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暗号解読
おしゃべりな先生が、言葉を発するのも苦しい様子で口を開いた。「ここは……倉庫、だな……」
「探偵って、もっと身体能力も優れているもんだと思っていました」
ため息をつきながら、私は段ボールが積み重ねられた棚に寄りかかった。
「先生、ちゃんと運動もした方がいいですよ」
人のことを言えた立場ではないが、それにしたって先生はあんまりだった。
「しかし、私のようなタイプは、思考するのに膨大なエネルギーを要するのだ。それに運動なんてしまったら、もっと多くのカロリーを摂取しなければならない。それは面倒だ」
この言葉を安藤に聞かせてやったら、どんな反応が返ってくるだろうか。『加賀見さんなんか、友達じゃありません!』私の頭の中で安藤が叫んだところで、緊張でドクドクと脈打っていた心臓もようやく落ち着いてきてくれた。
「で、この暗号は、何を示しているんですか?」
私はポケットから、汗で少し湿ってしまったコピー用紙を取り出して広げた。これを先生がアトバシュ暗号を用いて訳したのが、次のようになる。
Eurideike,Orfeusuに手を引かれ、冥府から抜け出でん。
しかし彼はハデスからの言いつけに背いてしまった。
そして、幾重にも重なるロゴスを失う。
冥府の主はこう言った。『決して後ろを振り向くな』と。
さあ行かん、悲しみを越えて。タナトスが翼を休めるその場所へ。VenusとErtoが導くだろう。
Deukarionと共に、青銅の時代の終わりがやってくる。そこには我らが星が燦然と輝いているだろう。
「綴りの間違いに意味があるのだとしたら、どんな意味が?」
しかし私の問いには答えず、先生はじっと紙を見つめたままだ。相手にされなかったのを恨んでではないが、私は諦めずに先生に語りかける。
「このロゴスってのはなんですかね。エウリデュケとオルフェウスが無くした物?」
「ペラペラと私に聞くばかりではなくて、自分で調べてみたらどうか」
先生が不機嫌そうに言った。「スマホ、持ってきてるだろう?」
言われて私はその存在に気が付いた。ライトとしてしか使ってこなかった。
まさか暗号を解くのに、検索エンジンを使っていいだなんて、歴代の探偵に申し訳ない気がした。
「使えるものは何でも使え。我々は海馬の働きを見捨てる代わりに、すぐに欲しい情報を手に入れられる環境を求めたのだから」
私は言われたとおりにググって、一番最初に出た項目を読み上げた。
「ロゴスとは、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する」
「ふむ……聖書に挟まっているあたり、確かにそれが一番濃厚だが……」
しかし先生は納得がいかないらしい。
「だが、文脈としてはおかしい。なぜハデスの言いつけに背いて、キリストを失うんだ。しかも、幾重にも重なっているのだろう?ロゴスは」
続けて私は二つ目の意味を読み上げた。
「言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、などの意味」
「ずいぶんと万能な言葉だな」
先生が鼻で笑った。「万能すぎると、却って弱い。器用貧乏と言うやつだな」
再び先生が豊かな毛髪をこねくり回しながら思案の海に漕ぎ出してしまったので、私はコピー用紙をぼんやりと見つめていた。
ひっくり返して、有栖医師のきれいな字を読む。
『AristaiosをAsteriousにしてしまったのは私』
「アリスタイオスとアステリオスって、なんか似てますよね」
だが先生が反応しないので、つまらなさそうに私は続けた。
「なんだってみんな似た感じなんでしょうね、やたらEとかRとか使いたがる」
「それだ」
私の呟きに、先生が反応した。
「幾重にも重なる、言葉を失う」
「言葉を失う?」文字通り、私は言葉を失った。「まさか、重複する文字を消せと?」
「その通りだ」
早速先生が、メモ帳に書かれたギリシャ人物の名のうち、重複するアルファベットを消していく。
驚くほどに文字が消え、残されたのは『f,v,t,a』の四文字のみだった。
「まさかこれしか残らないだなんて……」
「これらしか残らないように、意図的にスペルを変えたのだろう。それと、エラト―もその為に無理やり引っ張り出したのだろうな」
気になって私はこっそりとErtoについて検索したが、マイナーな女神だということくらいしか分からなかった。
先生の言うとおり、文脈には関係がなさそうだ。
「だが、これは何だ?」
何かの略語だろうか。あるいは、入れ替えて言葉になるか。しばらく考えてみたものの、妥当な答えは導き出せなかった。
「まだこれが解ではないということだ」
疲れたように先生が首を回す。「他にヒントになりそうな箇所はあるか?」
そう言われ、ぼんやりと紙を見つめたまま私は呟いた。
「決して後ろを振り向くな」
「だがそれは、黄泉下りの神話のことを指しているだけだろう?VfirwpvとLruvfhがエウリデュケーとオルフェウスに対応していると気づかせ、アトバシュ暗号に導くだけのヒントだ」
「でも、文脈がおかしいでしょう。入れるなら、『幾重にも重なりあうロゴスを失う』の前の方が自然です」
「だがオルフェウスが失ったのはロゴスではなくて、エウリデュケだ。ロゴスもただのヒントだろう?」
「だとしたら尚更、もっと自然な文章にすると思うんですが……」
「まあ、暗号と言うのは往々にしてどう頑張っても不自然にはなる。誰かに解かせるためには、なにかしらのヒントや法則性を織り込まなければ、そもそも暗号だとも気づかれない。確かに君の言うとおり、この文脈は不自然だ。『後ろを振り向くな』か。つまりは、前を見ていろということだな」
そこで先生は何かを思いついたのか、先ほどのメモ用紙を取り出して何かを書き記した。
「何を思いついたんです?」
「単純に、現れたアルファベットのひとつ前の文字を記した」
そこに書かれていたのは、『e u s z』と言う文字だった。
「何かの頭文字の連なりか?」
先生が首を傾げている。私はメモ用紙を覗き込んだ。
「順番を入れ替えてみるとか」
「そうだな、usze,szeu,zeus……」
はた、と先生は動きを止めた後、
「エウレーカ!」
と突然叫んだ。私は慌てて背を伸ばし、先生の口を力いっぱい塞ぐ。しかしそれに抗って、彼はこうも叫んだ。
「ZEUS。ゼウスだ!なんだ、簡単なアナグラムじゃないか」
言わずもがな、ギリシャ神話の主神だ。これだけ神話の登場人物の名がさまざまな局面で上がってきているのに、その名を聞いたのはEra of Bronzのゲーム内でくらいだった。
「意味はありそうだが」
「ゼウスがなんだっていうんでしょうね」
しばらく扉に耳を当てた後、誰も来ないことに安堵した私たちは再び用紙に目を落とす。目についたのは、文面の後半部分だった。
「タナトスが翼を休めるその場所、か」
「まさか、そこに行けってことですかね?」
ゼウス、という単語だけでは何もわからない。その示す場所に向かえば、その言葉を使う何か仕掛けがあるのだろうか。
「これって、フロイトの提唱した言葉のことですよね?」
「そうでもあるが、思想に翼は生えていない。恐らくこいつもまた、ギリシャの神を指しているのだろう」
またギリシャ神話だ。私はいい加減うんざりしてきた。有栖医師は、ギリシャ文学でも専攻していたのだろうか。せいぜいハマってたゲームがギリシャ神話をベースにしていたくらいで、ここまでするだろうか、普通。
「だが、『死の衝動』を象徴するくらいだ。この神もまた、死と言う概念を具現化した存在だ。死が翼を休める」
病院と決して切り離すことのできないもの。それは死だ。病院は病気や怪我を治す場所でもある。だが今の時代、ほとんどの人間がここで死を迎えている。
彼らが翼を休めたのち、運ばれるのは。
「まさか、霊安室に行けってことですか」
「恐らく」
ここでついに、私は盛大にため息を漏らしてしまった。
「なんでまたそんな場所に」
ずいぶんと罰当たりな場所に、有栖医師は秘密を隠してくれたものだ。不老不死の研究を、死の寝床に置くだなんて。矛盾しているように思えた。
「とにかく急ごう。転がしておいた佐伯医師も、いい加減見つかっている頃だろう」
「でも捕まったらどうするんです」
不法侵入に暴行、拉致監禁。不穏な単語が私の頭の中に浮かんでは消えて行く。
「なに、捕まらなければいいだけの話だ」
「探偵って、もっと身体能力も優れているもんだと思っていました」
ため息をつきながら、私は段ボールが積み重ねられた棚に寄りかかった。
「先生、ちゃんと運動もした方がいいですよ」
人のことを言えた立場ではないが、それにしたって先生はあんまりだった。
「しかし、私のようなタイプは、思考するのに膨大なエネルギーを要するのだ。それに運動なんてしまったら、もっと多くのカロリーを摂取しなければならない。それは面倒だ」
この言葉を安藤に聞かせてやったら、どんな反応が返ってくるだろうか。『加賀見さんなんか、友達じゃありません!』私の頭の中で安藤が叫んだところで、緊張でドクドクと脈打っていた心臓もようやく落ち着いてきてくれた。
「で、この暗号は、何を示しているんですか?」
私はポケットから、汗で少し湿ってしまったコピー用紙を取り出して広げた。これを先生がアトバシュ暗号を用いて訳したのが、次のようになる。
Eurideike,Orfeusuに手を引かれ、冥府から抜け出でん。
しかし彼はハデスからの言いつけに背いてしまった。
そして、幾重にも重なるロゴスを失う。
冥府の主はこう言った。『決して後ろを振り向くな』と。
さあ行かん、悲しみを越えて。タナトスが翼を休めるその場所へ。VenusとErtoが導くだろう。
Deukarionと共に、青銅の時代の終わりがやってくる。そこには我らが星が燦然と輝いているだろう。
「綴りの間違いに意味があるのだとしたら、どんな意味が?」
しかし私の問いには答えず、先生はじっと紙を見つめたままだ。相手にされなかったのを恨んでではないが、私は諦めずに先生に語りかける。
「このロゴスってのはなんですかね。エウリデュケとオルフェウスが無くした物?」
「ペラペラと私に聞くばかりではなくて、自分で調べてみたらどうか」
先生が不機嫌そうに言った。「スマホ、持ってきてるだろう?」
言われて私はその存在に気が付いた。ライトとしてしか使ってこなかった。
まさか暗号を解くのに、検索エンジンを使っていいだなんて、歴代の探偵に申し訳ない気がした。
「使えるものは何でも使え。我々は海馬の働きを見捨てる代わりに、すぐに欲しい情報を手に入れられる環境を求めたのだから」
私は言われたとおりにググって、一番最初に出た項目を読み上げた。
「ロゴスとは、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する」
「ふむ……聖書に挟まっているあたり、確かにそれが一番濃厚だが……」
しかし先生は納得がいかないらしい。
「だが、文脈としてはおかしい。なぜハデスの言いつけに背いて、キリストを失うんだ。しかも、幾重にも重なっているのだろう?ロゴスは」
続けて私は二つ目の意味を読み上げた。
「言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、などの意味」
「ずいぶんと万能な言葉だな」
先生が鼻で笑った。「万能すぎると、却って弱い。器用貧乏と言うやつだな」
再び先生が豊かな毛髪をこねくり回しながら思案の海に漕ぎ出してしまったので、私はコピー用紙をぼんやりと見つめていた。
ひっくり返して、有栖医師のきれいな字を読む。
『AristaiosをAsteriousにしてしまったのは私』
「アリスタイオスとアステリオスって、なんか似てますよね」
だが先生が反応しないので、つまらなさそうに私は続けた。
「なんだってみんな似た感じなんでしょうね、やたらEとかRとか使いたがる」
「それだ」
私の呟きに、先生が反応した。
「幾重にも重なる、言葉を失う」
「言葉を失う?」文字通り、私は言葉を失った。「まさか、重複する文字を消せと?」
「その通りだ」
早速先生が、メモ帳に書かれたギリシャ人物の名のうち、重複するアルファベットを消していく。
驚くほどに文字が消え、残されたのは『f,v,t,a』の四文字のみだった。
「まさかこれしか残らないだなんて……」
「これらしか残らないように、意図的にスペルを変えたのだろう。それと、エラト―もその為に無理やり引っ張り出したのだろうな」
気になって私はこっそりとErtoについて検索したが、マイナーな女神だということくらいしか分からなかった。
先生の言うとおり、文脈には関係がなさそうだ。
「だが、これは何だ?」
何かの略語だろうか。あるいは、入れ替えて言葉になるか。しばらく考えてみたものの、妥当な答えは導き出せなかった。
「まだこれが解ではないということだ」
疲れたように先生が首を回す。「他にヒントになりそうな箇所はあるか?」
そう言われ、ぼんやりと紙を見つめたまま私は呟いた。
「決して後ろを振り向くな」
「だがそれは、黄泉下りの神話のことを指しているだけだろう?VfirwpvとLruvfhがエウリデュケーとオルフェウスに対応していると気づかせ、アトバシュ暗号に導くだけのヒントだ」
「でも、文脈がおかしいでしょう。入れるなら、『幾重にも重なりあうロゴスを失う』の前の方が自然です」
「だがオルフェウスが失ったのはロゴスではなくて、エウリデュケだ。ロゴスもただのヒントだろう?」
「だとしたら尚更、もっと自然な文章にすると思うんですが……」
「まあ、暗号と言うのは往々にしてどう頑張っても不自然にはなる。誰かに解かせるためには、なにかしらのヒントや法則性を織り込まなければ、そもそも暗号だとも気づかれない。確かに君の言うとおり、この文脈は不自然だ。『後ろを振り向くな』か。つまりは、前を見ていろということだな」
そこで先生は何かを思いついたのか、先ほどのメモ用紙を取り出して何かを書き記した。
「何を思いついたんです?」
「単純に、現れたアルファベットのひとつ前の文字を記した」
そこに書かれていたのは、『e u s z』と言う文字だった。
「何かの頭文字の連なりか?」
先生が首を傾げている。私はメモ用紙を覗き込んだ。
「順番を入れ替えてみるとか」
「そうだな、usze,szeu,zeus……」
はた、と先生は動きを止めた後、
「エウレーカ!」
と突然叫んだ。私は慌てて背を伸ばし、先生の口を力いっぱい塞ぐ。しかしそれに抗って、彼はこうも叫んだ。
「ZEUS。ゼウスだ!なんだ、簡単なアナグラムじゃないか」
言わずもがな、ギリシャ神話の主神だ。これだけ神話の登場人物の名がさまざまな局面で上がってきているのに、その名を聞いたのはEra of Bronzのゲーム内でくらいだった。
「意味はありそうだが」
「ゼウスがなんだっていうんでしょうね」
しばらく扉に耳を当てた後、誰も来ないことに安堵した私たちは再び用紙に目を落とす。目についたのは、文面の後半部分だった。
「タナトスが翼を休めるその場所、か」
「まさか、そこに行けってことですかね?」
ゼウス、という単語だけでは何もわからない。その示す場所に向かえば、その言葉を使う何か仕掛けがあるのだろうか。
「これって、フロイトの提唱した言葉のことですよね?」
「そうでもあるが、思想に翼は生えていない。恐らくこいつもまた、ギリシャの神を指しているのだろう」
またギリシャ神話だ。私はいい加減うんざりしてきた。有栖医師は、ギリシャ文学でも専攻していたのだろうか。せいぜいハマってたゲームがギリシャ神話をベースにしていたくらいで、ここまでするだろうか、普通。
「だが、『死の衝動』を象徴するくらいだ。この神もまた、死と言う概念を具現化した存在だ。死が翼を休める」
病院と決して切り離すことのできないもの。それは死だ。病院は病気や怪我を治す場所でもある。だが今の時代、ほとんどの人間がここで死を迎えている。
彼らが翼を休めたのち、運ばれるのは。
「まさか、霊安室に行けってことですか」
「恐らく」
ここでついに、私は盛大にため息を漏らしてしまった。
「なんでまたそんな場所に」
ずいぶんと罰当たりな場所に、有栖医師は秘密を隠してくれたものだ。不老不死の研究を、死の寝床に置くだなんて。矛盾しているように思えた。
「とにかく急ごう。転がしておいた佐伯医師も、いい加減見つかっている頃だろう」
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