悪い冗談

鷲野ユキ

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青銅の時代の終わりへと

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 現れたのは、緑の肌をした女だった。その不気味さに私は一瞬たじろぐも、この世界にはこういう種族がいたことを思い出す。
 ドリュアス。木の精霊だ。彼女は何を言うでもなく、ただこちらを見つめて佇んでいる。その頭上には。

「『エウリデュケ』……これは、誰のアカウントなんだ?」

 暗号に登場した人物の名がそこには浮かんでいる。

「これは偶然なんかじゃない」

 先生の意見に私も同意だった。

「これが、もう一つの有栖医師のアカウントなんでしょうか」
「うーむ、エウリデュケ、か。神話の中では、アリスタイオスに付きまとわれて死んだ、森の精霊の名だ」
「そして黄泉の国から、オルフェウスが連れ戻そうとした」

 しつこく聞かされた話を私は補足した。

「そうだ。だがそう考えるとおかしい。アリスタイオスは結城誠一だろう?彼を死に追いやったのがエウリデュケになってしまう。位置が真逆になってしまうじゃないか」

 そう言いながら、慣れた手つきで先生が画面を操作する。

「本当に、ゲームの世界の中まで有栖医師のことを付け回していたんですね」

 感心すると同時に恐ろしくなった。彼を敵に回すのも、あるいは異常に好意を持たれるのも勘弁だと思った。

「そうだな。匿名性の高い世界は、非常にやり易くて助かる」

 一瞬画面から目を離し、先生がにやりと笑った。「まさか身近な人間と、何万といるユーザーの中で偶然会うだなんて誰も考えない。まして見た目や名前から相手のことが推測できないならばなおさら」

「だからこそ、みんな架空の世界で思い思いに好きなことをやってるんじゃないんですか」
「そうだ。ゆえに、普段は隠している顔をのぞかせる」
「そうやって、エーオースの化けの皮を剥いで、有栖千暁の本当の顔を探ろうとしていたんですか?」
「ああ。ついでに、君の探し人も見つけてやったんだ。得られたのは、グラヤノトキシンの入手元だけだったがな」
「へ?」

 思わず私は先生の頭に目を向けた。熱心に画面を見る先生の、豊かな毛髪しか視界には入らなかったが。

「もしかして、メリッサを呼び出したのは」
「今頃気付いたの?」

 先生が顔を上げた。赤ら顔が口の端を上げている。一瞬、彼の耳がエルフのように尖ったように見えた。
 この顔で放たれる女言葉は強烈だ。私は思わず後ずさる。

「まさか、エコーは先生?」
「そうよ、あなたがピンクの髪の女の子にご執心のようだったから。見た目とアカウント名、さらにはどこのサーバーにいるかもわかってるんだもの、見つけて呼び出すくらい簡単よ」

 しかし同じセリフでも、銀髪ナイスバディが言うのと、目の前の男が言うのとでは破壊力が違う。
 薄々、エコーは本当は女じゃないのではとは思っていた。あまりにも完璧に女過ぎるからだ。
 だが、よりによってこの男だったとは!

 なんだか弄ばれたような気がして、私はぐったりしてしまった。

「それならそうと、最初からそう言ってくれれば」
「それじゃあ面白くないし、ボロが出る可能性がある。演じる時は一つの物になりきらないと」
「しかしなんだって、アイテムの転売なんてやってたんです」
「ちょっと小遣い稼ぎにな」

 むしろそちらの方が、探偵などと言う怪しい稼業より儲かるのだろうか。彼の車を思い出す。それに、気前よくメリッサに五万払ったくらいだ。よほどの利益が出るのだろう。

 絶句する私をよそに、先生は手際よく『エウリデュケ』のステータスを確認していく。レベルはさほど高くなくて、これと言ったレアアイテムも持っていない。

「いわゆるサブアカというやつだろう」

 あくまでもメインはエーオースだ、と先生。

「やり込み度が違いすぎる」
「何のためにわざわざこんなキャラを作ったんでしょうね」

 しかもハードを変えてまで、だ。
 普通、スマホの機種変などがあってもデータを引き継げるように、クラウド上にアカウントを最初に作らされる。このアカウントとパスがあれば、新しい端末でも今まで通りにゲームをプレイすることが出来る。
 つまり、どんなハードからだってログインできるのだ。
 だというのに、ハードもアカウントさえも変えて、新たにエウリデュケというキャラを彼女は作った。

「本当にこれは、有栖医師のiPadなのだろうか」

 先生が首を傾げた。

「もしかして、有栖医師の物ではなくて、佐伯医師の物、だったりして?」
「その可能性もなくはない」

 先生が美女を操作するくらいだ。イケメンが緑の女になりきったって、おかしくはない。

「まあ、どちらが所有していたにせよ、これは有栖医師と佐伯医師の情報のやり取りの場だったことは間違いなさそうだ」

 先生が『三女神の間』を開いた。いわゆるチャット部屋というやつだ。仲良くなった他のユーザーとのみ会話をすることができる場所で、フレンドリストにはエーオースの名が上がっていた。

「話し相手がエーオースなら、なおさら佐伯医師の物っぽいですね」
「そうだな。彼は、エーオースの正体を知っていた」
「もしかしたら二人の会話のログに何か情報があるかもしれません」
「そうだな」

 先生が、『過去の会話を見る』という項目をタップした。

7/10
E『プロメテウスの核をミノタウロスへ。経過良好。カルキノスはヘラクレスによって潰された』
8/1
E『残された時間はわずか。すでに結果は出ている。ミノタウロスで大丈夫だったのだから、アリスタイオスでも大丈夫だろう』
8/5
E『ゼウスから許可が出た。彼はゼウスの血を引くもの、決して病に負けるはずがない。時間はもうない。不安からか、メリッサに頼り始めた。何度も止めるように言っているのに。そんなものは頼りにならない、むしろ悪化を招くばかりだ』
8/10
E『プロメテウスの核をアリスタイオスへ。果たして彼は、ヘラクレスになれるのか』
8/15
E『経過不明。ただ、頭頸部に炎症が見られる。一過性のものだと伝えるも、架空世界に逃げ込んでしまう。そこに永遠があると思っている。彼は私の言葉を信じない、頼りにならないメリッサを支えにする。すべてはまやかしだというのに。つい彼をPKしてしまった。早く目を覚まして』 
8/20
E『アリスタイオスがここを出たいという。私の言葉は届かない。ダメだと言い聞かせるも聞かない。痛みがひどいようなのでモルペウスを投与。意識が混濁しているのか、『森』と言う言葉をしきりに繰り返す。知人だろうか。あるいは彼女の名がそうなのか。ゼウスに確認するも『森』なる人物は不明』
8/21
E『アリスタイオスが消えた。『森』なる人物の手引きだろうか。私のせい?なんにせよ、私は彼を探さなければならない。彼はどこに?』

「なんだこれは。まるで日記だな」

 先生がついに画面から目を離した。私も合わせて背を伸ばす。ずっと前かがみで画面を凝視していたものだから、目と腰が痛い。

「そうみたいですね」
「チャットの意味がないじゃないか」

 話しているのは緑の肌の女ばかりで、それに返す相手のアイコンすらそこにはない。

「単に、記録として残しただけのようですね」
「ふむ。まあ確かに、目につきにくいだろうな。メールやLINE、電話などだと履歴も残るし見つかりやすい」
「でも、ゲーム内の会話は、このゲームの運営会社のサーバーに保存されてるんでしょう?それって、運営会社がのぞき放題じゃないですか」
「まさか。いちいち会話の内容なんて確認してないだろう。まあ、あまりに不穏な単語が飛び交っていたら、自動的に感知するようにはなっているかもだが」

 現にエウリデュケの独り言は、それとなくぼかして書かれている。個人名も方法も、どうとでも取れる内容だ。

「しかし、これを証拠と言っていいものか」
 先生は困り顔だ。「これだけでは決定打に欠けるな」
「アリスタイオスが結城誠一のことを指しているのは間違いないでしょうが」

 ここにはPKした、と記述がある。エーオースは本当にゲーム内で結城誠一を殺していた。ゲーム世界に没頭する、彼の目を覚まさせるために。

「ああ、消えた、とあるな。しかし、この『森』っていうのは誰だ?」
「さあ。エウリデュケ……有栖医師は『彼女』と言っていますが……」

 誰のことだろうか。木村馨?それとも、メリッサ?

「それと、ゼウスと言うのは?」
「許可を得た、とあるから、恐らく佐伯院長のことではないかと思うのだが……」
「しかし、アリスタイオスがゼウスの血を引いているっていうのは?」
「神話上だと、確かアリスタイオスはアポロンの子で、アポロンはゼウスの子だ」
「結城誠一が佐伯院長の孫?まさか」

 二人とも、そんな歳ではないはずだ。ここまで来て、事態は暗礁に乗り上げてしまった。むしろ意味深な単語や登場人物が増えたことによって、よけいわけがわからなくなってしまった。
 膨大な量の意味不明なログを見るのに飽きて、先生は画面をいじくっている。

「フレンドリストにはもう一つ名前があるな」

 その後ろから私も画面を覗き込んだ。

「オルフェウス……?」

 言わずもがな、神話の中のエウリデュケーの夫だ。これもまた暗号に出てきた名でもある。

「関係ないわけはないだろう」

 先生がチャットを開く。今度は、対話形式のログが現れた。緑の肌の女こと『Eurydike』と、これと言った特徴のない男『Orpheus』の二人だ。

E『あの人に付きまとわれて困っている』
O『キミがあんまりアイツに優しくしたのがいけないんじゃないのか?』
E『そんなこと言っても、相手は協力者なんだし、しかもVIPだもの。ぞんざいには扱えない』
O『とはいえ、そのせいでキミはいわれのない誹謗中傷を受けているんだろう?』
E『そうね』
O『まったくいい迷惑だよ、色男が調子に乗りやがって』
E『一応、彼女の為に別れたと彼は言ってるけど』
O『どうだか。単にキミっていう新しいおもちゃに夢中なだけだろ。しかし、どこまで本気なんだか。しかもキミの名前まで持ち出して』
E『ああ、〈アリスタイオス〉。私がいけないの、EoBのプレイ画面を見られてしまったから』
O『それがきっかけで、自分もキャラを作って参加するって言い出したらしいな』
E『まさか、関係者だったなんて思わないじゃない』
O『関係者?このゲームのかい?』
E『ええ。監修に携わってたって。いろんな裏技も知ってるみたい』
O『へえ、すごいじゃないか。ギリシャ神話に詳しいのかい?』
E『そうみたい。暇さえあれば、ずっとやってるのよ』
O『まあ、病人なんて他にすることもないだろうしな』
E『付き合わされる私の身にもなってよ。うんちくばっかり聞かされて、もううんざり。キャラ名をアリスタイオスにしたのは、私の名前から取ったのと、この神様が養蜂の神だからだなんて言うの』
O『それが何の関係が?』
E『蜂蜜で治すんですって』
O『癌を?バカ言え。そう言う民間療法はあるらしいけど、全部デマだろ』
E『本当。でも言っても聞かないの』
O『キミの最先端医療の方がよほど効くはずだろう?どうなんだいそっちのほうは』
E『それは……今度話すわ』
O『楽しみに待ってるよ。父もキミには期待してるんだから』
E『期待に応えられるといいんだけど。それにしたって嫌な偶然。知ってる?このアカウントのエウリデュケは、アリスタイオスに追いかけまわされて死ぬのよ』
O『大丈夫さ、仮に何かあっても、僕がキミを助けに行くよ』
E『本当?でも死んでからじゃ遅いわ。一度死んだら、蘇るのは不可能だもの』
O『だから、死なないように研究してるんだろ?健康寿命を延ばすのは、我々の目標であり義務だからね』
E『お父さんの受け売りね』
O『まあ、せめてゲームの中でだけでも相手してやったらどうだ?それを浮気というほど僕は心の狭い人間じゃあない』
E『あなたがそう言うのなら』
O『けどこのアカウントでやるのはやめてくれよ。僕らの関係がばれても困る』
E『もちろん。そうね、じゃあ、〈エーオース〉なんてどうかしら?』
O『誰だいそいつは』
E『暁の女神。私にぴったりの名前でしょう』
O『アリスタイオスの受け売りか?』
E『ええ、そう』
O『案外、君もあいつに夢中なんじゃないのか?』
E『まさか』

「アリスタイオスに付きまとわれている……神話の中の話だけではなさそうだな」

 先生があくびまじりに呟いた。つられて私の口が自然と開く。出るのはあくびばかりで、何も意見は出てこない。

「ということは、エウリデュケは佐伯医師ではなくて、有栖千暁で間違いないということだな」
「そうですね」
「ということはつまり、エーオースとの対話は、本当に独り言だってわけだ」
「ええと……では、オルフェウスが佐伯医師?」
「そうなるだろう。しかし二人の会話を見ていると、まるでこれは……」
「恋人みたいですね」

 どういうことだろう。有栖医師は結城誠一と恋仲だったのではなかったのか。

「しかしすごい量だな」

 先生がちらと壁に掛けられた時計に目をやった。深夜三時。走り回ったこともあって、ひどく体が怠かった。

「なにも二人がかりでやることもないだろう。どうだ、交代で休憩しながらログの確認をするというのは」

 この先生の意見に異議など出るはずがなかった。

「そうですね、そうしましょう」
「まずは君が先に寝たまえ。三時間後に起こすから、続きは君がやってくれ」

 先に休んでいいと言われたので、私はありがたくその言葉に従うことにした。正直頭もうまく働かないし、休んだ方が効率がいい。

 ようやく帰ってこられた我が家だ。万年床に引き寄せられるように身体を横たえると、あっという間に私の意識は深く闇の中へと消えて行った。
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