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植物博士
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「以上が、氷穴で発見された木村馨の情報です」
縁側から私は先生に声を掛ける。一二月にしてはまだ暖かいが、ほとんどの植物の枯れ果てた、庭とはもはや呼べぬ場所を彼はしきりにうろうろしている。
「もしかして、この間樹海で見つけた植物と同じものを探しているんですか?」
「いやそれは、そういうわけでは」
それはすなわち、私を疑っているということだ。居心地の悪さを感じた。彼はこう言っていたではないか。蜂蜜男の遺体のあった場所に生えた草を見て、犯人が種を落としたのかもしれない、と。
「違うんだ、リンドウ君。ここ最近の癖でね、とりあえず緑を見ると確認しないと気が済まなくてね」
これはツツジ、あれはバラ、と、誰にでもわかりそうな植物を得意げに指をさし確認していく先生に、私は声を掛けた。
「で、結局何の種だったんですか?」
「それが良くわからないのだ。少なくとも園芸品種ではなさそうでな」
「私には菊科の植物のように見えましたけど」
葉の形はヨモギの葉にも似ていたような気がする。
「いや、全然違うね。菊科特有の香りは全くしない。あれから持ち帰って植木鉢に植えてみたのだが、あんな死にかけだったくせにどんどん伸びて、今度は黄色い細かい花のようなものが咲いてね」
「黄色い花?」
「うむ、細かい粉みたいな花が、もこもこと付いているんだ」
荒れ放題の庭をかき分けて、奥の方へと先生が進んでいく。その一角には、少し退色し始めた、黄色い花の一群があった。
「そうだ、ちょうどこんな感じだ」
ヘウレーカ!と叫ぶ先生の声が響いた。
「これは君が植えたのか?」
「どうでしょう。私は水をやるぐらいしかしていませんでしたから、何が植わっているかまでは」
「しかしなんなんだ、これは」
しげしげと先生が目を向ける先にいたのは、少し退色した、黄色の房を持つ背の高い植物だった。それに手を伸ばし、先生がブンブンと横に振る。
「まるで花粉の塊のような……」
とそこまで言いかけて、ハックシュン、と盛大なくしゃみをした。
「そうだ、こいつをベランダに植えてから、なんだか妙にくしゃみが出るんだ」
クシュンクシュン、と止まらぬくしゃみに辟易したのか、先生が慌てて黄色いエリアから逃げ出してきた。帰ってきた先生の顔面は鼻水まみれでひどく汚い。
「顔、拭いた方がいいですよ」
差し出したティッシュで鼻をかむ先生の姿を見て、私はふと思い立った。
花粉症。
「もしかして、ブタクサじゃないですか?」
「ブタクサ?」
「秋から冬にかけての花粉症といえばブタクサですよ。ほら、空き地とかにたくさん生えてる」
「ああ。ブタクサというのか?」
それは知らなかったな、と先生が感心した様子で私を見つめる。
「なんでも、豚が食べるからブタクサらしいんですけど」
「ふむ、なら花粉症対策に豚でも飼いたまえ。それか、野焼きにしてしまえ」
「そんなことしたら大変じゃないですか」
「たき火くらいはしてるんだろう、あのドラム缶で何かを燃やした跡があった」
先生が涙を浮かべて指さした先には、物心つくころからすでに置かれていた、煤けたドラム缶があった。田舎ではさして珍しくないものだ。
「あれは枯れた草木をちょっと燃やしてるだけです。こんなにたくさんは燃やせませんよ」
忌々しそうに黄色いじゅうたんを睨んで先生が鼻をかんだ。
「君は大丈夫なのか?」
「みたいですね」
それは何よりだ。先生は呟いて再び鼻をかむと「なんでまたそんなものを植えたんだ」と忌々しげに言った。
「杉はまあわかる。木材として利用ができる。だが、あの草に何の利用価値がある?可憐な花が咲くでもなく、良い香りがするわけでもない」
「たぶん、勝手に生えたんじゃないですかね」
「勝手に?」
「確か、外来種なんですよ、あれ。で、勝手に増えるんです」
奇しくも、樹海からそれを取り除いた先生の行動は合っていたということになる。
「それもそうだな、こんな忌まわしい植物が日本固有種のはずがない」
まだ収まらないのか、目を真っ赤にしながらも先生が考えるように言った。
「ならば樹海に生えていたのは」
「風にでも乗って、種子が飛んできたんじゃないですかね」
どこにでも勝手に増える植物だ。買い手のつかない売地を、あっという間にこいつが占拠しているのを見たことがある。それをわざわざ誰かが植えたとは考えにくい。
「だが、種子が犯人の衣服に付いていて、それが現場で落ちたのかもしれんぞ」
「もしかして、私を疑っているんですか?」
先生に視線を向けると、「まさか」と肩をすくめて彼は続けた。
「どこにでも生えているのだろう?ならばこれが証拠にはならない」
完全とはいえないが、どうやら私は容疑者から外れたらしい。そのことに安堵したわけではないが、私は沸いた湯で先生に茶を入れてやった。事件の相談の件で、彼を家に彼を呼んだのは私だ。外で会うには、彼は目立って仕方がない。先日学んだ。
ようやく鼻水の落ち着いた先生が、温かい茶に誘われて部屋へと戻ろうとした時だった。ぶうん、と聞きなれた音とともに、一匹の蜂が先生に寄ってきた。
「うわあああ」
とたん、奇声を上げながら、先生が縁側から慌てて部屋に上がり込み、さらには居間に隣接する襖を勝手に開けてそちらへと逃げ込む。書斎だ。客人を招き入れるとは想定していない散らかった部屋をさらに先生が散らかして、それでも蜂の追跡を振り切れなかったのか再び居間へと戻り、さらには外へと飛び出した。
「逃げ回るから追いかけてくるんですよ!」
追いかけっこをする先生に声を掛ける。「そんなことは言っても、刺されたらどうしてくれるんだ!」
しばらくしてどうやら蜂は先生への興味を失ったらしい。すぃーっと遠くへ離れていき、先生は死に物狂いで居間へと這いずり上がると、ガタガタと大きな音を立ててガラス戸を引いた。
「あ、危ないじゃないか、すぐに業者を呼んだ方がいい」
「まあ、ただのミツバチですから、害はありません」
「まったく、花粉の次は蜂だなんて、ツイてない」
ふてくされた様子で先生は炬燵にもぐりこむと、茶をすすった。
「なんて所だ。さすがは田舎、だな」
「虫が多いのには慣れました。夏はもっとすごいんですよ、足の長い蜘蛛とか、大きなゲジゲジとか。でも冬はみんな静かなもんです」
「もうその話はやめてくれ」
先生が怯えた顔で部屋を見回した。「本当に、冬場はゲジゲジは出ないんだろうな?」
「ええ、冬眠でもしてるんじゃないですか、たぶん、家の軒下とかに」
床を指さして私が言うと、「絶対に覗きたくないな」と心底嫌そうな顔で先生がぼやいた。
「今の時期は大丈夫ですよ、きっと土の中だ。見てみますか?」
「冗談はやめてくれ」
ようやく手足が温まってきたらしい。こわばった肩を広げ、彼は癖なのか、もしゃもしゃの髪の毛を引っ張りながら口を開いた。
「しかしこんなところ、来るんじゃなかった」
「こんなところで悪かったですね」
「よくもまあ、こんなところで一人で暮らせるものだ」
先生がぐるりと部屋を見回して言った。「まあ、静かで緑豊かな環境は、読書するには最高の環境だとは思うが」
「ええ、まあ」
「あれらはすべて君の蔵書かね?」
そう言う先生の視線は、散らかった書斎へと向けられている。居間と同じく畳の部屋に、本棚がいくつかと、プリンターとパソコンの置かれたテーブルがあるだけの部屋だ。ただ、棚に入りきらなかった本や書類がそのまま床に置かれていて、日に焼けた畳の色さえ見えない。
「ほとんどは両親の残したものです」
「ふむ、だとしたらずいぶん君のご両親は、いろいろなことに興味があったのだね」
まるで襖の先が見えているかのように、先生がスラスラと口を開く。
「科学から天体、地理歴史に果ては法医学。まるで小さな図書館だ」
よくもまあ蜂に追いかけられながらこれだけ見ているものだ。私は先生の目の良さに脱帽した。
「コピーも取れるだなんて、本当に図書館だな」
先生が、トナープリンターをまじまじと見つめながら言う。
「学校の先生だったんですよ。資料をコピーするのに、こっちのほうがいいって」
「なるほど」
呟きながら、先生が散らかった部屋へと再び足を踏み入れる。仕方なしに付いていき、私は部屋の明かりをつけた。
「では、このあたりの書籍もか?」
先生が指さすのは、主に刑事もののミステリ小説やDVD。
「いえ、これは私の趣味です」
本棚をジロジロと眺められるのは、なんだか裸を見られているようで気恥ずかしい。私が憧れて、手に入れられなかったものたちが、このなかには詰め込まれている。
「ふむ、なかなか良い趣味ではないか。横山秀夫に誉田哲也、ふむ、勇嶺薫まであるじゃないか」
「ご存じなんですか?」
「私もミステリは好きでね、たまに読むよ。なるほど、君がこの不可解な事件に頭を突っ込みたがる理由がわかった気がする」
そう言いながら、先生が一冊の本に手を伸ばした。
「だが知らないなあ、『See a Forest』なんてタイトルの本は」
パラパラと先生がページをめくった。「作者は鷲野由貴……誰だ?」
彼は必死に頭の中の作家リストを検索したようだが、どうやらヒットしなかったらしい。作者への検索をやめると、さほど厚くない小さな本をジロジロと眺めている。
「『森を見ろ』だなんて、よくわからないタイトルだな。a Forestだなんて言われても、一体どの森を見ればいいんだ」
「ええと……」
先生が思いのほかその本に興味を示したので、私は概要を説明してやった。
「確か、主人公の恋人が誘拐されただとかで、犯人から脅迫状が届くんです。けれどそれの意味が分からなくて、主人公が探偵にその解読をお願いするんです」
「解読……ああ、これか?」
パラパラとページをめくって、先生が文面を読み上げる。
「『オリンポスの山の麓、ニュンペーらが住まう場所。アリスタイオスに追われたエウリデュケ、命からがら死の森へ。アトラスがヘリオスを追い越す時、愛しきオルフェウスとの逢瀬は潰える。獅子が乙女を喰らう夜、彼女に死が訪れる』……ここにもアリスタイオスと来た。他にも有名な人物はいるだろうに」
食傷気味に先生が嘆いた。そして、不意に飽きたのか顔を上げてのたまう。
「それより腹が減ったな。何かないのか」
「そんな、まだ事件について話し合いもしてないのに、もう夕飯ですか?」
せっかく私は、新たに舞い込んだ木村馨の件について話がしたくて彼を呼んだというのに。ここにきて先生は、人の家の庭と本棚を見て、そして虫に怯えただけしかしていない。さらには暗号だって解きかけだ。
「だって君、事件についてだなんてわからないことだらけじゃないか。手札が足りない。考えるだけ無駄だ」
先生はもはや腹の虫の方が気になるらしい。
「何かを考えるのにしたって、こう腹が減っていては話にならない」
「食べたら考えてくれるんですか?」
「そうだな」
そう言われてしまったら、こちらも引き下がるしかなかった。
「冷凍食品かレトルトならありますけど」
「自炊は?」
「しません」
「そうなのか?その割には、調理器具が揃っていたように思ったが」
まったくいつの間に見たのだろう。
「母が料理好きだったもので」
「ふむ、確かに少し埃をかぶっていたな。の割には一本きれいな包丁があったから、てっきり使っているものだと思ったのだが」
「私だって、キュウリやトマトぐらいは切りますよ」
土地柄、近隣の農家の方が野菜を分けてくれることもある。両親が生きていた頃よりは少なくはなったが、それでも田舎でひとり暮らしの私を老婆心からか、気に留めてくれる人もいるのだ。
「ふむ。だがあの包丁はちゃんと研いでおいた方がいい。少し刃がかけていたぞ。あれじゃあせっかくのトマトも台無しだ」
「最悪、かじればいいですし」
「品のない食べ方だな。しかし、それはまあいい。野菜はとらないと。だが今は何もないようだな」
ちゃっかり冷蔵庫の中まで確認済みらしい。
「だが、抜かりはない。こんなこともあろうかと、すでに使いを出している」
スマホを振りながらにこやかに先生が言った。
「使い?」
「安藤君に、ついでに材料を買ってきてもらおう」
「安藤?安藤を呼んだんですか?」
先生の発言は、私の心にも波を立てた。彼女とはあれ以来、なんとなく気まずくて、あまり話していない。
「私と君の共通の知人と言えば、彼女しかいないだろう」
それに、こういうのに憧れていたんだ、と先生は続ける。
「友人の家に呼ばれるなど、いつぶりだろう。こういうのは皆でワイワイやったほうが楽しいだろう?」
「別に遊ぶために先生を呼んだわけじゃないんですが」
大学生じゃあるまいし、この年で家に友人を招いてパーティーだなんてするはずがない。
「大丈夫、私が料理は作ってやる。君は招かれたつもりでくつろいでいてくれたまえ」
そんなバカな。ここは俺の家だぞ、何を勝手に――。
言いかけた言葉は、早速台所に立って調理器具を洗い始めた先生に届くことはなかった。
縁側から私は先生に声を掛ける。一二月にしてはまだ暖かいが、ほとんどの植物の枯れ果てた、庭とはもはや呼べぬ場所を彼はしきりにうろうろしている。
「もしかして、この間樹海で見つけた植物と同じものを探しているんですか?」
「いやそれは、そういうわけでは」
それはすなわち、私を疑っているということだ。居心地の悪さを感じた。彼はこう言っていたではないか。蜂蜜男の遺体のあった場所に生えた草を見て、犯人が種を落としたのかもしれない、と。
「違うんだ、リンドウ君。ここ最近の癖でね、とりあえず緑を見ると確認しないと気が済まなくてね」
これはツツジ、あれはバラ、と、誰にでもわかりそうな植物を得意げに指をさし確認していく先生に、私は声を掛けた。
「で、結局何の種だったんですか?」
「それが良くわからないのだ。少なくとも園芸品種ではなさそうでな」
「私には菊科の植物のように見えましたけど」
葉の形はヨモギの葉にも似ていたような気がする。
「いや、全然違うね。菊科特有の香りは全くしない。あれから持ち帰って植木鉢に植えてみたのだが、あんな死にかけだったくせにどんどん伸びて、今度は黄色い細かい花のようなものが咲いてね」
「黄色い花?」
「うむ、細かい粉みたいな花が、もこもこと付いているんだ」
荒れ放題の庭をかき分けて、奥の方へと先生が進んでいく。その一角には、少し退色し始めた、黄色い花の一群があった。
「そうだ、ちょうどこんな感じだ」
ヘウレーカ!と叫ぶ先生の声が響いた。
「これは君が植えたのか?」
「どうでしょう。私は水をやるぐらいしかしていませんでしたから、何が植わっているかまでは」
「しかしなんなんだ、これは」
しげしげと先生が目を向ける先にいたのは、少し退色した、黄色の房を持つ背の高い植物だった。それに手を伸ばし、先生がブンブンと横に振る。
「まるで花粉の塊のような……」
とそこまで言いかけて、ハックシュン、と盛大なくしゃみをした。
「そうだ、こいつをベランダに植えてから、なんだか妙にくしゃみが出るんだ」
クシュンクシュン、と止まらぬくしゃみに辟易したのか、先生が慌てて黄色いエリアから逃げ出してきた。帰ってきた先生の顔面は鼻水まみれでひどく汚い。
「顔、拭いた方がいいですよ」
差し出したティッシュで鼻をかむ先生の姿を見て、私はふと思い立った。
花粉症。
「もしかして、ブタクサじゃないですか?」
「ブタクサ?」
「秋から冬にかけての花粉症といえばブタクサですよ。ほら、空き地とかにたくさん生えてる」
「ああ。ブタクサというのか?」
それは知らなかったな、と先生が感心した様子で私を見つめる。
「なんでも、豚が食べるからブタクサらしいんですけど」
「ふむ、なら花粉症対策に豚でも飼いたまえ。それか、野焼きにしてしまえ」
「そんなことしたら大変じゃないですか」
「たき火くらいはしてるんだろう、あのドラム缶で何かを燃やした跡があった」
先生が涙を浮かべて指さした先には、物心つくころからすでに置かれていた、煤けたドラム缶があった。田舎ではさして珍しくないものだ。
「あれは枯れた草木をちょっと燃やしてるだけです。こんなにたくさんは燃やせませんよ」
忌々しそうに黄色いじゅうたんを睨んで先生が鼻をかんだ。
「君は大丈夫なのか?」
「みたいですね」
それは何よりだ。先生は呟いて再び鼻をかむと「なんでまたそんなものを植えたんだ」と忌々しげに言った。
「杉はまあわかる。木材として利用ができる。だが、あの草に何の利用価値がある?可憐な花が咲くでもなく、良い香りがするわけでもない」
「たぶん、勝手に生えたんじゃないですかね」
「勝手に?」
「確か、外来種なんですよ、あれ。で、勝手に増えるんです」
奇しくも、樹海からそれを取り除いた先生の行動は合っていたということになる。
「それもそうだな、こんな忌まわしい植物が日本固有種のはずがない」
まだ収まらないのか、目を真っ赤にしながらも先生が考えるように言った。
「ならば樹海に生えていたのは」
「風にでも乗って、種子が飛んできたんじゃないですかね」
どこにでも勝手に増える植物だ。買い手のつかない売地を、あっという間にこいつが占拠しているのを見たことがある。それをわざわざ誰かが植えたとは考えにくい。
「だが、種子が犯人の衣服に付いていて、それが現場で落ちたのかもしれんぞ」
「もしかして、私を疑っているんですか?」
先生に視線を向けると、「まさか」と肩をすくめて彼は続けた。
「どこにでも生えているのだろう?ならばこれが証拠にはならない」
完全とはいえないが、どうやら私は容疑者から外れたらしい。そのことに安堵したわけではないが、私は沸いた湯で先生に茶を入れてやった。事件の相談の件で、彼を家に彼を呼んだのは私だ。外で会うには、彼は目立って仕方がない。先日学んだ。
ようやく鼻水の落ち着いた先生が、温かい茶に誘われて部屋へと戻ろうとした時だった。ぶうん、と聞きなれた音とともに、一匹の蜂が先生に寄ってきた。
「うわあああ」
とたん、奇声を上げながら、先生が縁側から慌てて部屋に上がり込み、さらには居間に隣接する襖を勝手に開けてそちらへと逃げ込む。書斎だ。客人を招き入れるとは想定していない散らかった部屋をさらに先生が散らかして、それでも蜂の追跡を振り切れなかったのか再び居間へと戻り、さらには外へと飛び出した。
「逃げ回るから追いかけてくるんですよ!」
追いかけっこをする先生に声を掛ける。「そんなことは言っても、刺されたらどうしてくれるんだ!」
しばらくしてどうやら蜂は先生への興味を失ったらしい。すぃーっと遠くへ離れていき、先生は死に物狂いで居間へと這いずり上がると、ガタガタと大きな音を立ててガラス戸を引いた。
「あ、危ないじゃないか、すぐに業者を呼んだ方がいい」
「まあ、ただのミツバチですから、害はありません」
「まったく、花粉の次は蜂だなんて、ツイてない」
ふてくされた様子で先生は炬燵にもぐりこむと、茶をすすった。
「なんて所だ。さすがは田舎、だな」
「虫が多いのには慣れました。夏はもっとすごいんですよ、足の長い蜘蛛とか、大きなゲジゲジとか。でも冬はみんな静かなもんです」
「もうその話はやめてくれ」
先生が怯えた顔で部屋を見回した。「本当に、冬場はゲジゲジは出ないんだろうな?」
「ええ、冬眠でもしてるんじゃないですか、たぶん、家の軒下とかに」
床を指さして私が言うと、「絶対に覗きたくないな」と心底嫌そうな顔で先生がぼやいた。
「今の時期は大丈夫ですよ、きっと土の中だ。見てみますか?」
「冗談はやめてくれ」
ようやく手足が温まってきたらしい。こわばった肩を広げ、彼は癖なのか、もしゃもしゃの髪の毛を引っ張りながら口を開いた。
「しかしこんなところ、来るんじゃなかった」
「こんなところで悪かったですね」
「よくもまあ、こんなところで一人で暮らせるものだ」
先生がぐるりと部屋を見回して言った。「まあ、静かで緑豊かな環境は、読書するには最高の環境だとは思うが」
「ええ、まあ」
「あれらはすべて君の蔵書かね?」
そう言う先生の視線は、散らかった書斎へと向けられている。居間と同じく畳の部屋に、本棚がいくつかと、プリンターとパソコンの置かれたテーブルがあるだけの部屋だ。ただ、棚に入りきらなかった本や書類がそのまま床に置かれていて、日に焼けた畳の色さえ見えない。
「ほとんどは両親の残したものです」
「ふむ、だとしたらずいぶん君のご両親は、いろいろなことに興味があったのだね」
まるで襖の先が見えているかのように、先生がスラスラと口を開く。
「科学から天体、地理歴史に果ては法医学。まるで小さな図書館だ」
よくもまあ蜂に追いかけられながらこれだけ見ているものだ。私は先生の目の良さに脱帽した。
「コピーも取れるだなんて、本当に図書館だな」
先生が、トナープリンターをまじまじと見つめながら言う。
「学校の先生だったんですよ。資料をコピーするのに、こっちのほうがいいって」
「なるほど」
呟きながら、先生が散らかった部屋へと再び足を踏み入れる。仕方なしに付いていき、私は部屋の明かりをつけた。
「では、このあたりの書籍もか?」
先生が指さすのは、主に刑事もののミステリ小説やDVD。
「いえ、これは私の趣味です」
本棚をジロジロと眺められるのは、なんだか裸を見られているようで気恥ずかしい。私が憧れて、手に入れられなかったものたちが、このなかには詰め込まれている。
「ふむ、なかなか良い趣味ではないか。横山秀夫に誉田哲也、ふむ、勇嶺薫まであるじゃないか」
「ご存じなんですか?」
「私もミステリは好きでね、たまに読むよ。なるほど、君がこの不可解な事件に頭を突っ込みたがる理由がわかった気がする」
そう言いながら、先生が一冊の本に手を伸ばした。
「だが知らないなあ、『See a Forest』なんてタイトルの本は」
パラパラと先生がページをめくった。「作者は鷲野由貴……誰だ?」
彼は必死に頭の中の作家リストを検索したようだが、どうやらヒットしなかったらしい。作者への検索をやめると、さほど厚くない小さな本をジロジロと眺めている。
「『森を見ろ』だなんて、よくわからないタイトルだな。a Forestだなんて言われても、一体どの森を見ればいいんだ」
「ええと……」
先生が思いのほかその本に興味を示したので、私は概要を説明してやった。
「確か、主人公の恋人が誘拐されただとかで、犯人から脅迫状が届くんです。けれどそれの意味が分からなくて、主人公が探偵にその解読をお願いするんです」
「解読……ああ、これか?」
パラパラとページをめくって、先生が文面を読み上げる。
「『オリンポスの山の麓、ニュンペーらが住まう場所。アリスタイオスに追われたエウリデュケ、命からがら死の森へ。アトラスがヘリオスを追い越す時、愛しきオルフェウスとの逢瀬は潰える。獅子が乙女を喰らう夜、彼女に死が訪れる』……ここにもアリスタイオスと来た。他にも有名な人物はいるだろうに」
食傷気味に先生が嘆いた。そして、不意に飽きたのか顔を上げてのたまう。
「それより腹が減ったな。何かないのか」
「そんな、まだ事件について話し合いもしてないのに、もう夕飯ですか?」
せっかく私は、新たに舞い込んだ木村馨の件について話がしたくて彼を呼んだというのに。ここにきて先生は、人の家の庭と本棚を見て、そして虫に怯えただけしかしていない。さらには暗号だって解きかけだ。
「だって君、事件についてだなんてわからないことだらけじゃないか。手札が足りない。考えるだけ無駄だ」
先生はもはや腹の虫の方が気になるらしい。
「何かを考えるのにしたって、こう腹が減っていては話にならない」
「食べたら考えてくれるんですか?」
「そうだな」
そう言われてしまったら、こちらも引き下がるしかなかった。
「冷凍食品かレトルトならありますけど」
「自炊は?」
「しません」
「そうなのか?その割には、調理器具が揃っていたように思ったが」
まったくいつの間に見たのだろう。
「母が料理好きだったもので」
「ふむ、確かに少し埃をかぶっていたな。の割には一本きれいな包丁があったから、てっきり使っているものだと思ったのだが」
「私だって、キュウリやトマトぐらいは切りますよ」
土地柄、近隣の農家の方が野菜を分けてくれることもある。両親が生きていた頃よりは少なくはなったが、それでも田舎でひとり暮らしの私を老婆心からか、気に留めてくれる人もいるのだ。
「ふむ。だがあの包丁はちゃんと研いでおいた方がいい。少し刃がかけていたぞ。あれじゃあせっかくのトマトも台無しだ」
「最悪、かじればいいですし」
「品のない食べ方だな。しかし、それはまあいい。野菜はとらないと。だが今は何もないようだな」
ちゃっかり冷蔵庫の中まで確認済みらしい。
「だが、抜かりはない。こんなこともあろうかと、すでに使いを出している」
スマホを振りながらにこやかに先生が言った。
「使い?」
「安藤君に、ついでに材料を買ってきてもらおう」
「安藤?安藤を呼んだんですか?」
先生の発言は、私の心にも波を立てた。彼女とはあれ以来、なんとなく気まずくて、あまり話していない。
「私と君の共通の知人と言えば、彼女しかいないだろう」
それに、こういうのに憧れていたんだ、と先生は続ける。
「友人の家に呼ばれるなど、いつぶりだろう。こういうのは皆でワイワイやったほうが楽しいだろう?」
「別に遊ぶために先生を呼んだわけじゃないんですが」
大学生じゃあるまいし、この年で家に友人を招いてパーティーだなんてするはずがない。
「大丈夫、私が料理は作ってやる。君は招かれたつもりでくつろいでいてくれたまえ」
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