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第2章:正義を騙る暴露系YouTuberの闇
第23話 逃亡と確保
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午後10時15分。
港区白金台、『メゾン・ド・プラチナ』の地下駐車場。
広大なコンクリートの空間には、住人たちの高級車が静かに眠っている。
その静寂を破り、機械式の隠し扉が重苦しい音を立てて開いた。
そこから転がり出てきたのは、白い仮面をかなぐり捨て、素顔を晒した男――ジャッジマン・タナカこと、田中一郎だった。
彼は脇目も振らずに、専用の駐車スペースへと走る。
そこには、彼の愛車であるイタリア製の真紅のスーパーカーが鎮座していた。
配信の収益と、恐喝で巻き上げた金で買った自慢のマシンだ。
「くそっ、くそっ、くそっ……!」
タナカは震える手でキーを解除し、運転席に飛び込んだ。
エンジン始動。
V12エンジンの爆音が、地下空間に轟く。
「俺は終わらねぇ……! 海外へ高飛びして、またやり直すんだ!」
助手席にハードディスクを放り投げ、アクセルを踏み込む。
タイヤが白煙を上げ、真っ赤な車体がロケットのように発進した。
目指すは出口ゲート。
あと50メートル。30メートル。
逃げ切れる。
そう確信した瞬間だった。
キキキキッ!!
鋭いスキール音と共に、横合いの通路から漆黒の影が飛び出してきた。
グレタ・ヴァイスの愛車、BMW M5 CSだ。
まるで獲物を狩る豹のように、タナカの車の側面に食らいつくような角度で並走する。
「なっ……!?」
タナカがハンドルを切るが、BMWはピタリと張り付いて離れない。
運転席の窓越しに、グレタの氷のような瞳が見えた。
彼女はハンドルを握ったまま、口パクで何かを告げた。
『逃がすか』
ガガガッ!
BMWのバンパーが、フェラーリのサイドミラーを弾き飛ばした。
正確無比な幅寄せ。
タナカの車は強制的に進路を変えられ、柱の方へと追いやられる。
「やめろ! 傷がつくだろ! いくらしたと思ってるんだ!」
タナカが絶叫する。
自分の命よりも車の傷を気にする浅ましさ。
タナカはアクセルをベタ踏みし、直線の加速で振り切ろうとした。
スペック上は、彼の車の方が最高速は上だ。
だが、ここはサーキットではない。柱と駐車車両が並ぶ、閉鎖空間だ。
グレタはコーナーの手前で、あり得ないタイミングでブレーキングを行い、ドリフト状態でタナカの車の前を塞いだ。
タイヤが焼ける匂いが充満する。
「どけぇぇぇッ!!」
タナカはパニックになり、ハンドルを逆に切った。
向かう先は、出口ゲート。
しかし、そこには絶望が待っていた。
ウィィィン……ガシャン。
出口の頑丈な鉄製シャッターが、完全に下りていたのだ。
田中襟華がシステムをハッキングし、封鎖したのだ。
「止まれ! 止まれェェ!!」
タナカがブレーキを踏む。
しかし、スーパーカーの速度はそう簡単には殺せない。
車体はスピンし、制御を失って――。
ドガァァァン!!
派手な音を立てて、シャッター脇のコンクリート壁に激突した。
エアバッグが展開し、白い粉が舞う。
ボンネットからは蒸気が上がっている。
「……下手くそめ」
グレタは静かに車を停車させ、エンジンを切った。
彼女のBMWには、かすり傷一つついていない。
後部座席から佐藤任三郎が降り立つ。
続いて、別の車で待機していた吉田彩、佐々木紘子、そして……松本愛永が歩み寄る。
タナカはエアバッグを掻き分け、這うようにして車から出てきた。
額から血を流し、足を引きずっている。
「あ、うぅ……」
彼は佐藤たちの姿を見て、へたり込んだ。
「た、助けてくれ……金ならある。この車もやる。だから……」
「残念ですが」
佐藤は冷徹に見下ろした。
「あなたの資産価値は、今この瞬間ゼロになりました。この車のローンも残っているのでしょう?」
「な、なんでそれを……」
タナカの顔が引きつる。
そこへ、けたたましいサイレン音が近づいてきた。
パトカーではない。
黒塗りの公用車が数台、猛スピードでスロープを降りてきたのだ。
車から降りてきたのは、スーツ姿の男たち。
その目は、獲物を狙う鷹のように鋭い。
「……国税局査察部だ」
男の一人が手帳を掲げた。
マルサだ。
「田中一郎だな? 法人税法違反、および所得税法違反の疑いで強制調査を行う」
「こ、国税……? 警察じゃないのか?」
タナカが呆然とする。
吉田彩が一歩前に出て、艶然と微笑んだ。
「警察もすぐ来るわよ。恐喝と脅迫の容疑でね。……でも、あなたが一番恐れるべきは、こっちよ」
彩は眼鏡の位置を直した。
「あなたは今まで、配信の収益や裏の恐喝金を、海外のペーパーカンパニーを使って隠していた。……でもね、その送金ルート、全部洗わせてもらったわ」
「お前の隠し口座のパスワード、誕生日と愛車のナンバーの組み合わせだったぞ。セキュリティ意識が低すぎる」
襟華がタブレットを振ってみせる。
「脱税額、推定3億円。……重加算税を含めれば、あなたが一生かかっても払えない額ね」
彩の宣告は、死刑判決よりも重く響いた。
金に執着し、金のために他人を不幸にしてきた男にとって、全ての財産を剥奪されることは、死以上の苦しみだ。
「いやだ……嫌だァァ!!」
タナカは子供のように泣き叫び、地面を転げ回った。
「俺の金だ! 俺が稼いだんだ! 誰にも渡さない!」
マルサの係官たちが、無情に彼を取り押さえ、手錠をかける。
その時。
強烈なライトが焚かれた。
まぶしさにタナカが目を細める。
そこには、テレビカメラを担いだクルーと、マイクを持った松本愛永が立っていた。
「……おはようございます、タナカさん」
愛永は、カメラの前で見せる「国民的お姉さん」の笑顔ではなく、冷酷な狩人の笑みを浮かべていた。
「『独占スクープ』、頂きますね」
カメラが、タナカの無様な姿――鼻水を垂らし、手錠をかけられ、失禁している姿――をアップで捉える。
「やめろ! 撮るな! 放送すんな!」
タナカが暴れるが、愛永はマイクを突きつけた。
「視聴者の皆さんに一言どうぞ? ……あ、そういえばあなた、私のことを『操り人形』って言ってましたよね?」
愛永はカメラに向かってウインクした。
「ご覧ください。これが、正義を騙り、ネットの匿名性に隠れて人々を傷つけてきた男の末路です。……真実は、ネットにしかないんでしたっけ?」
皮肉たっぷりのリポート。
この映像は、数時間後の朝のニュースで全国に流れるだろう。
ジャッジマン・タナカは、社会的に、経済的に、そして人間的に、完全に抹殺された。
タナカが連行されていく背中を見送りながら、佐藤は呟いた。
「……損切り完了です」
事件から数日後。
佐藤任三郎のオフィスは、穏やかな午後の日差しに包まれていた。
戦いの後の静寂。
だが、佐藤の表情は、タナカと対峙していた時よりも真剣だった。
「……さあ、ダシ君。集中してください」
リビングの中央には、新品の猫用トイレが設置されている。
中には清潔な猫砂が敷き詰められている。
その真ん中に、黒い子猫のダシがちょこんと座っていた。
ダシはキョロキョロと周囲を見渡し、落ち着かない様子だ。
「いいですか。排泄は、ここで行うのです。これが我が家のルールです」
佐藤は膝をつき、ダシに言い聞かせる。
先ほど、ダシがソワソワと床の匂いを嗅ぎ始めたのを、佐藤は見逃さなかった。トイレのサインだ。
彼は素早くダシを抱き上げ、トイレの中に移動させたのだ。
「ミャ……?」
ダシは首を傾げ、砂を前足でホリホリとかいた。
ザッ、ザッ。
砂の感触が面白いのか、遊び始めてしまいそうだ。
「違います。遊ぶ場所ではありません」
佐藤は眉間に皺を寄せた。
タナカのような巨悪を追い詰めることはできても、この小さな生き物にトイレの概念を教えることの、なんと難しいことか。
彼は小林弥生から教わった通り、ティッシュでダシのお尻をトントンと刺激する。
「……ほら、出ますよ。自然の摂理に従ってください」
「ミャウ!」
ダシが抗議の声を上げるが、やがて観念したように、砂の上でお尻を少し下げ、踏ん張るポーズを取った。
尻尾がピーンと立つ。
佐藤は息を止めて見守った。爆弾処理のような緊張感。
ポトッ。
小さな音と共に、任務完了。
ダシはスッキリした顔で、前足を使って器用に砂をかけ、ブツを隠した。
本能による完璧な隠蔽工作だ。
「……素晴らしい!」
佐藤は思わず拍手した。
「よくやりました、ダシ君! 完璧なフォーム、そして隠蔽処理です!」
彼はダシを抱き上げ、その頭を撫で回した。
「君は天才ですね。……これでカーペットの平穏は守られました」
「ミャァ~」
ダシは得意げに喉を鳴らし、佐藤の頬にスリスリと頭を擦り付ける。
柔らかい毛並みと、ミルクの匂い。
佐藤の冷徹な顔が、誰にも見せたことのないほどデレデレに崩れていく。
その時、背後でシャッター音がした。
カシャッ。
「……あら。いい写真が撮れたわ」
振り返ると、いつの間にか松本愛永が立っていた。スマホを構えている。
「愛永さん、いつの間に……」
佐藤が咳払いをして表情を引き締めるが、もう遅い。
「『冷酷な処刑人のデレ顔』。……これ、タナカのスクープより高く売れるかもね」
愛永はニヤニヤしながら写真を確認する。
「消してください。肖像権の侵害です」
「嫌よ。私のコレクションにするんだから」
愛永はソファに座り、ダシに向かって手を伸ばした。
「おいで、ダシちゃん。……パパは恥ずかしがり屋だからねぇ」
ダシは佐藤の腕から飛び出し、愛永の膝へとダイブした。
「あら、可愛い♡」
佐藤は溜息をつき、トイレの掃除を始めた。
スコップで砂を掬い、汚物を処理する。
タナカという社会のゴミを処理した手で、今は愛猫の排泄物を処理している。
だが不思議と、後者の方が、充実感があった。
「……平和ですね」
佐藤は呟いた。
外の世界には、まだ多くの悪意が蔓延っている。権藤も、その背後の組織も、まだ健在だ。
だが、この小さな命の成長を見守る時間だけは、誰にも邪魔させない。
ダシが愛永の膝の上で、大きなあくびをした。
その無防備な姿こそが、佐藤たちが守り抜いた「正義」の証だった。
港区白金台、『メゾン・ド・プラチナ』の地下駐車場。
広大なコンクリートの空間には、住人たちの高級車が静かに眠っている。
その静寂を破り、機械式の隠し扉が重苦しい音を立てて開いた。
そこから転がり出てきたのは、白い仮面をかなぐり捨て、素顔を晒した男――ジャッジマン・タナカこと、田中一郎だった。
彼は脇目も振らずに、専用の駐車スペースへと走る。
そこには、彼の愛車であるイタリア製の真紅のスーパーカーが鎮座していた。
配信の収益と、恐喝で巻き上げた金で買った自慢のマシンだ。
「くそっ、くそっ、くそっ……!」
タナカは震える手でキーを解除し、運転席に飛び込んだ。
エンジン始動。
V12エンジンの爆音が、地下空間に轟く。
「俺は終わらねぇ……! 海外へ高飛びして、またやり直すんだ!」
助手席にハードディスクを放り投げ、アクセルを踏み込む。
タイヤが白煙を上げ、真っ赤な車体がロケットのように発進した。
目指すは出口ゲート。
あと50メートル。30メートル。
逃げ切れる。
そう確信した瞬間だった。
キキキキッ!!
鋭いスキール音と共に、横合いの通路から漆黒の影が飛び出してきた。
グレタ・ヴァイスの愛車、BMW M5 CSだ。
まるで獲物を狩る豹のように、タナカの車の側面に食らいつくような角度で並走する。
「なっ……!?」
タナカがハンドルを切るが、BMWはピタリと張り付いて離れない。
運転席の窓越しに、グレタの氷のような瞳が見えた。
彼女はハンドルを握ったまま、口パクで何かを告げた。
『逃がすか』
ガガガッ!
BMWのバンパーが、フェラーリのサイドミラーを弾き飛ばした。
正確無比な幅寄せ。
タナカの車は強制的に進路を変えられ、柱の方へと追いやられる。
「やめろ! 傷がつくだろ! いくらしたと思ってるんだ!」
タナカが絶叫する。
自分の命よりも車の傷を気にする浅ましさ。
タナカはアクセルをベタ踏みし、直線の加速で振り切ろうとした。
スペック上は、彼の車の方が最高速は上だ。
だが、ここはサーキットではない。柱と駐車車両が並ぶ、閉鎖空間だ。
グレタはコーナーの手前で、あり得ないタイミングでブレーキングを行い、ドリフト状態でタナカの車の前を塞いだ。
タイヤが焼ける匂いが充満する。
「どけぇぇぇッ!!」
タナカはパニックになり、ハンドルを逆に切った。
向かう先は、出口ゲート。
しかし、そこには絶望が待っていた。
ウィィィン……ガシャン。
出口の頑丈な鉄製シャッターが、完全に下りていたのだ。
田中襟華がシステムをハッキングし、封鎖したのだ。
「止まれ! 止まれェェ!!」
タナカがブレーキを踏む。
しかし、スーパーカーの速度はそう簡単には殺せない。
車体はスピンし、制御を失って――。
ドガァァァン!!
派手な音を立てて、シャッター脇のコンクリート壁に激突した。
エアバッグが展開し、白い粉が舞う。
ボンネットからは蒸気が上がっている。
「……下手くそめ」
グレタは静かに車を停車させ、エンジンを切った。
彼女のBMWには、かすり傷一つついていない。
後部座席から佐藤任三郎が降り立つ。
続いて、別の車で待機していた吉田彩、佐々木紘子、そして……松本愛永が歩み寄る。
タナカはエアバッグを掻き分け、這うようにして車から出てきた。
額から血を流し、足を引きずっている。
「あ、うぅ……」
彼は佐藤たちの姿を見て、へたり込んだ。
「た、助けてくれ……金ならある。この車もやる。だから……」
「残念ですが」
佐藤は冷徹に見下ろした。
「あなたの資産価値は、今この瞬間ゼロになりました。この車のローンも残っているのでしょう?」
「な、なんでそれを……」
タナカの顔が引きつる。
そこへ、けたたましいサイレン音が近づいてきた。
パトカーではない。
黒塗りの公用車が数台、猛スピードでスロープを降りてきたのだ。
車から降りてきたのは、スーツ姿の男たち。
その目は、獲物を狙う鷹のように鋭い。
「……国税局査察部だ」
男の一人が手帳を掲げた。
マルサだ。
「田中一郎だな? 法人税法違反、および所得税法違反の疑いで強制調査を行う」
「こ、国税……? 警察じゃないのか?」
タナカが呆然とする。
吉田彩が一歩前に出て、艶然と微笑んだ。
「警察もすぐ来るわよ。恐喝と脅迫の容疑でね。……でも、あなたが一番恐れるべきは、こっちよ」
彩は眼鏡の位置を直した。
「あなたは今まで、配信の収益や裏の恐喝金を、海外のペーパーカンパニーを使って隠していた。……でもね、その送金ルート、全部洗わせてもらったわ」
「お前の隠し口座のパスワード、誕生日と愛車のナンバーの組み合わせだったぞ。セキュリティ意識が低すぎる」
襟華がタブレットを振ってみせる。
「脱税額、推定3億円。……重加算税を含めれば、あなたが一生かかっても払えない額ね」
彩の宣告は、死刑判決よりも重く響いた。
金に執着し、金のために他人を不幸にしてきた男にとって、全ての財産を剥奪されることは、死以上の苦しみだ。
「いやだ……嫌だァァ!!」
タナカは子供のように泣き叫び、地面を転げ回った。
「俺の金だ! 俺が稼いだんだ! 誰にも渡さない!」
マルサの係官たちが、無情に彼を取り押さえ、手錠をかける。
その時。
強烈なライトが焚かれた。
まぶしさにタナカが目を細める。
そこには、テレビカメラを担いだクルーと、マイクを持った松本愛永が立っていた。
「……おはようございます、タナカさん」
愛永は、カメラの前で見せる「国民的お姉さん」の笑顔ではなく、冷酷な狩人の笑みを浮かべていた。
「『独占スクープ』、頂きますね」
カメラが、タナカの無様な姿――鼻水を垂らし、手錠をかけられ、失禁している姿――をアップで捉える。
「やめろ! 撮るな! 放送すんな!」
タナカが暴れるが、愛永はマイクを突きつけた。
「視聴者の皆さんに一言どうぞ? ……あ、そういえばあなた、私のことを『操り人形』って言ってましたよね?」
愛永はカメラに向かってウインクした。
「ご覧ください。これが、正義を騙り、ネットの匿名性に隠れて人々を傷つけてきた男の末路です。……真実は、ネットにしかないんでしたっけ?」
皮肉たっぷりのリポート。
この映像は、数時間後の朝のニュースで全国に流れるだろう。
ジャッジマン・タナカは、社会的に、経済的に、そして人間的に、完全に抹殺された。
タナカが連行されていく背中を見送りながら、佐藤は呟いた。
「……損切り完了です」
事件から数日後。
佐藤任三郎のオフィスは、穏やかな午後の日差しに包まれていた。
戦いの後の静寂。
だが、佐藤の表情は、タナカと対峙していた時よりも真剣だった。
「……さあ、ダシ君。集中してください」
リビングの中央には、新品の猫用トイレが設置されている。
中には清潔な猫砂が敷き詰められている。
その真ん中に、黒い子猫のダシがちょこんと座っていた。
ダシはキョロキョロと周囲を見渡し、落ち着かない様子だ。
「いいですか。排泄は、ここで行うのです。これが我が家のルールです」
佐藤は膝をつき、ダシに言い聞かせる。
先ほど、ダシがソワソワと床の匂いを嗅ぎ始めたのを、佐藤は見逃さなかった。トイレのサインだ。
彼は素早くダシを抱き上げ、トイレの中に移動させたのだ。
「ミャ……?」
ダシは首を傾げ、砂を前足でホリホリとかいた。
ザッ、ザッ。
砂の感触が面白いのか、遊び始めてしまいそうだ。
「違います。遊ぶ場所ではありません」
佐藤は眉間に皺を寄せた。
タナカのような巨悪を追い詰めることはできても、この小さな生き物にトイレの概念を教えることの、なんと難しいことか。
彼は小林弥生から教わった通り、ティッシュでダシのお尻をトントンと刺激する。
「……ほら、出ますよ。自然の摂理に従ってください」
「ミャウ!」
ダシが抗議の声を上げるが、やがて観念したように、砂の上でお尻を少し下げ、踏ん張るポーズを取った。
尻尾がピーンと立つ。
佐藤は息を止めて見守った。爆弾処理のような緊張感。
ポトッ。
小さな音と共に、任務完了。
ダシはスッキリした顔で、前足を使って器用に砂をかけ、ブツを隠した。
本能による完璧な隠蔽工作だ。
「……素晴らしい!」
佐藤は思わず拍手した。
「よくやりました、ダシ君! 完璧なフォーム、そして隠蔽処理です!」
彼はダシを抱き上げ、その頭を撫で回した。
「君は天才ですね。……これでカーペットの平穏は守られました」
「ミャァ~」
ダシは得意げに喉を鳴らし、佐藤の頬にスリスリと頭を擦り付ける。
柔らかい毛並みと、ミルクの匂い。
佐藤の冷徹な顔が、誰にも見せたことのないほどデレデレに崩れていく。
その時、背後でシャッター音がした。
カシャッ。
「……あら。いい写真が撮れたわ」
振り返ると、いつの間にか松本愛永が立っていた。スマホを構えている。
「愛永さん、いつの間に……」
佐藤が咳払いをして表情を引き締めるが、もう遅い。
「『冷酷な処刑人のデレ顔』。……これ、タナカのスクープより高く売れるかもね」
愛永はニヤニヤしながら写真を確認する。
「消してください。肖像権の侵害です」
「嫌よ。私のコレクションにするんだから」
愛永はソファに座り、ダシに向かって手を伸ばした。
「おいで、ダシちゃん。……パパは恥ずかしがり屋だからねぇ」
ダシは佐藤の腕から飛び出し、愛永の膝へとダイブした。
「あら、可愛い♡」
佐藤は溜息をつき、トイレの掃除を始めた。
スコップで砂を掬い、汚物を処理する。
タナカという社会のゴミを処理した手で、今は愛猫の排泄物を処理している。
だが不思議と、後者の方が、充実感があった。
「……平和ですね」
佐藤は呟いた。
外の世界には、まだ多くの悪意が蔓延っている。権藤も、その背後の組織も、まだ健在だ。
だが、この小さな命の成長を見守る時間だけは、誰にも邪魔させない。
ダシが愛永の膝の上で、大きなあくびをした。
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