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第1章 偽りの女神と加工された嘘
第9話 役割分担
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その夜、佐藤任三郎のオフィスは、かつてないほどの人口密度と、危険な香りに満ちていた。
無機質な会議室の照明の下、八つの影が揺れている。
全員がそれぞれの分野で頂点を極め、同時に社会の枠組みからはみ出したアウトローたちだ。
「……壮観ですね」
佐藤はホワイトボードの前に立ち、腕を組んでメンバーを見渡した。
ソファで優雅に赤ワインを傾ける交渉人・渡辺千尋。
ゲーミングチェアで貧乏揺すりをしている潜入者・田中襟華。
窓際で愛車のキーを回している執行者・グレタ・ヴァイス。
大量のサプリメントを並べて検品している分析官・小林弥生。
六法全書を片手に契約書の最終チェックをしている守護者・吉田彩。
そして、調達した機材の山に腰掛け、リンゴを齧っている供給者・佐々木紘子。
そして最後に、大型モニターの前に陣取る扇動者・松本愛永。
彼女はスマホを耳に当て、テレビで見せる「愛永お姉さん」の甘い声色で電話をしていた。
「あ、もしもし文春さん? お疲れ様ですぅ~♡ 愛永です。……ええ、そうなんですぅ。ちょっと心配な噂を聞いちゃって」
愛永はウィンクしながら、手元のメモを指でなぞる。
「人気インフルエンサーのMIIKAちゃん、実はバックに怖い人たちがいるって……。ええ、被害者の女の子のカルテのコピーもあるんです。……はい、独占で差し上げますよぉ。明日の朝イチで記事出せます? ……ふふっ、ありがとうございますぅ~」
通話を切った瞬間、愛永の表情から甘さが消え失せた。
彼女はスマホを放り投げ、冷ややかな声で告げた。
「仕込み完了。明日の朝6時、『週刊文春オンライン』と『FRIDAYデジタル』が同時に砲撃開始するわ。見出しは『整形シンデレラの黒い魔法』ってとこね」
「素晴らしい」
佐藤は頷いた。
「これで火種は撒かれました。明日の夜のライブ配信中に、我々がガソリンを投下すれば、MIIKAの城は一瞬で燃え上がります」
佐藤はホワイトボードに、明日の作戦「フォール・ダウン」のタイムテーブルを書き込んでいく。
分刻みの緻密なスケジュールだ。
「20時00分、ライブ開始。千尋はVIP席で周囲の空気を支配してください」
「任せて。冷ややかな視線とため息で、会場をお通夜にしてあげる」
「20時15分、私が配信システムをジャックし、暴露映像を流します。同時に愛永はSNSで世論を誘導。ハッシュタグは『#MIIKAの真実』です」
「了解。サクラのアカウント500個、スタンバイ済みよ」
「その混乱に乗じて、MIIKAは必ず裏口から逃走を図ります。そこをグレタと弥生で確保。彩は警察の足止めを」
「私のドライビングからは逃げられない」
「鎮静剤たっぷり用意しとくねー」
「逮捕状が出るまで、私がのらりくらりと時間を稼ぐわ」
完璧な布陣だ。
しかし、佐藤の手が止まった。
「問題は……ここです」
彼が指したのは、ライブ会場周辺の地図だった。
「MIIKAの事務所は、直前のトラブルを警戒して、会場周辺に私服の警備員を配置しています。その配置パターンと、死角となる逃走ルートの最終確認が必要です」
「ドローンで見ればいいじゃん」
襟華がガムを噛みながら言う。
「紘子のドローンは優秀ですが、ビルの谷間や地下街までは見通せません。……誰かが実際に歩いて、警備員の顔と配置を目視確認する必要があります」
「じゃあ、私が行く」
襟華が手を挙げた。
「潜入は私の担当でしょ?」
「君一人では目立ちます。女子高生が高級クラブの周辺をうろついていれば、補導員かスカウトマンに声をかけられるのがオチです」
佐藤は少し考え込み、そして、不本意そうにため息をついた。
「……仕方ありません。私も行きます」
「は? 社長が?」
「カップルを装って下見をします。それなら怪しまれないでしょう」
佐藤の言葉に、部屋中が静まり返った。
そして次の瞬間、爆笑が渦巻いた。
「ブフォッ!」千尋がワインを吹き出しそうになる。
「あんたが? デート? 冗談でしょ!?」
「ウケる! 爬虫類と女子高生のデートとか、事案じゃん!」
愛永が腹を抱えて笑う。
「……年齢差13歳。犯罪の匂いがする」
グレタが真顔で呟く。
「誰が犯罪者ですか。これは任務です」
佐藤は眉間の皺を深くし、襟華を見た。
「田中君、着替えてください。……制服ではなく、もっとこう、普通のデートに相応しい服に」
「えー、マジで? アンタと?」
襟華は露骨に嫌そうな顔をしたが、すぐにニヤリと悪戯っぽく笑った。
「ま、いいけど。……高い寿司くらい奢ってよね、パパ?」
午後4時。表参道。
流行の最先端を行く若者たちで溢れかえる通りに、奇妙な二人連れの姿があった。
一人は、田中襟華。
いつもの革ジャンと制服ではなく、パステルパープルのオーバーサイズパーカーに、白いプリーツスカート。髪はツインテールに結び、厚底のスニーカーを履いている。いわゆる「地雷系」と「量産型」の中間のようなファッションだ。
もう一人は、佐藤任三郎。
彼は「カジュアルな服装」を試みた結果、イタリア製の高級リネンのシャツに、ベージュのチノパン、肩にはサマーニットを掛けるという、トレンディドラマのプロデューサーのような出で立ちになっていた。
サングラスをかけているが、その隙がなく潔癖なオーラは隠せていない。
「……ねえ、ちょっと」
襟華が小声で囁く。
「アンタのその格好、逆に浮いてるんだけど。業界人?」
「失敬な。これは最新のミラノコレクションの休日スタイルです」
「場所間違ってるって。ここ原宿だよ? ミラノじゃないし」
襟華は呆れながらも、佐藤の腕にギュッと抱きついた。
「ちょっ、田中君! 密着しすぎです!」
「バカ! あそこの電柱の下、見て」
襟華が目線で合図する。
電柱の陰に、目つきの鋭い男が立っていた。スマホをいじっているふりをしているが、視線は通行人を値踏みしている。耳にはインカム。
「……ターゲットの警備員ですね」
佐藤はサングラスの奥で目を細めた。
「なるほど。表通りの入り口を監視している。……もっと密着してください、ハニー」
「キモいこと言うな」
二人は恋人同士を装い、男の前を通り過ぎる。
襟華はスマホを取り出し、「ねーねー、この服欲しーい♡」と甘ったるい声を上げた。
警備員の男はチラリと二人を見たが、すぐに興味を失ったように視線を外した。ただのバカップルだと判断されたようだ。
「……クリア」
通り過ぎてから、襟華が息を吐く。
佐藤はスマホで地図を確認し、裏路地へと誘導した。
「警備配置は把握しました。……では、約束の場所へ行きましょう」
「え? まだ下見終わってないじゃん」
「腹ごしらえです。……君が『寿司』と言ったのを忘れたわけではありません」
佐藤が連れて行ったのは、表参道の喧騒から離れた、看板もない小さなビルの地下だった。
重厚な木の扉を開けると、そこは檜の香りが漂う、静謐な空間だった。
白木のカウンターが8席のみ。客は誰もいない。
「……貸切です」
佐藤はジャケットを脱ぎ、カウンターの中へと入っていった。
「は? ここ、アンタの店?」
「まさか。知人の店主が旅行中なので、厨房を借りたのです。……さあ、座りなさい」
佐藤は慣れた手つきで白衣に着替え、手を洗う。
その動作は、手術前の外科医のように厳粛で、無駄がない。
ネタケースには、佐々木紘子が調達した極上の魚介が並んでいる。
本マグロの赤身、中トロ、大トロ。明石の真鯛、北海道のウニ。
「飲み物は?」
「コーラ!」
「……寿司にコーラなど邪道です。麦茶にしなさい」
佐藤は言いながら、冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、自分用のグラスと襟華用のグラスに注いだ。
「乾杯。……下見の前半戦、ご苦労」
「お疲れー」
佐藤は柳刃包丁を抜き放った。
照明を受けて、刃が冷たく輝く。
まずは真鯛。
薄く切りつけ、シャリを掌に乗せる。
人肌の温度に保たれたシャリは、口の中でほどける絶妙な握り加減だ。
小手返し。一瞬の早業で、美しい流線型の握りが完成する。
煮切り醤油を刷毛でひと塗り。
「へい、お待ち」
襟華の目の前のつけ台に、静かに置かれる。
襟華は恐る恐る手を伸ばし、口に運んだ。
「……んんッ!」
目が見開かれる。
鯛の弾力と甘み、そしてシャリの酸味が口の中で爆発する。
「なにこれ……ヤバい。回転寿司と全然違う」
「当たり前です。素材、温度、握りの空気量。すべて計算し尽くしています」
続いて、マグロの赤身。
湯霜にした赤身を、特製の醤油ダレに数分漬け込んだものだ。
ねっとりとした食感と、濃厚な旨味。柚子の皮を少しだけ散らし、香りのアクセントを加える。
襟華は無言で食べ続け、最後に大トロを頬張った時、思わずため息を漏らした。
「……幸せすぎて死ぬかも」
「死なれては困ります。まだ仕事が残っていますから」
佐藤はビールを一口飲み、喉を潤した。
冷えたビールが、寿司の脂を洗い流し、口の中をリセットする。
カウンター越しに見る襟華の顔は、年相応の少女のそれだった。
MIIKAのサプリ被害に心を痛め、復讐に燃える少女。
だが、美味しいものを食べている時だけは、その重荷から解放されている。
「……ねえ、佐藤」
襟華がガリをつまみながら言った。
「アンタさ、いっつも『感情はノイズだ』とか言ってるけど……料理してる時だけは、なんか優しい顔してんの。知ってた?」
佐藤の手が止まる。
包丁の切っ先が、まな板の上で止まった。
潔癖で、冷徹で、人間嫌いの自分が、優しい顔?
そんなはずはない。料理はただの化学反応の集積であり、秩序の構築作業だ。
だが、彼女の言葉を否定する気にはなれなかった。
「……君こそ」
佐藤は視線を落とし、まな板の上のアジに包丁を入れた。
「食べている時は、普通の高校生に見えますよ。……眉間の皺が消えています」
「うっさいな! 余計なお世話!」
襟華が顔を赤くして麦茶を飲む。
佐藤は微笑み、最後の一貫――アジの握りを差し出した。
生姜とネギの薬味が乗った、光り物。
「食べたら行きますよ。……後半戦です」
「うん。……ごちそうさま、パパ」
「その呼び方はやめてくださいと言っているでしょう」
一時間後。
すべての下見を終えた二人は、オフィスへと戻るタクシーの中にいた。
車窓を流れる東京の夜景。
襟華は満腹と疲労で、シートに深く沈み込んでいる。
タクシーがオフィスの前に到着する。
車を降りると、そこには他の6人のメンバーが待っていた。
千尋がニヤニヤしながら手を振る。
「お帰り、カップルさん。初デートはどうだった?」
「最高だったよ。……とびきり高い寿司、奢らせてやったからね」
襟華がニカっと笑い、佐藤の背中をバシッと叩いた。
「次はフレンチだからね、覚悟しといてよ」
佐藤はジャケットの襟を正し、苦笑しながらも表情を引き締めた。
デートの時間は終わりだ。
「全員、配置についてください」
佐藤の声が、夜の空気に凛と響く。
「これより、最終フェーズへ移行します。……MIIKAの化けの皮を剥がしに行きましょう」
8人の視線が交錯する。
もう、迷いはない。
それぞれの役割を演じ切り、この腐った街に一筋の光を突き刺す。
佐藤がオフィスのドアを開ける。
そこには、戦場へと続く静寂が待っていた。
無機質な会議室の照明の下、八つの影が揺れている。
全員がそれぞれの分野で頂点を極め、同時に社会の枠組みからはみ出したアウトローたちだ。
「……壮観ですね」
佐藤はホワイトボードの前に立ち、腕を組んでメンバーを見渡した。
ソファで優雅に赤ワインを傾ける交渉人・渡辺千尋。
ゲーミングチェアで貧乏揺すりをしている潜入者・田中襟華。
窓際で愛車のキーを回している執行者・グレタ・ヴァイス。
大量のサプリメントを並べて検品している分析官・小林弥生。
六法全書を片手に契約書の最終チェックをしている守護者・吉田彩。
そして、調達した機材の山に腰掛け、リンゴを齧っている供給者・佐々木紘子。
そして最後に、大型モニターの前に陣取る扇動者・松本愛永。
彼女はスマホを耳に当て、テレビで見せる「愛永お姉さん」の甘い声色で電話をしていた。
「あ、もしもし文春さん? お疲れ様ですぅ~♡ 愛永です。……ええ、そうなんですぅ。ちょっと心配な噂を聞いちゃって」
愛永はウィンクしながら、手元のメモを指でなぞる。
「人気インフルエンサーのMIIKAちゃん、実はバックに怖い人たちがいるって……。ええ、被害者の女の子のカルテのコピーもあるんです。……はい、独占で差し上げますよぉ。明日の朝イチで記事出せます? ……ふふっ、ありがとうございますぅ~」
通話を切った瞬間、愛永の表情から甘さが消え失せた。
彼女はスマホを放り投げ、冷ややかな声で告げた。
「仕込み完了。明日の朝6時、『週刊文春オンライン』と『FRIDAYデジタル』が同時に砲撃開始するわ。見出しは『整形シンデレラの黒い魔法』ってとこね」
「素晴らしい」
佐藤は頷いた。
「これで火種は撒かれました。明日の夜のライブ配信中に、我々がガソリンを投下すれば、MIIKAの城は一瞬で燃え上がります」
佐藤はホワイトボードに、明日の作戦「フォール・ダウン」のタイムテーブルを書き込んでいく。
分刻みの緻密なスケジュールだ。
「20時00分、ライブ開始。千尋はVIP席で周囲の空気を支配してください」
「任せて。冷ややかな視線とため息で、会場をお通夜にしてあげる」
「20時15分、私が配信システムをジャックし、暴露映像を流します。同時に愛永はSNSで世論を誘導。ハッシュタグは『#MIIKAの真実』です」
「了解。サクラのアカウント500個、スタンバイ済みよ」
「その混乱に乗じて、MIIKAは必ず裏口から逃走を図ります。そこをグレタと弥生で確保。彩は警察の足止めを」
「私のドライビングからは逃げられない」
「鎮静剤たっぷり用意しとくねー」
「逮捕状が出るまで、私がのらりくらりと時間を稼ぐわ」
完璧な布陣だ。
しかし、佐藤の手が止まった。
「問題は……ここです」
彼が指したのは、ライブ会場周辺の地図だった。
「MIIKAの事務所は、直前のトラブルを警戒して、会場周辺に私服の警備員を配置しています。その配置パターンと、死角となる逃走ルートの最終確認が必要です」
「ドローンで見ればいいじゃん」
襟華がガムを噛みながら言う。
「紘子のドローンは優秀ですが、ビルの谷間や地下街までは見通せません。……誰かが実際に歩いて、警備員の顔と配置を目視確認する必要があります」
「じゃあ、私が行く」
襟華が手を挙げた。
「潜入は私の担当でしょ?」
「君一人では目立ちます。女子高生が高級クラブの周辺をうろついていれば、補導員かスカウトマンに声をかけられるのがオチです」
佐藤は少し考え込み、そして、不本意そうにため息をついた。
「……仕方ありません。私も行きます」
「は? 社長が?」
「カップルを装って下見をします。それなら怪しまれないでしょう」
佐藤の言葉に、部屋中が静まり返った。
そして次の瞬間、爆笑が渦巻いた。
「ブフォッ!」千尋がワインを吹き出しそうになる。
「あんたが? デート? 冗談でしょ!?」
「ウケる! 爬虫類と女子高生のデートとか、事案じゃん!」
愛永が腹を抱えて笑う。
「……年齢差13歳。犯罪の匂いがする」
グレタが真顔で呟く。
「誰が犯罪者ですか。これは任務です」
佐藤は眉間の皺を深くし、襟華を見た。
「田中君、着替えてください。……制服ではなく、もっとこう、普通のデートに相応しい服に」
「えー、マジで? アンタと?」
襟華は露骨に嫌そうな顔をしたが、すぐにニヤリと悪戯っぽく笑った。
「ま、いいけど。……高い寿司くらい奢ってよね、パパ?」
午後4時。表参道。
流行の最先端を行く若者たちで溢れかえる通りに、奇妙な二人連れの姿があった。
一人は、田中襟華。
いつもの革ジャンと制服ではなく、パステルパープルのオーバーサイズパーカーに、白いプリーツスカート。髪はツインテールに結び、厚底のスニーカーを履いている。いわゆる「地雷系」と「量産型」の中間のようなファッションだ。
もう一人は、佐藤任三郎。
彼は「カジュアルな服装」を試みた結果、イタリア製の高級リネンのシャツに、ベージュのチノパン、肩にはサマーニットを掛けるという、トレンディドラマのプロデューサーのような出で立ちになっていた。
サングラスをかけているが、その隙がなく潔癖なオーラは隠せていない。
「……ねえ、ちょっと」
襟華が小声で囁く。
「アンタのその格好、逆に浮いてるんだけど。業界人?」
「失敬な。これは最新のミラノコレクションの休日スタイルです」
「場所間違ってるって。ここ原宿だよ? ミラノじゃないし」
襟華は呆れながらも、佐藤の腕にギュッと抱きついた。
「ちょっ、田中君! 密着しすぎです!」
「バカ! あそこの電柱の下、見て」
襟華が目線で合図する。
電柱の陰に、目つきの鋭い男が立っていた。スマホをいじっているふりをしているが、視線は通行人を値踏みしている。耳にはインカム。
「……ターゲットの警備員ですね」
佐藤はサングラスの奥で目を細めた。
「なるほど。表通りの入り口を監視している。……もっと密着してください、ハニー」
「キモいこと言うな」
二人は恋人同士を装い、男の前を通り過ぎる。
襟華はスマホを取り出し、「ねーねー、この服欲しーい♡」と甘ったるい声を上げた。
警備員の男はチラリと二人を見たが、すぐに興味を失ったように視線を外した。ただのバカップルだと判断されたようだ。
「……クリア」
通り過ぎてから、襟華が息を吐く。
佐藤はスマホで地図を確認し、裏路地へと誘導した。
「警備配置は把握しました。……では、約束の場所へ行きましょう」
「え? まだ下見終わってないじゃん」
「腹ごしらえです。……君が『寿司』と言ったのを忘れたわけではありません」
佐藤が連れて行ったのは、表参道の喧騒から離れた、看板もない小さなビルの地下だった。
重厚な木の扉を開けると、そこは檜の香りが漂う、静謐な空間だった。
白木のカウンターが8席のみ。客は誰もいない。
「……貸切です」
佐藤はジャケットを脱ぎ、カウンターの中へと入っていった。
「は? ここ、アンタの店?」
「まさか。知人の店主が旅行中なので、厨房を借りたのです。……さあ、座りなさい」
佐藤は慣れた手つきで白衣に着替え、手を洗う。
その動作は、手術前の外科医のように厳粛で、無駄がない。
ネタケースには、佐々木紘子が調達した極上の魚介が並んでいる。
本マグロの赤身、中トロ、大トロ。明石の真鯛、北海道のウニ。
「飲み物は?」
「コーラ!」
「……寿司にコーラなど邪道です。麦茶にしなさい」
佐藤は言いながら、冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、自分用のグラスと襟華用のグラスに注いだ。
「乾杯。……下見の前半戦、ご苦労」
「お疲れー」
佐藤は柳刃包丁を抜き放った。
照明を受けて、刃が冷たく輝く。
まずは真鯛。
薄く切りつけ、シャリを掌に乗せる。
人肌の温度に保たれたシャリは、口の中でほどける絶妙な握り加減だ。
小手返し。一瞬の早業で、美しい流線型の握りが完成する。
煮切り醤油を刷毛でひと塗り。
「へい、お待ち」
襟華の目の前のつけ台に、静かに置かれる。
襟華は恐る恐る手を伸ばし、口に運んだ。
「……んんッ!」
目が見開かれる。
鯛の弾力と甘み、そしてシャリの酸味が口の中で爆発する。
「なにこれ……ヤバい。回転寿司と全然違う」
「当たり前です。素材、温度、握りの空気量。すべて計算し尽くしています」
続いて、マグロの赤身。
湯霜にした赤身を、特製の醤油ダレに数分漬け込んだものだ。
ねっとりとした食感と、濃厚な旨味。柚子の皮を少しだけ散らし、香りのアクセントを加える。
襟華は無言で食べ続け、最後に大トロを頬張った時、思わずため息を漏らした。
「……幸せすぎて死ぬかも」
「死なれては困ります。まだ仕事が残っていますから」
佐藤はビールを一口飲み、喉を潤した。
冷えたビールが、寿司の脂を洗い流し、口の中をリセットする。
カウンター越しに見る襟華の顔は、年相応の少女のそれだった。
MIIKAのサプリ被害に心を痛め、復讐に燃える少女。
だが、美味しいものを食べている時だけは、その重荷から解放されている。
「……ねえ、佐藤」
襟華がガリをつまみながら言った。
「アンタさ、いっつも『感情はノイズだ』とか言ってるけど……料理してる時だけは、なんか優しい顔してんの。知ってた?」
佐藤の手が止まる。
包丁の切っ先が、まな板の上で止まった。
潔癖で、冷徹で、人間嫌いの自分が、優しい顔?
そんなはずはない。料理はただの化学反応の集積であり、秩序の構築作業だ。
だが、彼女の言葉を否定する気にはなれなかった。
「……君こそ」
佐藤は視線を落とし、まな板の上のアジに包丁を入れた。
「食べている時は、普通の高校生に見えますよ。……眉間の皺が消えています」
「うっさいな! 余計なお世話!」
襟華が顔を赤くして麦茶を飲む。
佐藤は微笑み、最後の一貫――アジの握りを差し出した。
生姜とネギの薬味が乗った、光り物。
「食べたら行きますよ。……後半戦です」
「うん。……ごちそうさま、パパ」
「その呼び方はやめてくださいと言っているでしょう」
一時間後。
すべての下見を終えた二人は、オフィスへと戻るタクシーの中にいた。
車窓を流れる東京の夜景。
襟華は満腹と疲労で、シートに深く沈み込んでいる。
タクシーがオフィスの前に到着する。
車を降りると、そこには他の6人のメンバーが待っていた。
千尋がニヤニヤしながら手を振る。
「お帰り、カップルさん。初デートはどうだった?」
「最高だったよ。……とびきり高い寿司、奢らせてやったからね」
襟華がニカっと笑い、佐藤の背中をバシッと叩いた。
「次はフレンチだからね、覚悟しといてよ」
佐藤はジャケットの襟を正し、苦笑しながらも表情を引き締めた。
デートの時間は終わりだ。
「全員、配置についてください」
佐藤の声が、夜の空気に凛と響く。
「これより、最終フェーズへ移行します。……MIIKAの化けの皮を剥がしに行きましょう」
8人の視線が交錯する。
もう、迷いはない。
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