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三章
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しおりを挟むバタバタと大きな音をさせて綾女が玄関から入ってきた。外でプランターの花に水をやっている最中だった筈だが、虫でも出たのだろうか。執筆していた植村がリビングに出るとちょうどかち合って、綾女が泣きそうな顔で抱きついてきた。
「大丈夫?虫ですか?」
「へ、へんなひと」
変な人。ちょうどインターホンが鳴って、画面には羽根谷慧が映っていた。植村は通話ボタンを押す。
「慧、変な人ですよ」
『ああ?ざけんな。きっちりスーツ着てきてんだろうが』
「金髪にスーツだから言ってるんですよ」
髪を後ろに撫でつけて、まるでヤクザだ。綾女が驚くのも無理は無い。
綾女に自分の部屋にいるように告げて、玄関へ向かう。慧は勝手に入って靴を脱いでいた。
「鍵開けっぱだったから勝手に入ったぞ」
「カウンセリングは来週でしょう?名越編集ですか?」
「今週、台風来るだろ?で、来週まで出張が伸びてな。今日来てやった」
「連絡くださいよ」
「した。返事無かったから今来た」
執筆中は通知を切っている。作業に必要な資料はラップトップにまとめてああるから、スマホは使わない。にしても急過ぎる。
「お嬢さん元気そうだったな。安心したよ」
慧はリビングを見やる。既に綾女は部屋に避難して、姿は無い。
「私より元気ですよ。家から出たがらないので、そろそろ運動させた方がいいかもしれません」
「あの様子だと、お前以外とも話さないみたいだな」
「会話はほぼ不可能です。最初は「先生」しか言えなかったんですけど、最近少しずつ別の言葉も覚えてきてます」
絵本の効果なのか、ぽつぽつと話すようになってくれている。ほとんど単語だが、意味は伝わるので助かっている。
「そりゃ重畳」
片方の口端だけ吊り上げて、慧は歪に笑った。それから手に提げていた袋を植村に渡した。
「ほれ差し入れ。お嬢さんにも」
「これ差し入れだったんですか。慧のお昼ご飯かと思ってました」
「見てみろよ中身。たくさんあるぜ」
広げるとゼリーや羊羹、饅頭など。小さな菓子が袋いっぱいに入っていた。よく見ると和菓子屋の名前の包みで、ここらでは最も有名な店だった。
「高かったでしょうに」
「無料だから気にすんな。患者のツテでもらったんだよ」
酒呑みには甘いものより、おつまみの方が喜ばれる。植村は、差し入れの礼にと、干し海老をあげた。量としては釣り合わないが、食べれるものを渡した方が、慧の為になる。
「つぅわけでカウンセリングするぞ」
ソファに座り膝を叩いて、ネクタイを外す様は、本当にヤクザみたいだ。こちらへ来いと手招きしてくるのを、植村は無視した。
「おい」
「ちょっと待って。執筆部屋に行きましょう。見せたい物があるんです」
逆に手招きして、慧を呼び寄せる。執筆部屋に入ってから、植村は声を潜めて言った。
「あの子、聞き耳立てるんです。綾女さんに聞かれたくないので、筆談にしましょう」
「めんどくせ。それよりお前…なんか体調悪そうだな。書いてるからか?」
「ああ…それを話そうと思ってたんです」
植村は本棚に挟んでおいた封筒を取り出した。中身を抜いて慧に渡してから、椅子に座る。
慧が書類に目を通した所を見計らって、植村から言う。
「私、アルファになったみたいです」
「…まじか」
「しかも私だけ発情期に当てられてるみたいで、毎日、抑制剤打ってます」
「ヒートに当てられた?なんだそれ」
原因不明の発熱が続き、これがヒートによるものではと疑い、病院で検査した所、植村がアルファに「転換」しているのが判明した。
ペンマークを打たれたのは綾女で、植村ではない。しかしペンマークを打たれたことで、元々弱かった番の繋がりが、強くなった。
「ペンマークは無理矢理に番関係を結べます。そのお陰で、私と綾女さんは通常の番となれたようです」
「不幸中の幸いって奴か」
「無性は、何にでも「転換」出来るそうですよ。そういった例は、いくつか知ってましたが、まさか自分がそうなるとは思いませんでした」
「いや待てよ。通常の番なら発情期は起こらないだろ。なんでお前だけそんなんになってんだ」
それは植村も疑問だった。だから病院で検査したのだが、担当の若い医師は、よく勉強しているようで、懇切丁寧に説明してくれた。
「まだ本当の番じゃないからだそうです」
「…それって」
慧は口をつぐむ。植村もわざわざ言う気も無かった。
「稀ですが、海外に症例があったそうです。番となったオメガがまだ十歳だったので、アルファは行為をしなかった。そしたらアルファだけに発情期に似た症状が現れたとか」
ラット、と言うらしいが、症例は少なく一般には知られていない名称だ。
「いつから抑制剤打ってんだ」
「綾女さんが、うちに来てからなので…」
「一ヶ月も抑制剤打ってんのか」
そういう事になる。抑制剤はオメガ向けに開発されたものなので、アルファがこうも連投するのは危険だった。
「量は加減してますけど、こうも執筆に差し支えあると嫌になってきます」
「そんなこと言ってる場合じゃねぇだろ。今すぐ綾女から離れないと」
「離れたくない」
正直に言う。カウンセリングなのだから、隠していては始まらない。
「時々、死んだ娘を思わせる行動をしてくれます。これって身代わりなんですかね」
慧の反応は薄かった。あまり良い反応ではないのだろうと思っていたら、彼はスマホを取り出した。何かを打ち込んで、植村に見せる。
『理由はそれだけか?』
聞き耳を立てているかもという植村の発言を考慮してくれたのだろう。植村は打ち慣れているラップトップを使って返事をした。
『妻と娘の死を知っているからでしょうね。目の届く所にいてくれないと、落ち着かない』
「ちゃんと言えるじゃねぇか」
「スマホ使ってください」
にやにやしながら、慧はスマホを見せる。そこには彼の妻と娘の写真が映っていた。
「可愛いだろ」
「ええとても」
「綾女と写真撮ってないのか?」
「無いですね」
「撮ったほうがいいぜ。よけい離れがたくなる」
植村はかつて自殺の為に妻と娘の写真を処分していた。だからだろうか。何かを残すという発想が無い。
「あの弟はどうなったんだ?」
と、慧が聞いてくる。植村も知らなかった。ニュースにはなっていないから無事に保護されたかもしれない。
トンボからは歯型が一致したとメールが届いていた。それきりだ。関わるなと言われたから、その通りにしている。
今の綾女は、稔はおろか和典の記憶も無さそうだが、念を入れてラップトップに打ち込んで、事情を慧に見せた。
「おいおい。大丈夫かよ。あの美人さんに聞いとけよ」
確かに。どうなったかくらいは聞いてもいいような気がする。稔をうまく誘い出してこの家に連れ込んで吐かせたから、その気になれは向こうはここの居場所を探し出して報復出来るのだ。
稔の証言は全て録音済みだ。落ち度は向こうにある。いまさら何かをしてくるとは思えないが、恋は人を狂わせる。警戒しておいて損はない。
『また稔が綾女さんに危害を加えようものなら、私は今度こそ殺すかもしれない』
画面を覗き込む慧は、そうだな、と肯定してくれた。端末に打ち込んで、同じように画面を見せてくる。
『良い傾向だ』
非難されるかと思っていた植村は、慧の意外な答えに疑問符が浮かぶ。慧は理由を教えてくれた。
『少なくとも綾女に執着している。大切にしたいと思っている』
『綾女さんに関してはそうです。というか、彼を呼び捨てにするの止めてください。不快です』
「悪かったよ」
笑いながら、慧は足を組んだ。白の靴下のワンポイントが可愛らしいパンダなのは、誰の趣味だろうか。
『お嬢さんを愛してるか?』
『肯定するかを測ってます?』
『促すのと認めるのは違うからな。質問に答えろ』
強制されると反抗したくなる。植村も足を組んだ。こちらは小さな猫が散りばめられた靴下だ。今の綾女が選んだものだった。
「どうせ言うなら、本人に言ったほうがいいと思いません?野暮なこと聞かないでください」
「お、かわいい靴下だな」
「慧もね」
「だろ?娘が選んだんだよ」
裾を上げて、パンダを見せてくる。植村は、くすりと笑った。
「これなんなんですか?カウンセリングなんですか?」
「紛うことなくカウンセリングだ。お前が拒絶せずに応じるだけで、治療が進んでいる」
「じゃあ治療完了ですね。もう次から無しでいいですか?」
「馬鹿言うなよ。俺が判断すんだよ。てか抑制剤の常用が危険だ。心臓止まるぞ」
「でも、使わないと動けなくなるんですよ」
副作用の少ない抑制剤を、使用量の半分で効いている。だからといって大丈夫というわけでは無いのは重々承知しているが、他にどうしようもなかった。
「さっさとセックスしりゃいいじゃねぇか」
「本当に私は貴方が嫌いです」
「あのお嬢さんの何を待ってるんだ。元に戻るとでも思ってんのか」
戻るか戻らないかと聞かれたら、戻らないだろう。ペンマーク後遺症が回復するとは思えなかった。
このまま植村が抑制剤を打ち続けていたら、必ず限界が来る。綾女も共倒れとなる。自滅の道ならぬ、新たな心中への道だった。
「さすがに死のうとは思ってませんよ。駄目そうなら、最悪そうしますから、慧は別にそこ気にしないでください」
「俺に話すんだ。信用してやるよ」
話は終わりだと、植村の肩を叩いてくる。たった十分しか経っていない。綾女を配慮してのことだろう。
そういえば幻の酒のお返しをまだしていない。そのうち良い酒でも見繕ってやろうかと、植村はラップトップを閉じた。
床に座り込んで、ローテーブルに広げた菓子を一つ一つ手にとって眺めている。どれを食べようか決めかねているらしい。
植村も同じように座り込み眺めてみる。やっと決めたらしい。綾女が選んだのは黒豆の大福だった。包みをあけて、目を輝かせて、無邪気に頬張って、白い粉を口周りにたくさん付けている。植村は苦笑しながらハンカチで拭いた。
「美味しいですか?」
綾女は食べかけを寄越してきた。少しだけ食べると、黒豆の食感が実に絶妙で、控え目な餡の味も自分好みだった。
「おいしい?」
美味しいだろと言わんばかりに聞いてくる。植村は肯定して、綾女の頭を撫でた。
そういえば来週、台風が来るらしい。慧が言っていた。スマホで天気予報を調べると、確かに台風情報が出ていた。この地方を直撃らしい。
台風と言えば、綾女と行った島川浜を思い出した。台風の前日に遊んで、翌日に心中ごっこなんかしたっけ。波に攫われそうになった綾女を、この手で抱きとめた感触を、まだ鮮明に思い出せた。
あの時に泊まった民泊の空き状況を見てみる。海のシーズンが過ぎたからか、平日の予約者は皆無だった。植村はわざわざ台風が来るであろう日に予約した。
というわけで隣県へ。先に民宿で一泊して台風をやり過ごし、翌日に島川浜へ行くことにした。
暴風で、綾女は怖がるだろうかと危惧していたら、案外この状況を楽しんでいた。助手席で、ワイパーと一緒になって左右に揺れている。
「先生、どこいくの?」
「宿ですよ。民宿です。たくさん海の物食べましょうね」
「さかな?」
「ええ、魚です」
ガラスに打ち付ける雨風を、綾女は触れようと手を伸ばす。シートベルトをしているから、フロントガラスまでは届かない。直ぐに諦めた。
「先生、服ちょうだい」
「寒いですか?」
「ううん。先生の服ほしい」
変な事を言い出すものだ。植村は脇に車を止めて、自分の上着を脱いで綾女に渡した。
すると綾女は上着を着ずに、抱きしめるように腕に抱いた。
寒くないのに、そんなことをする。取りあえず車を発進させる。
「先生の服、先生のにおい、するね」
「おじさんの匂いですよ」
「いいにおい」
さすがに植村も気づいた。走り出した車を急には止められない。ハンドルを強く握る。
巣作りだ。オメガが相手のアルファの衣服をかき集める行為。綾女に、発情期が迫っている証だった。
どうして今まで気づかなかったのだろう。隣に座っている綾女は、こんなに甘い香りをさせているのに。
止められる場所を見つけて、車を付ける。植村は濡れるのも構わずにトランクを開けて鞄を持って運転席に戻った。
鞄の中から抑制剤を取り出す。注射器にセットする。
「綾女さん、腕だして」
注射器が怖いのか、綾女は怯えた顔をした。
「発情期が来ます。今のうちに抑制剤を打っておきましょう」
「いや」
「すぐ終わりますから」
「いや!」
首を横に振られる。植村の服を握りしめて、目に涙を溜めている。
「お薬…こわい…」
「怖くないですよ」
「だって…こわい。男の人、注射した。ぶたれて…蹴られた…」
涙が落ちてしまう。植村は身を乗り出して綾女を抱きしめた。
「ぼ、僕のって言う。男の人、くび、何度も噛んできて…いたかった」
彼が言っているのは、稔にペンマークを打たれた時のことだろう。綾女の最初の記憶は、最も凄惨な場面から始まっていたのだ。
ならばと、植村は小瓶を取り出した。
「錠剤です。これなら飲めるでしょう?痛くないですよ」
「……かんでもいい?」
本当は砕かない方がいいのだが。今は何より飲ませるのが先決。植村は了承した。
恐る恐る錠剤を少しだけ噛んだ綾女は、苦い顔をした。子供が食べられるように味を調整しているわけでもない。砕けば薬の苦味が出てしまうのは、至極当然だった。
「にがい…や…」
「やですか…」
どうしたものか。苦味を誤魔化せるジュースはあるが、薬は水で飲んでもらいたい。噛んでいいかと聞いてきたのは、薬を飲み込めないからだ。小指の爪ぐらいある大きさであれば、大人でも飲み込むのを躊躇する。
仕方ない。欠けた残りの錠剤を、植村は自分の口に入れた。水を飲んで、不思議そうにこちらを見ている綾女に、口移しで飲ませる。
逃げられないように、後頭部を押さえるが、綾女は抵抗しなかった。
嚥下の音を聞いて、植村はゆっくり口を離す。
「…………」
「…飲めました?」
綾女は自分の唇に指を当てて撫でた。水で濡れた唇は、紅を塗ったように赤い。
「せんせい、すごいね」
「すごいんですか?」
「全然こわくなかった」
うっすら色づいた指先が喉をつたう。甘い香り。色香に当てられている。頭がくらりと持っていかれそうになる。朝、植村は既に抑制剤を打っている。なのに熱がやって来る。まだ注射は出来ない。植村も薬を飲もうと小瓶の蓋を開けた。
「まだ、飲まないとだめ?」
「え?…いえ、これは私が飲むんです」
綾女は満面の笑みを浮かべると、植村の手から錠剤を奪っていった。あ、と言う暇もなく、綾女は錠剤を口に入れて、水を飲んだ。
植村は呆然としてしまった。今、自分がしたことのお返しをされている。綾女からの口移しで、薬を飲まなければならない。
ならない?違う。強制の意味は含まれない。綾女の行為を、嬉しいと思っている自分がいる。
子を想う親という感情ではなかった。認めてしまえばいい。行き着く所まで来てしまっている。
口を開ける。少し乱暴に引き寄せて、綾女からの甘い薬を飲み込んだ。
宿に着いて、部屋に通される。前と同じ十畳一間の部屋だった。台風だからか、棒付きアイスではなく豆大福が出された。番茶は前と同じだ。
綾女は早速、豆大福に手を伸ばしている。植村の上着を着て、大きすぎるせいか、肩からずり落ちる。植村は直した。
豆大福を食べて、番茶を一口飲む。腫れた目が、美味しいと言っていた。
「先生、食べないの?」
「食べますよ。あげませんからね」
また口周りに白い粉を付けている。植村は指で拭った。柔らかい唇だと思った。綾女も舐め取ろうと舌を出す。指に当たって、甘い香りが掠めた。
布団を二つ敷いてもらったが、一つの布団で眠る。腕枕をしていると綾女が寝返りを打って、顎に彼の額が触れた。
「先生、ぎゅ、して」
言われた通りに抱きしめる。腕の中の綾女は嬉しそうに、顔を埋めた。
翌朝、島川浜へ。クラゲが発生して泳げないが、浜辺を歩くだけでも楽しいものだ。
綾女が欲しがるよりも先に手を繋ぐ。台風が過ぎ去って、澄み切った青空が広がっている。海風も心地よい。
朝日に染まる綾女は、静かに微笑んでいる。植村に見られていると気づくと破顔した。
「えへへっ」
「楽しそうですね」
「うん、ううん。あのね、恥ずかしいの」
そう言って目を逸らす綾女を愛おしく思う。思わず額にキスすると、綾女はつま先立ちして、首元に返してくれた。
前に来た時に、洞窟の話を聞いていた。突き出た岸壁の下にあって、以前、誘われたがコウモリが嫌だからと断っていた。
さてどの辺りだろうか。それっぽい所を探してみるが、どれも同じに見えた。検索してみると、入口の写真が出てくる。
綾女も画面を覗き込んでくる。あ、と小さく声をあげた。
「しってる」
「知ってるんですか?」
「あそこ」
指差す方を見やる。言う通り、写真の場所があった。
手を引いて、足場の悪い岩場を歩く。岩に打ち付ける波の飛沫が足に降りかかる。
不安定な足場は、植村より綾女の方が得意なようだ。引いていた筈が引かれていた。
綾女の先導に、洞窟の入口へと踏み入れる。暗いからスマホのライトを点ける。薄っすらと洞窟内が浮かび上がる。
洞窟は下に降りるように階段状になっていた。人一人が通れる入口を降りてみると、中は広かった。綾女が降りやすいように足元を照らす。
降り立った綾女も、同じように天井を見上げる。
「先生」
「ええ」
入口からは朝日が射し込んでいた。まばゆい光が洞窟内の天井を照らしていた。何の反射なのか。その光が七色に煌めき出したので、綾女と一緒になって驚きの声をあげた。
かつての綾女が見せたかったのは、この景色だったのかもしれない。
暗闇であるから、綾女がどんな顔をしているのかは分からない。二人で腕を組み合って、いつまでも眺めていた。
どれくらい経っただろうか。ふいに背中を引っ張られる。離れたいのかと腕を解くと、手を握られた。
「先生」
こっち、と手を引かれる。知っているような確かな足取りで、誘われる。以前の記憶を思い出して、そこへ案内しようとしているらしい。
ライトで彼の行く先を照らす。一度立ち止まった綾女が、小さく笑った。
その笑い方に既視感があった。誰だっただろうか。思い出せない。
岩を登っていく。手足を使って登るのだが、スマホ片手では難しい。綾女はさっさと登っていってしまった。
なんとか登り切る。先にいた綾女は胡座をかいていた。天井が低い。植村も同じように座る。
「見て」
綾女が言わなくとも、それが見えた。
岩の隙間から、景色が見えた。海だ。暗闇の洞窟の中に、ぽっかりと絵画のように、青の海が浮かび上がっている。
「綺麗でしょ?」
綾女が言う。彼の横顔が、かすかに海の色に染まっている。
「ええ綺麗です」
「これ見せたかったんだよね。良い天気じゃないと、ここまでにはならない」
明瞭な物言いに、植村だけが気づいた。綾女は自覚があるのか無いのか、ただ海を眺め続けている。
「綾女さん…?」
「写真撮ったら?良いの撮れるよ」
取り敢えず言われるがまま写真を撮る。綾女に見せると、上手いじゃんと褒めてくれた。
「後で俺にも送っといてよ。壁紙にしよ」
「あの、分かります…?」
「何が?」
「ここが何処だとか、私の名前、言えますか?」
「はぁ?」
お互いに黙ってしまう。植村は驚いているからだが、綾女は疑問からだった。
綾女は周囲を見回した。四つん這いになって植村に顔を近づけると、首をひねった。
「なんで俺、ここにいるの?」
間違いない。彼は元に戻っている。嬉しいとか良かったと思うよりも先に、驚きが勝ってしまう。なんだって急に彼の記憶が戻ったのか。なんの前触れも無かったのに。
「先生?」
「昨日、台風来たんですよ」
「そうなの?だから天気良いんだね」
言いたかったのはそういうことじゃない。冷静になれない己を叱咤して、植村は言った。
「綾女さん、ずっと記憶喪失だったんですよ」
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