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第1章 偽りの女神と加工された嘘
第1話 いいね!の数だけ殺意がある
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深夜2時。東京都港区、某タワーマンションの一室。
カーテンの隙間から漏れる都市の光だけが、部屋の主の輪郭を浮かび上がらせていた。
男の名前は、佐藤任三郎。
高級ブランドのダークスーツを皮膚のように自然に着こなし、彼は無機質なデスクに向かっていた。モニターのブルーライトが、彫刻のように端正だが血の気のないその顔を青白く照らす。
画面に映っているのは、とある匿名掲示板のログだ。
『こいつの住所特定したわw』
『拡散希望。この店、ゴキブリ入ってたらしいぞ』
ある飲食店に対する、根拠のないデマと誹謗中傷の嵐。主導しているのは「正義の執行人」を自称するアカウントだ。店主は精神的に追い詰められ、昨日、首を吊ろうとしたところを家族に発見されたという。
「……愚かしい」
佐藤は低い声で呟いた。感情の籠もらない、事実確認のような響きだった。
彼の細長い指がキーボードを叩く。打鍵音は驚くほど静かだ。
特殊な解析ツールが、幾重にも偽装されたIPアドレスの皮を一枚ずつ剥いでいく。VPN、踏み台サーバー、匿名ブラウザ。玉ねぎの皮を剥くように、虚構のレイヤーが取り除かれていく。
数分後。
画面に一つの個人情報が表示された。
――大東亜大学経済学部4年、内定先:大手メガバンク。実家は県議会議員。
デマを拡散していた「正義の執行人」の正体は、順風満帆な未来を約束されたエリート大学生だった。就職前のストレス発散。そんな軽い動機で、彼は一人の店主の人生を終わらせようとしていたのだ。
「あなたの人生のリスク評価を行いました」
佐藤は独り言のように告げる。その瞳は、獲物を狙う爬虫類のように瞬き一つしない。
「結果は――『是正不能』」
Enterキーが押される。
送信されたのは、二通のメールだ。
一通は、大学生の内定先の人事部へ。過去3年分の誹謗中傷ログと、彼が裏アカウントで行っていた未成年淫行の証拠画像を添付して。
もう一通は、県議会議員である父親の政敵と、週刊誌の編集部へ。
物理的な暴力は一切振るわない。ただ、彼が積み上げてきた社会的信用という名の土台を、一番下の積み木から引き抜いただけだ。
明日、彼の輝かしい未来は崩壊する。内定は取り消され、実家のスキャンダルとなり、デジタルタトゥーは一生彼を蝕むだろう。
佐藤はハンカチを取り出し、汚いものに触れたかのように丁寧に指先を拭った。
「損切り完了」
部屋には再び、PCの排熱ファンの音だけが響いた。
仕事を終えた佐藤にとって、料理とは儀式である。
自宅のキッチンは、モデルルームのように生活感がない。水滴一つないステンレスのシンク。整然と並べられたスパイスの瓶。
そして、業務用の電気式ピザ窯が鎮座している。
彼はジャケットを脱ぎ、袖をまくり上げると、専用の保冷庫から白い塊を取り出した。
今夜のメニューは『ナポリピザ』だ。
生地は、イタリア・カプート社の小麦粉「サッコロッソ」を使用し、24時間かけて低温長時間発酵させたもの。イースト菌の働きを極限までコントロールし、小麦本来の旨味を引き出している。
佐藤は生地を大理石の台に乗せ、指先で優しく押し広げていく。
麺棒は使わない。生地の中に生まれた気泡を潰さないよう、中心から外側へと空気を送り込むように手で延ばす。これによって、焼いた時に縁がふっくらと膨らむのだ。
円形に広がった生地に、手で潰したサン・マルツァーノ種の完熟トマトを塗る。
その上に、カンパニア州から空輸させた水牛のモッツァレラチーズをちぎって乗せ、フレッシュバジルを散らす。
最後に、エクストラバージンオリーブオイルを回しかける。
ピザ窯の温度計は450度を示している。
佐藤はパーラーを使い、生地を一気に窯の中へと滑り込ませた。
ジューッ……!!
高温の熱が水分を瞬時に飛ばし、生地が踊るように膨らんでいく。
90秒。
ナポリピザの命は、この短時間の焼き上げにある。
佐藤は窯の中を凝視し、絶妙なタイミングで生地を回転させ、均一に焼き色をつけていく。チーズが溶け出し、トマトソースと混ざり合ってグツグツと沸騰する。縁には美しい焦げ目が浮かび上がる。
「……よし」
完璧だ。
佐藤は焼き上がったピザを取り出し、カッターで6等分にした。
湯気と共に、小麦の香ばしさと、焦げたチーズの濃厚な香りが爆発的に広がる。
彼は冷蔵庫から、よく冷えた『コカ・コーラ』のガラス瓶を取り出し、栓を抜いた。
シュポッ。
軽快な音が、静寂な部屋に響く。グラスに注ぐと、黒い液体の中で炭酸が激しく弾け、琥珀色の泡を作る。
彼は一人、ダイニングテーブルに座り、手を合わせる。
「いただきます」
まずはピザを一切れ。
熱々のチーズが糸を引き、トマトソースが滴り落ちる。
口に運べば、サクッとした歯ごたえの後に、モチモチとした生地の食感が訪れる。トマトの酸味、チーズのコク、バジルの爽やかさ。それらが口の中で渾然一体となり、脳髄を直撃する旨味の波状攻撃となる。
そこへ、すかさずコーラを流し込む。
強烈な炭酸とカフェインの刺激が、口の中に残った脂っこさを一瞬で洗い流し、爽快感だけを残して喉を駆け抜ける。
完璧なマリアージュ。
秩序と調和。
この食卓の上には、嘘も、裏切りも、不条理な悪意も存在しない。あるのは、計算された調理工程と、その結果として約束された「美味」という真実だけだ。
佐藤は目を閉じ、その完璧な世界に浸る。
誰かと食卓を囲みたいとは思わない。他者はノイズだ。予測不可能な言動で、この静謐な調和を乱す存在だ。
……あの日、妹が死んで以来、彼は世界をそう定義していた。
翌朝。
佐藤任三郎は、東京・丸の内にあるオフィスビルの一角にいた。
「オメガ・リスクマネジメント」。それが彼の表の城だ。
モノトーンで統一された無機質な会議室に、クライアントである食品メーカーの役員たちが座っている。彼らは一様に顔面蒼白で、脂汗を拭っていた。
自社製品への異物混入疑惑。SNSでの拡散が止まらず、株価への影響が出始めている。
佐藤はホワイトボードの前に立ち、レーザーポインターをスライドに向けた。
「結論から申し上げます。社長の会見は中止です」
佐藤の声は、氷のように冷たかった。
「な、なぜだ! トップが出て誠意を見せないと……」
「今の社長のメンタル状態では、記者の挑発に乗って失言するリスクが85%を超えています。それは誠意ではなく、燃料投下です」
佐藤は淡々とデータを提示した。
「まずは品質管理部長による事実関係の説明のみに留めること。感情的な言葉は一切排除し、数値と改善策のみを語ってください。謝罪の角度は45度、時間は7秒。それ以上でも以下でもいけません」
役員たちは息を呑む。
佐藤の指示はあまりにも機械的で、人間味がない。だが、その瞳には「絶対に失敗させない」という不気味なほどの確信が宿っている。
「我々の仕事は、炎を消すことではありません。延焼を防ぎ、焼け跡から再建可能な資材を残すことです。感情論は捨ててください」
会議が終わると、役員たちは逃げるように退室していった。
佐藤は一人残された会議室で、ハンカチを取り出し、自分が触れたマーカーやポインターを入念に拭いた。
他人の手汗、焦燥感、恐怖。それらが付着している気がして、吐き気がするのだ。
その時、受付の内線が鳴った。
「社長。予約のお客様がお見えです。……あの、少し様子がおかしいのですが」
受付嬢の戸惑った声。
「通してください」
佐藤はハンカチをポケットにしまい、完璧な「コンサルタントの顔」に戻る。
通されたのは、40代半ばの女性だった。
以前は上品な身なりをしていたのだろうと推測できるが、今は髪が乱れ、目の下には濃い隈がある。手にはボロボロになった週刊誌の切り抜きが握りしめられていた。
彼女の名前は、長谷川美佐子。
ソファーに座るよう促しても、彼女は立ったまま、震える声で話し始めた。
「……助けてください。もう、あの子が……娘が、壊れてしまいそうで」
「落ち着いてください。順を追って話していただけますか」
佐藤は事務的に、しかし柔らかく促す。
長谷川美佐子は、堰を切ったように語り出した。
「サプリメントなんです。『MIIKA』というインフルエンサーの方がプロデュースした……」
MIIKA。
その名前を、佐藤も知っていた。フォロワー数80万人。美容系インフルエンサーのトップに君臨し、「無加工・無添加」を売りにしているカリスマだ。
「娘は彼女のファンでした。お小遣いを貯めて、彼女が勧める『完全天然由来』のダイエットサプリを買って……でも、飲み始めてから体調を崩して、救急搬送されたんです。肝機能障害でした」
美佐子は涙を流す。
「医師からは、サプリに含まれている成分が原因の可能性があると言われました。だから私、MIIKAさんの事務所に問い合わせたんです。でも……」
「相手にされなかった?」
「いえ、もっと酷いんです」
彼女はスマホを取り出し、佐藤に見せた。
そこには、MIIKAのインスタライブのアーカイブが表示されていた。画面の中の、人形のように整った顔立ちの美女が、甲高い声で笑っている。
『なんかぁ、私のサプリ飲んで病気になったとか言ってる人いるんだけど~、マジうける。それって普段の生活が不摂生なだけでしょ? 私のこと妬んでるアンチの捏造だから、みんな騙されないでね! 営業妨害で訴えるから!』
コメント欄には、MIIKAを擁護し、被害者を攻撃する言葉が滝のように流れていた。
『アンチ乙』『ブスがサプリ飲んだくらいでMIIKAちゃんになれるわけないだろ』『住所特定してやろうぜ』
「……これのせいで、娘のSNSにも誹謗中傷が殺到して。娘は、部屋から一歩も出られなくなりました。被害者なのに、加害者みたいに扱われて……私たち、どうしたらいいのか」
美佐子は泣き崩れた。
理不尽だ。
圧倒的な知名度と「数の暴力」の前では、個人の真実など容易に揉み消される。
佐藤は、テーブルに置かれたMIIKAの写真をじっと見つめた。
完璧に加工され、光り輝く笑顔。その裏にある、腐臭漂う傲慢さと、他者を踏み躙っても何とも思わない冷酷さ。
彼の脳裏に、10年前の光景がフラッシュバックする。
――お兄ちゃん、助けて。みんなが、嘘をついてるの。
妹の最後のメッセージ。それを無視し、面白おかしく拡散した何万もの匿名のアカウントたち。
佐藤の中で、スイッチが切り替わる音がした。
表のコンサルタントとしての「冷静な判断」ではない。
裏の処刑人としての「断罪の決定」だ。
「長谷川様」
佐藤はハンカチを差し出した。
「この案件、お引き受けします。ただし、通常のコンサルティング契約とは少し異なる形になりますが」
「え……? でも、相手は有名なインフルエンサーで、弁護士もいて……」
「関係ありません」
佐藤は立ち上がり、ブラインドの隙間から外の景色を見下ろした。眼下に広がる東京の街。そこには、無数の「いいね」と「悪意」が渦巻いている。
彼はガラスに映る自分の顔――爬虫類のように冷たい瞳をした男――に向かって、静かに宣告した。
「彼女は、リスクを見誤りました。自分を王様か何かだと勘違いしているようですが……私が、その王冠を溶かして差し上げましょう」
佐藤の口元が、微かに歪む。
それは笑みだったのかもしれない。だが、慈愛や喜びとは程遠い、獲物の喉笛に牙を突き立てる瞬間の捕食者の表情だった。
「残念ですが、MIIKAの人生はここで『損切り』です」
カーテンの隙間から漏れる都市の光だけが、部屋の主の輪郭を浮かび上がらせていた。
男の名前は、佐藤任三郎。
高級ブランドのダークスーツを皮膚のように自然に着こなし、彼は無機質なデスクに向かっていた。モニターのブルーライトが、彫刻のように端正だが血の気のないその顔を青白く照らす。
画面に映っているのは、とある匿名掲示板のログだ。
『こいつの住所特定したわw』
『拡散希望。この店、ゴキブリ入ってたらしいぞ』
ある飲食店に対する、根拠のないデマと誹謗中傷の嵐。主導しているのは「正義の執行人」を自称するアカウントだ。店主は精神的に追い詰められ、昨日、首を吊ろうとしたところを家族に発見されたという。
「……愚かしい」
佐藤は低い声で呟いた。感情の籠もらない、事実確認のような響きだった。
彼の細長い指がキーボードを叩く。打鍵音は驚くほど静かだ。
特殊な解析ツールが、幾重にも偽装されたIPアドレスの皮を一枚ずつ剥いでいく。VPN、踏み台サーバー、匿名ブラウザ。玉ねぎの皮を剥くように、虚構のレイヤーが取り除かれていく。
数分後。
画面に一つの個人情報が表示された。
――大東亜大学経済学部4年、内定先:大手メガバンク。実家は県議会議員。
デマを拡散していた「正義の執行人」の正体は、順風満帆な未来を約束されたエリート大学生だった。就職前のストレス発散。そんな軽い動機で、彼は一人の店主の人生を終わらせようとしていたのだ。
「あなたの人生のリスク評価を行いました」
佐藤は独り言のように告げる。その瞳は、獲物を狙う爬虫類のように瞬き一つしない。
「結果は――『是正不能』」
Enterキーが押される。
送信されたのは、二通のメールだ。
一通は、大学生の内定先の人事部へ。過去3年分の誹謗中傷ログと、彼が裏アカウントで行っていた未成年淫行の証拠画像を添付して。
もう一通は、県議会議員である父親の政敵と、週刊誌の編集部へ。
物理的な暴力は一切振るわない。ただ、彼が積み上げてきた社会的信用という名の土台を、一番下の積み木から引き抜いただけだ。
明日、彼の輝かしい未来は崩壊する。内定は取り消され、実家のスキャンダルとなり、デジタルタトゥーは一生彼を蝕むだろう。
佐藤はハンカチを取り出し、汚いものに触れたかのように丁寧に指先を拭った。
「損切り完了」
部屋には再び、PCの排熱ファンの音だけが響いた。
仕事を終えた佐藤にとって、料理とは儀式である。
自宅のキッチンは、モデルルームのように生活感がない。水滴一つないステンレスのシンク。整然と並べられたスパイスの瓶。
そして、業務用の電気式ピザ窯が鎮座している。
彼はジャケットを脱ぎ、袖をまくり上げると、専用の保冷庫から白い塊を取り出した。
今夜のメニューは『ナポリピザ』だ。
生地は、イタリア・カプート社の小麦粉「サッコロッソ」を使用し、24時間かけて低温長時間発酵させたもの。イースト菌の働きを極限までコントロールし、小麦本来の旨味を引き出している。
佐藤は生地を大理石の台に乗せ、指先で優しく押し広げていく。
麺棒は使わない。生地の中に生まれた気泡を潰さないよう、中心から外側へと空気を送り込むように手で延ばす。これによって、焼いた時に縁がふっくらと膨らむのだ。
円形に広がった生地に、手で潰したサン・マルツァーノ種の完熟トマトを塗る。
その上に、カンパニア州から空輸させた水牛のモッツァレラチーズをちぎって乗せ、フレッシュバジルを散らす。
最後に、エクストラバージンオリーブオイルを回しかける。
ピザ窯の温度計は450度を示している。
佐藤はパーラーを使い、生地を一気に窯の中へと滑り込ませた。
ジューッ……!!
高温の熱が水分を瞬時に飛ばし、生地が踊るように膨らんでいく。
90秒。
ナポリピザの命は、この短時間の焼き上げにある。
佐藤は窯の中を凝視し、絶妙なタイミングで生地を回転させ、均一に焼き色をつけていく。チーズが溶け出し、トマトソースと混ざり合ってグツグツと沸騰する。縁には美しい焦げ目が浮かび上がる。
「……よし」
完璧だ。
佐藤は焼き上がったピザを取り出し、カッターで6等分にした。
湯気と共に、小麦の香ばしさと、焦げたチーズの濃厚な香りが爆発的に広がる。
彼は冷蔵庫から、よく冷えた『コカ・コーラ』のガラス瓶を取り出し、栓を抜いた。
シュポッ。
軽快な音が、静寂な部屋に響く。グラスに注ぐと、黒い液体の中で炭酸が激しく弾け、琥珀色の泡を作る。
彼は一人、ダイニングテーブルに座り、手を合わせる。
「いただきます」
まずはピザを一切れ。
熱々のチーズが糸を引き、トマトソースが滴り落ちる。
口に運べば、サクッとした歯ごたえの後に、モチモチとした生地の食感が訪れる。トマトの酸味、チーズのコク、バジルの爽やかさ。それらが口の中で渾然一体となり、脳髄を直撃する旨味の波状攻撃となる。
そこへ、すかさずコーラを流し込む。
強烈な炭酸とカフェインの刺激が、口の中に残った脂っこさを一瞬で洗い流し、爽快感だけを残して喉を駆け抜ける。
完璧なマリアージュ。
秩序と調和。
この食卓の上には、嘘も、裏切りも、不条理な悪意も存在しない。あるのは、計算された調理工程と、その結果として約束された「美味」という真実だけだ。
佐藤は目を閉じ、その完璧な世界に浸る。
誰かと食卓を囲みたいとは思わない。他者はノイズだ。予測不可能な言動で、この静謐な調和を乱す存在だ。
……あの日、妹が死んで以来、彼は世界をそう定義していた。
翌朝。
佐藤任三郎は、東京・丸の内にあるオフィスビルの一角にいた。
「オメガ・リスクマネジメント」。それが彼の表の城だ。
モノトーンで統一された無機質な会議室に、クライアントである食品メーカーの役員たちが座っている。彼らは一様に顔面蒼白で、脂汗を拭っていた。
自社製品への異物混入疑惑。SNSでの拡散が止まらず、株価への影響が出始めている。
佐藤はホワイトボードの前に立ち、レーザーポインターをスライドに向けた。
「結論から申し上げます。社長の会見は中止です」
佐藤の声は、氷のように冷たかった。
「な、なぜだ! トップが出て誠意を見せないと……」
「今の社長のメンタル状態では、記者の挑発に乗って失言するリスクが85%を超えています。それは誠意ではなく、燃料投下です」
佐藤は淡々とデータを提示した。
「まずは品質管理部長による事実関係の説明のみに留めること。感情的な言葉は一切排除し、数値と改善策のみを語ってください。謝罪の角度は45度、時間は7秒。それ以上でも以下でもいけません」
役員たちは息を呑む。
佐藤の指示はあまりにも機械的で、人間味がない。だが、その瞳には「絶対に失敗させない」という不気味なほどの確信が宿っている。
「我々の仕事は、炎を消すことではありません。延焼を防ぎ、焼け跡から再建可能な資材を残すことです。感情論は捨ててください」
会議が終わると、役員たちは逃げるように退室していった。
佐藤は一人残された会議室で、ハンカチを取り出し、自分が触れたマーカーやポインターを入念に拭いた。
他人の手汗、焦燥感、恐怖。それらが付着している気がして、吐き気がするのだ。
その時、受付の内線が鳴った。
「社長。予約のお客様がお見えです。……あの、少し様子がおかしいのですが」
受付嬢の戸惑った声。
「通してください」
佐藤はハンカチをポケットにしまい、完璧な「コンサルタントの顔」に戻る。
通されたのは、40代半ばの女性だった。
以前は上品な身なりをしていたのだろうと推測できるが、今は髪が乱れ、目の下には濃い隈がある。手にはボロボロになった週刊誌の切り抜きが握りしめられていた。
彼女の名前は、長谷川美佐子。
ソファーに座るよう促しても、彼女は立ったまま、震える声で話し始めた。
「……助けてください。もう、あの子が……娘が、壊れてしまいそうで」
「落ち着いてください。順を追って話していただけますか」
佐藤は事務的に、しかし柔らかく促す。
長谷川美佐子は、堰を切ったように語り出した。
「サプリメントなんです。『MIIKA』というインフルエンサーの方がプロデュースした……」
MIIKA。
その名前を、佐藤も知っていた。フォロワー数80万人。美容系インフルエンサーのトップに君臨し、「無加工・無添加」を売りにしているカリスマだ。
「娘は彼女のファンでした。お小遣いを貯めて、彼女が勧める『完全天然由来』のダイエットサプリを買って……でも、飲み始めてから体調を崩して、救急搬送されたんです。肝機能障害でした」
美佐子は涙を流す。
「医師からは、サプリに含まれている成分が原因の可能性があると言われました。だから私、MIIKAさんの事務所に問い合わせたんです。でも……」
「相手にされなかった?」
「いえ、もっと酷いんです」
彼女はスマホを取り出し、佐藤に見せた。
そこには、MIIKAのインスタライブのアーカイブが表示されていた。画面の中の、人形のように整った顔立ちの美女が、甲高い声で笑っている。
『なんかぁ、私のサプリ飲んで病気になったとか言ってる人いるんだけど~、マジうける。それって普段の生活が不摂生なだけでしょ? 私のこと妬んでるアンチの捏造だから、みんな騙されないでね! 営業妨害で訴えるから!』
コメント欄には、MIIKAを擁護し、被害者を攻撃する言葉が滝のように流れていた。
『アンチ乙』『ブスがサプリ飲んだくらいでMIIKAちゃんになれるわけないだろ』『住所特定してやろうぜ』
「……これのせいで、娘のSNSにも誹謗中傷が殺到して。娘は、部屋から一歩も出られなくなりました。被害者なのに、加害者みたいに扱われて……私たち、どうしたらいいのか」
美佐子は泣き崩れた。
理不尽だ。
圧倒的な知名度と「数の暴力」の前では、個人の真実など容易に揉み消される。
佐藤は、テーブルに置かれたMIIKAの写真をじっと見つめた。
完璧に加工され、光り輝く笑顔。その裏にある、腐臭漂う傲慢さと、他者を踏み躙っても何とも思わない冷酷さ。
彼の脳裏に、10年前の光景がフラッシュバックする。
――お兄ちゃん、助けて。みんなが、嘘をついてるの。
妹の最後のメッセージ。それを無視し、面白おかしく拡散した何万もの匿名のアカウントたち。
佐藤の中で、スイッチが切り替わる音がした。
表のコンサルタントとしての「冷静な判断」ではない。
裏の処刑人としての「断罪の決定」だ。
「長谷川様」
佐藤はハンカチを差し出した。
「この案件、お引き受けします。ただし、通常のコンサルティング契約とは少し異なる形になりますが」
「え……? でも、相手は有名なインフルエンサーで、弁護士もいて……」
「関係ありません」
佐藤は立ち上がり、ブラインドの隙間から外の景色を見下ろした。眼下に広がる東京の街。そこには、無数の「いいね」と「悪意」が渦巻いている。
彼はガラスに映る自分の顔――爬虫類のように冷たい瞳をした男――に向かって、静かに宣告した。
「彼女は、リスクを見誤りました。自分を王様か何かだと勘違いしているようですが……私が、その王冠を溶かして差し上げましょう」
佐藤の口元が、微かに歪む。
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