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山姫さま 人間のものを物色する

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むかし、むかしからこの日本一のお山には、山姫さまというそれはそれはたいそう美しい、お姫さまがおりました。
足元まであるような、長く黒光りするつややかなその御髪に、透きとおった白い肌。
そして紅を差したかのように赤く染まる頬と、つやのあるぷっくりとした紅い唇。
黒く濡れる瞳はまるで星の輝く夜空のさまにキラキラと光を放ち、思わず見たものの心を射るほどの美しさを、花の香りのように全身から放っておりました。
そしてその美しさとは別に、一足で千里を駆けるしなやかな獣のような脚をもち、ほかのものの命を奪うことなく、山の精気を吸って生き、時に大地に雨の恵みを与える、不思議な力も兼ね備えていたのでした。

彼女はこのお山の神さまの唯一の大切な一人娘で、しかもこんなに美しいものですから、ともかくも大切に育てられたのでした。
彼女はおつきのオコジョや多くの動物たちを従え、その豊かな自然の国で十分満足して暮らしていましたが、それでも好奇心の強いこのお姫さまはお父さまの言いつけなどまったく守らず、時々人間の前にあらわれるのでした。

人間とともに戯れることもありましたし、時には恐れられ、あやうく危ない目に遭ったこともありましたが、それでも彼女は山の神の大切な娘。
彼女を傷つけようとする者は必ず報いを受けましたし、とにかく山姫さまは大切に、ちやほやされて、天鵞絨ビロードのような苔で作られたエメラルドのベッドや、絹の高価な十二単(これは人間に貢がせたものです)、山の恵みである美しい宝石などに囲まれて、それまでは幸せに暮らしていたのでした。
そう、それまでは。

彼女がそうやって、お山の中で幸せに暮らしている間に、どうやらお山の外の世界は大きく変わってしまったようでした。
人間が前よりこの神聖な場所に立ち入るようになりましたし、なぜだかお山をいろいろといじくっているようです。
お姫さまは不安でしたが、父上である山の神はなに大丈夫だろう、ととりあってくれません。
しかし実際お父さまの言う通りで、人間たちは己の過ちを知ったようです。一時期お山は少し荒れてしまいましたが、やがて元の威厳を取り戻したようでありました。

そうしてお山が落ち着いてきたころ、お姫さまは久しぶりに人間に会いに行こう、と思い立ちました。
山の恵みが与えてくれる、新緑の袴や、花々で編まれた夏物の着物も素敵でしたが、実際のところお姫さまはそれらに飽きてしまったのです。
以前人間に用意してもらった絹の着物も、もうだいぶくたびれてきてしまいましたし、そろそろ新しいお着物が欲しかったのです。
そういえば、お山の中腹に彼らは何か小屋を建てていました。そう確か夏の頃合いだったと思います、そのころに人間がたくさん来ていたではありませんか。
ですからお姫さまは夏を待ちました。こんなに月日の流れというものに気をつけたのは、かなり久しぶりだったように思われました。なにせ山姫さまは、悠久の時を生きているのでしたから。

いよいよ、お姫さまの待ちに待った夏がやってきました。
雪どけ水で、その彫刻のように均整のとれた白い四肢を清め、長く光る黒髪をつげ櫛で丁寧にくしけずりました。
本当はお気に入りの十二単を着たかったのですが、でもちょっと色あせておりましたし、それはまた人間に貢がせればよいだろう、ということで、この日はオカトラノオの白い花を編みこんだ着物に、ユウスゲの黄色い花を髪飾りとして、さらに自分の美しさを際立させることに成功しました。
そこまで準備が整うと、彼女は夜になるのを待ちました。なぜなら、お父さまである山の神は、もともとお姫さまが人間と交わるのをあまり快く思っていませんでしたし、最近おとなしくしていたお姫さまに非常に満足していたのです。
ですから、賢い山姫さまは、不必要にお父さまの信用を落とすことは得策ではないと考えて、皆が寝静まる夜に行動を起こそうと計画したのです。

そしてその夜。お姫さまはこっそりと、人間が集まる小屋に向かおうとしましたが、ここでおつきのオコジョに見つかってしまいました。
とにかくお姫さまに付くおつきのもの、というのは口うるさいものです。
ようやくおとなしくなってきたと思ったらこれですか、と散々お説教を垂れられましたが、彼女は素直に理由を述べて、ようやくオコジョの承諾を受けることが出来たのでした。
なぜなら、このオコジョも、年頃の娘だからです。普段は愛らしい、白い妖精の名高いオコジョの姿ですが、とはいえ、彼女も普通の動物とは違って、悠久の時を生きる精霊です。
ですから本当はだいぶ長生きをしているのですが、その見た目が年頃の娘であることは違いありません。とはいえ、それは山姫さまと同じく、人間の姿かたちに化けたときの見た目ですが。
彼女にも人間から素敵な召し物をもらったら分けてあげる、という取り決めをして、二人、いえこのときは一人と一匹でした、はこっそりと人間の元を訪れたのです。

山姫さまとオコジョが、音もなく小屋の中に入りますと、そこには人間たちがゴロゴロと床に横たわって眠っておりました。
どうやら皆、山を登るのに疲れて、ぐっすりと眠りこんでしまっているようでした。
山姫さまは暗闇の中でも光る、その星を湛えた瞳で、どの人間におねだりするのが良いかを見定めようとしました。
するとなんだか、人間たちは昔見たのとは違うような恰好をしているような気がします。お姫さまの見慣れた、つややかな絹やふわふわとした綿ではなく、なんだかカサカサとした布でできた服を着ている気がします。
お姫さまが「こんな質の悪そうな着物ではいやだわ」と思っている間に、動きのすばやいオコジョが、人間たちの間を縫っていろいろと物色してきたようです。
口ではあんなことを言ってお姫さまのことを咎めてくるのに、どうやらオコジョは本当は人間たちに興味津々だったようでした。

「姫さま、これはなんでしょう?」

そういってオコジョが、お着物は一つも持ってこずに、なにやらごちゃごちゃとほかのものをたくさん持ってきました。
どうやら彼女も、今の人間たちが着ているカサカサとした服(のちにこれが「スポーツウェア」という保温性に優れたものだと二人は知るのですが)には興味がなかったらしく、新しい召し物を手に入れられると喜んでいた気持ちが萎えると、すぐに気持ちを切り替えて、珍しいものを集めるのに夢中になったようでした。

それは寝ている人間の子供の傍にあったとのことでした。
紙が束ねられたもので、パラパラとめくると、中には文字やら絵やらがたくさん描かれています。
オコジョには読めませんでしたが、山姫さまは賢く、以前に人間の文字の読み書きを教わったことがあるものですから、それが本というものであることがわかりました。
とはいえ本を読むのは本当に久しぶりのことです。どうやら昔とは違う気もしましたが、幸いに絵ばかりの本でしたから、姫さまは記憶を引っ張り出しながら、なんとかそれを読むことが出来ました。

「にんぎょひめ」

そう表紙には書いてあるようでした。とはいえ中を読むのは時間がかかりそうです。
ならばこれは着物の代わりにありがたく貢物として頂戴してしまおう、と二人は考えました。
中に書かれている絵もひどく綺麗なものでしたし、彼女たちは綺麗なものや、かわいいものが大好きでしたから。
そして次に、オコジョは何やら薄い板のようなものを、お姫さまに差し出しました。手のひらと同じくらいの大きさで、硬い板のようなものでした。
姫さまが何気なしに、その板の下のほうにあるまるを押しますと、突然その板が光りました。
驚いたのは二人です。人間たちが火を焚いて明かりとしているのは知っていましたし、山からみるふもとの方では、なにやら地上にも星が散りばらまかれたように、光が見えるのは知っていましたが、いままでそれは、人間が火をつけているからなのだ、と思っていたのです。
ですから、突然光ったそれは、まさか火がその板から噴き出たのではないかと思って、姫さまはあわててそれを手放してしまいました。

ゴツン!

「痛えっ!」

その板が落ちて何かに当たり、声が聞こえました。どうやら落としたそれが、床で寝ていた人間に当たってしまったようでした。

「なんだよ……」

その痛みで、どうやらその人間を起こしてしまったようでした。
夜目の利く姫さまとオコジョには、その様子がよく見えましたが、寝ているところを、急に痛みによって覚醒させられたその人間は、まるで二人の存在など気づきません。

「ん?メールかな……?」

その人間、男のようです、はまさかその薄い板が、自分に向かって投げつけられたことなどつゆ知らず、光る画面をしばらく操作した後、ふたたび眠りにつきました。
それをじっと見ていたお姫さまとオコジョは、その光る板が火を放つものではないということと、「めーる」とやらを見られるものであること、ということを理解しました。
火でないのなら安心です。ですからオコジョの方は、なおさらその光る板に興味を示したようでした。男がその頭の脇に置いた板を再び失敬し、これももらっておこう、といそいそと袋の中に詰めていきます。

それよりも姫さまは男の方に興味津々でした。
好奇心の強い姫さまは、これもだいぶ昔ですが、人間の男と関係を持ったことがあります。それは本当に軽い戯れに近いものでしたが、それでも父である山の神を怒らせるには十分でした。
姫は戯れたその人間の男と、二度と会うことはありませんでしたが、多少面白い経験が出来たかな、くらいの認識でしかありませんでした。
そう、山の神の娘である山姫さまにとって、人間などは彼女の退屈を紛らわす、玩具でしかなかったのですから。

だけどこの、今しがた攻撃を与えてしまったこの男の顔は、ひどく印象に残りました。
出来ることならこの男と遊んでみたいけど、そうすれば再びこの男と会うことはなくなるのだろう、と過去の経験則から姫さまは考えて、手を出すのをやめておきました。
ここで手を出さずとも、再び会うこともないでしょうが、生きてさえいれば再び会いまみえることはできるかもしれません。なぜだかそれだけでも十分だと、彼女は思ったのです。

「姫さま、そろそろ帰りましょう。今の人間は変なものを身にまとっていてがっかりでしたが、いろいろ面白いものも頂戴できました。そろそろ日が昇ります。人間に見つかって不要に騒ぎ立てられればお父上のお叱りを受けることは必須。わたくしの首も飛んでしまうかもしれません。さあ早く戻りましょう」

そう言うとオコジョは、パンパンにつまった袋を、その小さな身体で担ぎ上げました。
本当は人間の姿に化けたほうが、荷物を運ぶのは楽なのですが、あてにしていた着物がなかったので、さすがに人の姿で裸は嫌だなとオコジョは思ったのです。
オコジョの声で潮時を知った姫さまは、後ろ髪引かれる思いで、その小屋を後にすることに決めました。

でも、最後に。
さきほど頂戴した本をパラパラとめくった時、美しい女の唇が、男の唇に触れている場面が目に入ったのを思い出しました。ああいう行為はふつう、ほかの生き物はあまりやらないものです。
そういえば昔に関係を持った男も、やたらと姫の唇に自身のそれを近づけてきましたが、その行為になじみのない姫さまは、気味悪がってかたくなに拒んだものでした。
それになんだか、むやみにしてはいけない行為だと姫さまは思っていたのです。でもあれが、人間の大切なしきたりであるのだとしたら。
そう思って姫さまは去り際に、そっと眠る男の唇に、自分の紅いぷっくりとした唇を触れさせました。そうして姫とオコジョの二人は、人間たちの眠る小屋を後にしたのでした。

翌朝。二人の正体こそバレてはいませんでしたが、小屋の中ではやたらと物がなくなっており、ちょっとした騒ぎになりました。
あの小屋で一晩を明かした人々――特に携帯電話を盗まれてしまったあの男は、散々な思いをしたことは間違いありません。
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