丸藤さんは推理したい

鷲野ユキ

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帰る道

帰る道-10

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あれから数日が経って、怯える僕に呆れたのかわからないけれど、あの影が家に来ることもなかった。もちろん、帰り道に白い幽霊も殺人蜂も出なかった。

「あれはなんやったんだい?」
母さんの足首の跡もだいぶ薄くなってきた、らしい。本人はそう言っているけれど、まだシップは貼ったまま。職場の人には酔っぱらって転んでひねった、と説明したそうだ。
それ以来、前よりはだいぶ早くに帰ってくるようになった。

「さあ、なんだったのかしら」
ばあちゃんの質問に、母さんは軽く答える。「みんなで寝ぼけてたのかもしれないわね」
「馬鹿な事いうんやなかよ、アンタと私はそうかもしれん。ばってん、直央はちゃんと見たんやろう?なあ直央」
そうばあちゃんに振られて、僕は曖昧にうなずいた。

「やっぱり警察やとかに言うた方がよかんやなかかね」
不安の色を隠せないばあちゃんの声に、
「化け物みたいなんに襲われたっちゃ?そぎゃんの、信じてもらえんに決まっとるやなか」と母さんはそっけない。
「ほんとうに、化け物やとかそぎゃんもんだっていうんかい?あんたが変な男につけられてきたとかじゃなくて?」
それもばあちゃんは食い下がらない。というか、ばあちゃんの言い分の方が尤もな気がした。幽霊なんていると思ってるのか、と言い放つ丸藤さんの声が重なって聞こえたようにすら思えた。

「ほんとうに、あれはヒトじゃなかったんかい?」
そう問われて、僕は返事に困る。あれは、……あれは、なんと言えばいいのだろう。
「……そうだよ、まともな人間が、あんなことするわけないじゃない」

いかに非現実的であろうとも、少なくとも僕にはそう思えた。あんな、生臭い息の、黒い塊。人の家に無断で入ってきて、足を掴む。とても人間の仕業とは思えない。それこそ蜂に人を襲わせる幽霊なんかより、よほど化け物じみている。

「そうなんかね、まあ、ようなか妖怪なんかも昔は居たごたるけれどねえ」
納得したのか、あるいはそう自分に言い聞かせているのか。
「ばってん、あれは妖怪にも見えんかったけどね」
それでも食い下がらず同じ話を繰り返す祖母に、母親が少し苛立ったように口を開く。
「見えないって、もともと見えないじゃない」

あまりにもスムーズに動くものだから、僕もつい忘れてしまう。祖母の目は見えない、らしい。その昔、近所の悪ガキにいたずらされて、けがをしたのだと言う。母親もまだ赤ん坊の頃の話らしく、詳しくは知らないそうだ。
だというのに一人で天草の家にも帰ってしまうし、普通に料理もするので僕は気が気でない。料理くらい僕がやるのに、と言い切れないのも情けないが。

「ばってん、なんとのうわかるったい」
ぽつりとつぶやいて、彼女は諦めたように顔をテレビに向けた。見えない分、この家は常ににぎやかだ。何かしらの音が響いている。他愛のないバラエティや、音楽番組。今はクイズ番組をやっていて、僕もぼんやりと答えを考える。そのことにだけ集中してればいい。あの怪物の正体について、家族で話し合いたくもなかった。

けれど久しぶりの穏やかなひと時だった。芸人が変な答えを言って、それに笑って。意外に博識なばあちゃんが答えを当てたりだとか、クイズの後に流れ出したドラマをそのままだらだらと見続けて、あの役者は演技が下手くそだとか、そんなことしか話さない時間。
あのことにさえ触れなければ、どこにでもある家族の姿だった。

その穏やかさを破ったのは母の携帯電話だった。無遠慮に団らんに入り込む音を消して、母が電話に出る。
「……ええ、……はい、そうですか……でも、もう……」
断片的に聞こえる会話は不明瞭で、それを受ける母親の表情はどんどん曇っていく。そして、ぷつりと通話を切った。

「何か、あったの?」
無言でうつむく母親に、恐る恐る僕は声を掛ける。本当は、詳しくは知りたくなかった。知らない方がいいことなんて、この世にたくさんあるってことを、僕はもう知ってしまっている。
「ううん、別に」
これでも母親だ。たぶん、僕の思惑を感じ取ったのだろう。彼女は明るい声で言った。
「ちょっと、仕事で失敗しちゃってね」
白々しく肩を落とす。

「そう、大変だね」
返した僕の演技もまた、さぞかし白々しかっただろう。 母は嘘をつくのが下手だ。なにせ僕の親なのだから。

答えはもう、すでに出ていたのだ。 
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