を机に叩きつけた。
夜会の余波は、もう始まっている。
それも想像していたより早く、そして露骨に。
「たかが一度の夜会だぞ」
「一度、ではございますが」
年配の文官が慎重に言葉を選ぶ。
「王家の一度は、諸侯にとっては軽くございません」
「大げさだな」
「いいえ」
今度は別の重臣が口を開いた。
「問題は失敗そのものではなく、その失敗が“王家が弱っている証”と受け取られたことです」
セルジュは苛立たしげに舌打ちする。
誰も彼を慰めない。
誰も「昨夜は不運だった」とは言わない。
現場にいた者ほど、それが不運ではなく、積み重なった綻びの結果だと知っているからだ。
「コルネイユ嬢は?」
重臣の一人が問うた。
その言い方には、すでに冷たさが混じっていた。
セルジュは顔をしかめる。
「どうしてそこでメリザの名が出る」
「昨夜、北方侯爵夫人への挨拶で軽率な発言があったと報告を受けております」
「軽率ではない。少し親しみやすくしただけだ」
「その“少し”が命取りになる場でございます」
ぴしゃりと言い切られ、セルジュは不機嫌そうに黙り込んだ。
だが、反論はしない。いや、できないのだろう。
あの場の空気の凍り方は、彼自身も感じていたはずだから。
「……メリザはまだ慣れていない」
ようやく絞り出した言葉は、苦しい言い訳だった。
「これから学べばよい」
「王太子妃候補としての教育は、もちろん必要でございます」
重臣は淡々と答える。
「しかし昨夜のような公の場での未熟さは、王家そのものの未熟さとして見られます」
セルジュは拳を握った。
彼にとってメリザは、可憐で、自分を頼り、イザリエのように正論で追い詰めてこない存在だった。だからそばに置いた。だから守ってやりたいと思った。
だが今、その「守ってやりたい」という感情そのものが、王家の重荷になっていると突きつけられている。
それが面白いはずがない。
「……本人は何と言っている」
低く問うと、侍女長が一礼して前へ出た。
「コルネイユ嬢は、ご自身が責められていることに大変心を痛めておいでです」
「心を痛めている?」
「はい。『皆がわたくしばかり責めるのです』と」
セルジュは息を吐いた。
慰めに行くべきか、叱るべきか、一瞬迷ったような顔だった。だが結局、そのどちらも選びきれずに言う。
「……後で会う」
「かしこまりました」
その頃、王太子棟の奥にある客間では、メリザ・コルネイユが実際に泣いていた。
淡い桃色の室内着に身を包み、絹張りの長椅子に座った彼女は、膝の上でハンカチをぎゅっと握りしめている。目元は赤く、睫毛にはまだ涙が残っていた。
「どうして……」
か細い声で呟く。
「わたくし、そんなに悪いことを言いましたの……?」
傍に控えていた若い侍女は返事に困り、ただ頭を下げるしかなかった。
メリザに悪意があったとは言い切れない。
だが悪意がなければ許されるわけでもない。
むしろ上の立場へ行く者ほど、悪意のない無知がいちばん厄介だったりする。
「皆、イザリエ様なら、とか、フォンティーヌ様なら、ばかり……」
ぽろぽろと涙が零れる。
「そんなの、ずるいではありませんか。最初からできる方と比べられても、わたくし、困りますのに……」
その言い方には、被害者めいた響きがあった。
彼女の中では、本当に自分が「責められている側」なのだろう。
王太子に選ばれただけなのに。
少し可愛らしく、少し素直に、少し甘えただけなのに。
どうして皆、優しくしてくれないのだろう、と。
だがその幼さこそが、王宮では致命的だった。
扉が叩かれ、侍女が慌てて出迎える。
「殿下」
セルジュが入ってくると、メリザはすぐに立ち上がり、泣き腫らした目で彼を見上げた。
「殿下……」
その声は、以前なら彼の庇護欲を強く刺激しただろう。だが昨夜からの苛立ちと疲労が溜まっている今、セルジュの表情は硬いままだった。
「泣いていたのか」
「だって……」
メリザは唇を震わせた。
「皆が、わたくしのことを未熟だとか、軽いだとか……ひどいですわ。わたくし、ただ殿下のために、場を和ませようとしただけなのに……」
セルジュは彼女を見つめる。
可哀想だ、とは思う。
だがそれ以上に、今は面倒だ、という感情が先に立った。
「昨夜は少し、言葉が軽かった」
なるべく穏やかに言ったつもりだったが、メリザの顔はさらに曇った。
「殿下まで、そう仰るのですか……?」
「そういう意味ではない。ただ」
「ただ?」
「今は皆、神経質になっている」
「それは、わたくしのせいなのですか?」
その問いに、セルジュは即答できなかった。
完全に彼女のせいではない。
だが、彼女が火に油を注いでいる部分があるのも事実だ。
沈黙は時に、どんな言葉より雄弁である。
メリザはその沈黙を見て、はっと息を呑んだ。
「……そんな」
そして次の瞬間、彼女の目からまた涙が溢れた。
「わたくし、殿下に選ばれたから、頑張ろうと思いましたのに……!」
泣きながら一歩近づく。
「でも、何をしてもイザリエ様と比べられて、皆が冷たくて……わたくし、怖いですわ。どうして誰も優しくしてくれないの……?」
怖い。
優しくしてくれない。
その言葉は可愛らしく聞こえる一方で、王太子の伴侶候補としては、あまりにも弱すぎた。
セルジュは思わず、昨夜の広間を思い出す。
同じように大勢の視線が集まる中で、イザリエは一滴も涙を見せず、静かに礼をして去った。
その姿は冷たくも見えたが、同時に、誰よりも場を崩さなかった。
今さらながら、その違いが妙に鮮明に浮かぶ。
「……メリザ」
セルジュは言葉を選ぶ。
「泣いて済む場ではない」
それを口にした瞬間、メリザの表情が凍った。
「え……?」
「もちろん、辛いのはわかる。だが今は、泣くより先に学ばなければならない」
メリザは信じられないものを見るような顔をした。
彼がそんなことを言うとは、思っていなかったのだろう。
「殿下……わたくし、そんなにお荷物なのですか?」
その問いは、セルジュにとって面倒だった。
違うと即座に言えば、その場は収まる。だがそう言ってしまえば、また何も進まない気もした。
彼が返事に迷った、その一瞬。
メリザはすべてを悟ったように、顔色を失う。
「……っ」
彼女は俯き、握りしめたハンカチを胸元に押し当てた。
「わかりましたわ。わたくし、もう……お邪魔なのですね」
「そうは言っていない」
「でも、そう聞こえましたもの」
涙まじりに言う声は、どこか責めるようでもあった。
セルジュは深く息を吐く。
「今はそういう話をしているんじゃない」
「では、どういう話ですの?」
泣きながら問い返され、彼はますます答えに詰まる。
どういう話なのか。
王家の立て直し。
夜会の失点。
招待状の不備。
外交上の悪印象。
その中心で、目の前の少女は「自分が優しくされないこと」に傷ついている。
ずれが大きすぎるのだ。
「……後でまた話す」
それだけ言って、セルジュは半ば逃げるように部屋を出た。
扉が閉まると同時に、メリザは崩れるように長椅子へ座り込む。
「ひどい……」
彼が去った方角を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「殿下まで、わたくしを責めるの……?」
だがそれを聞いていた侍女たちは、もはや完全には同情できなかった。
王宮の空気は、そんな幼い悲劇に付き合えるほど、今は余裕がない。
午後、王妃は昨夜の失態について女官長と報告をまとめていた。
卓上には細かな記録が並ぶ。
配膳順の誤り。
挨拶の失礼。
席次の齟齬。
来客導線の重複。
そして、メリザ・コルネイユに関する所見。
「……これを本人に見せるのは酷かしら」
王妃が淡々と問う。
女官長は少し考えたあとで答えた。
「酷ではございます。ですが、必要かと」
「そうね」
王妃は指先で紙を整えた。
「可哀想だからと甘やかしていたら、もっと大きな場で、もっと痛い目を見る」
その一言には、母としての情よりも、王家の責任が勝っていた。
「イザリエは、一度も泣かなかったわね」
不意にこぼれたその言葉に、女官長は顔を上げる。
「はい」
「泣かなかったからこそ、皆、あの子が平気だと思っていたのかもしれない」
「……その面はあるかと」
王妃は小さく笑った。
苦い、どうしようもない笑みだった。
「泣く者ばかりが守られて、黙って支える者ほど当然にされる。愚かな話だわ」
女官長は何も言えなかった。
それは王妃自身も、その構造の一端を担っていたとわかっているからだろう。
一方、フォンティーヌ公爵家では、イザリエが父の書斎で今後の領地運営について話していた。
「王都向けの織布は予定通りで構いません。ただ、王家への優先分は一度見直したいですわ」
「同感だ」
父エドモンが頷く。
「今後の支払い能力も読みづらい」
話している内容は現実的で、冷静だ。
けれどイザリエの胸の片隅には、朝から小さなざわめきが残っていた。
王宮の様子について、いくつか耳に入っていたからだ。
昨夜の夜会の評判。
北方侯爵家の反応。
そして、メリザが泣いているという噂。
「お嬢様」
ユベールが静かに入ってくる。
「ディグレイス辺境伯より、お手紙です」
イザリエは少し目を上げた。
「ラウル様から?」
「はい」
封を切ると、やはり短い文面だった。
コルネイユ嬢が泣いているらしい。
だが泣いても夜会の失点は消えない。
君は気にするな。
最後の一文を見て、イザリエは思わず小さく息を漏らした。
「……本当に、この方は」
「いかがなさいました」
「いいえ。ずいぶん率直だと思って」
だが、その率直さがありがたかった。
メリザが泣いていると聞けば、少しだけ心がざわつく。自分がいなくなったせいで、あの場に立つことになった少女が、今さら現実の重さに押し潰されている。
それを可哀想だと思わないわけではない。
だが同時に、その涙がイザリエの痛みを打ち消すわけでもない。
「お嬢様」
「なに?」
「お顔が少し、曇っておられます」
イザリエは手紙を閉じた。
「……少しだけ、考えてしまったの」
「コルネイユ嬢のことを?」
「ええ」
素直に認めると、ユベールは静かに頷いた。
イザリエは窓の外へ目を向ける。
「泣くほど辛いのなら、最初からあの場に立つ覚悟など持たなければよかったのに、と思いますわ」
「はい」
「でも、そういうものでもないのでしょうね。誰かに選ばれて、守られて、優しくされるだけで足りると思ってしまうこともあるのでしょう」
「あるかもしれません」
「……昔の私なら、少しは同情していたかしら」
「今は?」
イザリエはゆっくりと息を吐く。
「今は、同情より先に思うの。私は、泣くことすら許されずに支えていたのだと」
その言葉は、静かだった。
怒鳴るでもなく、恨みをぶつけるでもなく、ただ事実としてそこにある。
そしてそれを口にした時、ようやくイザリエは、自分の中にまだ残っていたものの正体に触れた気がした。
悔しかったのだ。
メリザの涙が庇われ、自分の忍耐は当然として扱われたことが。
優しくされる価値は、泣ける者だけにあるのかと思わされたことが。
ユベールはその沈黙を破らず、ただ近くで控えていた。
やがてイザリエは、ラウルの手紙をもう一度見てから、小さく笑った。
「気にするな、ですって」
「辺境伯らしいお言葉です」
「ええ。本当に」
短くて、不器用で、けれど欲しいところにだけ届く。
その距離感が、今のイザリエにはちょうどよかった。
「返事を」
「かしこまりました」
「短くていいわ。『ご忠告のとおり、気にしすぎないよう努めます』と」
「承知いたしました」
ユベールが一礼して下がる。
部屋にひとり残り、イザリエはそっと目を閉じた。
王宮では、メリザが涙を流し、セルジュが苛立ち、王妃が現実と向き合っている。
けれどその混乱は、もう自分の責任ではない。
それでも少し痛むのは、昔の傷跡がまだ完全には薄れていないからだろう。
だが少なくとも今は、その痛みを「だから戻らなくては」と結びつけずに済む。
それだけでも、大きな前進だった。
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