1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.9.8 千代田図書館 1

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 時間がなかった。矢野正志はこの日、人手が足りないと泣きつく飯場の管理会社の手を振り払い休みをもらった。今更せかせかと働いたところで間に合いようがない。あとひと月ちょっとでオリンピックが始まるのだ。白百合の家が国に回収されていないのは奇跡に近い。とにかく行動を起こさなければ。
 正志の目的はただ一つ。忌々しいオリンピックを脅してやるのだ。金を寄越さなければ中止にさせてやる、と。
 朝早くから飯場を出ると、正志は図書館へと向かった。九時の開館を待ち、我先にまずは席を確保する。同じようなことを考える人間はたくさんいるもので、本を読むわけでもなく、クーラーの効いた館内で過ごしたい暇を持て余した人間がたくさんいた。
 正志が確保した席の隣では、学生だろうか、いかにも今どきの、眼鏡を掛けた青年が姿勢悪く机に向かっていた。読み切れるのか訝しい量の本を山積みにして、科学雑誌のようなものをダラダラと眺めている。
 その乱雑な空間の中で、着ているポロシャツの青がいやに目立つ。あまり勉強をしに来た、という感じでもない。大方、課題の提出に追われて図書館に来たものの手が付かない……そんな感じだろうか。やたらとあくびをしていて、見ているこっちが眠くなってくる。
 だが正志の目的は、涼しさを満喫することでも怠惰を貪ることでもない。勉強は子供の頃から好きではなかったが、やみくもに行動しても良くないことは今までの経験から学んだ。悔しいが、自分には知恵が足りない。だからあの二人みたいにうまく立ち回れなかったのだ。今度こそうまくやって、みんなの鼻を明かしてやりたい。
 とりあえずは情報収集とばかりに、近々の新聞を持ってきた。東洋の魔女と謳われるバレボール女子の練習の様子や、昭和の三四郎こと岡野のコメントなど、スポーツ関連の記事がそこには踊っている。軒並みならぬ努力がそこでは語られていて、正志は鼻白んでしまった。
 何も自分は、こうやって努力している人たちの妨害をしたいわけではない。果たして俺のやろうとしていることは、彼らの努力を無に帰してしまうのだろうか。けれど、オリンピックのせいで自分の大切なものが失われてしまうのだ。
 ふと、正志は先日死んだ名も知らぬ同僚の言葉を思い出していた。オリンピックに、自分でも役に立てると思えば精が出る。あいつはそんなことを言っていた。俺がやろうとしていることは、そんな人々の努力を踏みにじることなのか?
 いや、違うんだ。正志はかぶりを振った。俺はそんなつもりじゃないんだ。けれど金は必要だ。ではどうしたらいい?どうすればあの家を国から守れる?
 国会でも爆破してやればいいのだろうか。けれどさすがにこの国の最高政治機関だ、そうやすやすとどうにかできる気もしなかった。では何を?正志は血走った目を新聞に走らせる。会場の建設状況、交通網の工事進捗、当日の警備体制、都知事の言葉――。そこで、正志の目はあるものを捉えた。
 そうだ、まずはこれを壊してやったら、どんなにスカッとするだろうか。
 正志は想像してにんまりと笑った。
 そうだ、いきなり「金を寄越さなければオリンピックを中止させる」と騒いだところで、誰も信じないに決まっている。こちらが本気なところを見せないと金は寄越さないだろうし、仮に寄越さなかったとしたら、オリンピックを中止させるための何か行動を起こさなければならない。
 そう言えば最近、爆弾騒ぎがどこかでなかっただろうか。正志が慌てて新聞紙をひっくり返せば、一面に「草加次郎現る」と大仰に文字が踊っていた。
「草加次郎……」
 思わず声が出た。それを聞き咎めたのか、隣りの青年がこちらを向いた。どうやら起きてはいたらしい。
「すんません」
 小声で謝り、正志は視線を新聞へと戻した。草加次郎は都内を中心に、デパートや地下鉄を爆発させた爆弾魔だ。おととしからその名を聞くようになり、世の中が不安に怯えていた。だが途端に姿を現さなくなったと思ったら、先月レストランのガラスを爆破する騒ぎを起こしたのだという。犯人はまだ捕まっていない。
 ここ最近、急に草加次郎が動き出したのは、やつもオリンピックを虎視眈々と狙っているからなのではないか?
 ならば。正志は妙案とばかりにひらめいた。こいつが大玉を狙う前に、俺がこいつの名を名乗ってしまえばいいのではないか。
 草加次郎の名を出して、どこか爆発させてやれば、ただ名を騙っただけの悪質な嫌がらせだとは思わないだろう。国中が、再び草加次郎の名に怯える時が来るのだ。後から本人が出てきたところでもう遅い。俺が草加次郎に成り代わってやるのだ。
 正志は草加次郎について調べることにした。カンペキに成りすまして、国中を俺の手のひらで転がしてやる。それと、爆弾の作り方だ。やつは一体どんな爆弾を作ったのだろう。けれどそれは、俺にでも作れるようなものなのだろうか。 
 手当たり次第に科学雑誌を取ってきた。しかしもともとが危険物だ、そう簡単に作り方など書いていないし、仮に見つけたとしても、黒色火炎の作り方だの、電子回路を使って時限装置を付けるだの、正志にはおよそ理解できそうにもないものばかりだった。
 そこで正志は行き詰ってしまった。壁に掛けられた時計は十二時を指していた。爆弾を作るには火薬がいる。それくらいは正志にもわかった。おそらくそれをうまい具合につないで、やつは爆弾を作ったのだ。だが、火薬なぞどこから手に入れればいい?
 すべてうまくいくと踏んだ正志の計画は、早くも暗礁に乗り上げてしまった。
 行き詰ると同時に腹が減った。正志は借りた新聞を返すと、暑い街中へとくりだした。
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