悪い冗談

鷲野ユキ

文字の大きさ
上 下
38 / 49

発見

しおりを挟む
 私は目を丸くした。聖書?まさか、死を目前にした患者へのせめてもの慰めとでもいうのだろうか。
 私がこれを目にするのは、せいぜい外資系のホテルに泊まった時ぐらいだ。引き出しを開けて、ああ、あるな、と思うだけの存在。それに死を想うことなどまずない。

「ん、なんだこれは」

 表紙には『旧約聖書 Yirməyāhū』と書かれている。その分厚い本を先生がパラパラとめると、ひらりと何かが落ちてきた。四つ折りにされた紙だ。私はそれを拾うと、青いインクで書かれた文字に気が付いた。

『AristaiosをAsteriousにしてしまったのは私』

 表にはそう書かれていた。

「なんだ、これは」

 先生が、しげしげと私の手元の紙を見つめている。「有栖医師の手紙か?」

 だが、限りなくその可能性は高いように思えた。アリスタイオス。彼女が探していた恋人の名だ。

「手紙なら、こんなところに挟んでおきますかね」

 見たところただのコピー用紙だ。便箋にはおろか、大切な何かを記しておくようなものにも見えなかった。ならば他に何に記せばそれっぽいのかは見当がつかなかったが。
 紙を広げると、次のような文章が書かれていた。こちらはきれいな黒の明朝体だ。どうやら印刷されたものらしい。

 Vfirwpv, Lruvfhに手を引かれ、冥府から抜け出でん。しかし彼はハデスからの言いつけに背いてしまった。そして、幾重にも重なるロゴスを失う。冥府の主はこう言った。『決して後ろを振り向くな』と。
 さあ行かん、悲しみを越えて。タナトスが翼を休めるその場所へ。EvmfhとViglが導くだろう。
 Wvfpzirlmと共に、青銅の時代の終わりがやって来る。そこには我らが星が燦然と輝いているだろう。

「なんですかね、これ」

 そこに書かれた意味を推測しかねて、私は眉を寄せた。

「詩か何かですか?」

 先生は私の質問に答えずに、質問で返してきた。「なんだか、似たようなものをどこかで見ていないか?」

 記憶を思い出すように先生が遠い目をした。

「ああ、『See a Forest』だ」

 私の蔵書だ。確かに、よく似ている。

「こんな感じの暗号が書いてあったな、やたらとギリシャ神話のワードが使われていた」

 先生がため息をついた。「流行ってるのか?」
「さあ」

 けれど紀元前から綿々と受け継がれてきた神話だ。流行っていると言えばそうなるか。

「しかし、この英字はなんだ?何語だ?英語でもドイツ語でもないな」
「何でしょうね」

 私はしげしげと、無愛想な白い紙を見返した。「表には手書きで書いてあるのに」
「AristaiosをAsteriousに……アリスタイオスは、あのアリスタイオスのことなんだろうな」
「たぶん」私に確認されても分からないが、曖昧に頷いておいた。

「もう一つは……アステリオス、でいいんだろうか」
「アリスタイオスに響きが似ていますね」

 先生がモサモサの髪の毛をしばらくいじくりまわしたのち、慌てて自分の口を両手で押さえた。

「どうしたんですか?」
「いや、危うくエウレーカと叫ぶところだったので自重したのだ」

 その分別が彼に残っていて良かった。なにしろここは、本来我々が立ち入っていい場所ではない。見つかりでもしたら……。少なくとも私は不法侵入の罪で捕まるだろう。

「アステリオスは、ミノタウロスの別名だ」

 私の頭の中で、黄熊の顔が牛に変わった。

「もしかして、先生が言っていたように」
「ああ、アリスタイオスこと結城誠一は、その頭を変えられてしまったのかもしれない。ミノタウロスに」

 そんな馬鹿な、という言葉は残念ながら私の口からは飛び出してこなかった。

「不老不死の結果が、頭部を異形に変えてしまった。まるで牛のように」
「……百歩譲って、実験の結果で彼の姿かたちが変質してしまったとしましょう」

 感情は納得しているのに、私の中に残る理性が、それでも反論をしろと口を動かす。

「しかしなんで牛なんです」
「……最近の研究で、ヒトのiPS細胞を使って、牛の体内でヒトの身体の一部を作れることが証明された」
「牛で?ラットとか、マウスとかじゃなくて?」
「それらの実験動物じゃヒトの器官を作るには小さすぎるのだ。iSP細胞は、元であるヒトの細胞組織に隷属する。例え他の動物の身体を憑代にしても、ヒトの器官を作り上げる。そうなると、モルモットには荷が重い」
「じゃあ豚は?」
「豚も実験体としては多用される生き物だが、何も豚でなければならなければいけないわけではない。しいて言うなら多産ゆえに、頭数を確保しやすいから、くらいだな」

 どちらも普段口にしている肉なはずなのに、実験体という言葉を聞くと途端になんだか可哀想に思えてくるのはなぜだろう。殺される側には理由など関係ないはずなのに。

「それじゃあ、実験体に牛を使って、誤って何らかの牛の細胞が入り込んでしまって、結城誠一の頭部はミノタウロスのように変形してしまった。って言うんですか?」
「この文面と私の推測からは、そう導かれるが」

 先生はそう言うけれど、私にはにわかには信じ難かった。牛とヒトの細胞が混じる。キメラだ。人と牛は決して交わらないはず。けれどギリシャ神話の中でミノタウロスは、ミノス王の妃と牛が交わって生まれた子供だ。

「だが問題はそこではない」

 考え込む私に、先生が咳払いした。「それより、この中身はなんだ?これだけギリシャ神話まみれだというのに、なぜ聖書なんぞに挟まっているのだ」

 世界中の大半がひれ伏すそれに、不躾な視線を向けて先生がのたまう。

「彼女がクリスチャンだなんて知らなかったぞ」

 今にも地団駄を踏みそうな勢いだったので、慌てて私は声を掛けた。こんなところで騒がれても困る。先生が潜入捜査とやらの仕事をサボっていなければ、有栖医師については詳しいはずだ。その彼が、彼女はキリスト教とは関係がないはずだと言っている。

「聖書は、ヒントなんじゃないでしょうか」
「ヒント?」
「ええ。これは詩じゃなくて、暗号なのでは」
「ふむ……」

 先生が腕を組む。「確かに、これは詩ではない。恐らくギリシャ神話の一節だ」

 それはなんとなく私にも予測がついた。「ここに、ハデスという言葉がありますね」
「ああ。冥府にハデスとくれば、あのハデスしかない。それに、冥府の主は『決して後ろを振り向くな』と言っている。恐らくこれは、エウリデュケとオルフェウスの黄泉下りの話だ」

 なんとなく聞いた覚えがある。

「そうだ。エウリデュケはアリスタイオスに追われていた。そのせいで彼女は命を落とす。そして、黄泉へと下ってしまった彼女を生き返らせるべく、オルフェウスは冥府へ降りる」
「良くご存知ですね」
「君の家の本の、あの暗号が気になって。調べたんだ」
「もしかして、解読できたんですか?」
「ああ。この暗号は、まるであの本の前日譚だな。だが、今はそれについてはどうでもいい。目の前の問題を解決しなければ」

 なるほど、道理で先生が妙にギリシャ神話に詳しいわけだ。興味のない振りをしていたが、彼はあの謎を必死に解いたらしい。本物の探偵だ。私は思わず笑みをこぼしたが、先生は気づくそぶりもなくコピー用紙を熱心に見つめている。

「ということは、このVfirwpvとLruvfhというのは、エウリデュケとオルフェウスと考えられるな」

 ウンウンと唸る先生の脇から、私もその紙を睨んだ。気になる点がある。

「けれど、なんでハデスだけカタカナ表記なんでしょう。あと、タナトスも」

 タナトス。フロイトの言う『死の衝動』。ハデスと言う言葉とあいまって、ひどく不吉に思えた。

「ふむ……ちょっと貸したまえ」

 コピー用紙を奪うように取り、その紙面を凝視する。

「それを言うなら『ロゴス』もだな」

 先生がコピー用紙を指さした。

「それら以外はわざわざアルファベットで記している。となると、EurydikeがVfirwpvに対応するわけだ。EがV、uがf……」

 狭い室内を、先生がカツカツと革靴の音を響かせて徘徊し始めた。その姿は思案にふける探偵そのものだが、私はそれを感心して見ていられる余裕はなかった。ああ、音を立てるのを今すぐ止めてくれ!誰か来たらどうしてくれるんだ!

 緊張で口が渇くばかりの私に対し、先生はもはや危機管理と言うものを手放してしまったのか、ブツブツと何やら念仏のようなものをしばらく唱えていた後、突然

「ヘウレーカ!」

 と叫んだ。

「ちょ、先生!」

 慌てて私は指を唇の上に当てて『静かに!』という注意を促したが、先生の目はもはや私を映していない。興奮した様子で、「これはアトバシュ暗号なのではないか」と騒いだ。

「先生、謎が解けたのはいいですけど、静かにしてください!」

 自然、注意する私の声も大きくなる。「もし、誰かに見つかったら……」

 カタリ、と言う音がした。急に目が覚めたように、先生と私は無言で見つめ合った。

『誰かいるのか?』

 確かにそう聞こえた。扉一枚隔てた先から声がした。そして、かすかな足音。明らかにこちらに向かってきている。

「だから言わんこっちゃない!」
「すまない。それよりやはり聖書がヒントだ、アトバシュ暗号と言うのは」
「今はその説明はいいですから、早くここから逃げ出さないと」

 でなければせっかく暗号が解けたところで何の意味もない。

「出口は他にはあるんですか?」
「いや、ないな」

 そりゃそうだろう。最上階の無菌室だ。そう簡単に出入り口をたくさん作るはずがない。

「そうなったら、どこかに隠れてやり過ごすしかないですよ」
「どこかって、どこに」

 先生があたりを見回した。ベッドにテレビがあるだけの、一般的な病室とさほど変わらない作りだ。そして最悪なことに、病院のベッドと言うのは往々にしてすぐに移動が出来るように、足もとにキャスターが付けられている。
 つまり、下に隠れることも出来ないのだ。

 絶体絶命。そんな言葉が私の頭をよぎった。

「しかし、窮鼠猫を噛むという言葉もある」

 近づいてくる足音が聞こえないとでもいうのだろうか。この状況で、先生が自信満々に口を開いた。

「なに、相手は一人だ」

 先生が浮かべるにこやかな笑みは、今まで見てきたどの笑顔よりも不気味だった。
しおりを挟む

処理中です...