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第1章:派遣陰陽師、着任す
第1話 その肩こり、霊障です
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東京、丸の内。
午後5時のオフィス街は、まだ戦場だった。
高層ビルの窓という窓から漏れる光は、この国を動かすエネルギーの輝きであると同時に、そこで働く社畜たちの魂が燃え尽きる残光でもある。
そんなコンクリートジャングルの一角に建つ、創業50年の中堅商社「丸の内商事」。
その総務部・備品管理課のデスクで、俺――中川武は、腕時計の秒針を見つめていた。
17時10分。
定時まで、あと20分。
「……長い」
俺は小さく息を吐き、手元の伝票整理に戻るふりをした。
30歳。独身。職業、派遣社員。
時給は1200円。
俺の業務は、ボールペンの補充からコピー用紙の発注、蛍光灯の交換まで、この会社の下支えをすることだ。
誰にでもできる仕事、と言われればそれまでだが、俺はこの仕事が気に入っている。
責任が重くない。
人間関係が希薄。
そして何より――定時で帰れる。
はずだった。
「おーい、派遣さーん! ちょっといいかね?」
フロアの空気を震わせるような大声が、俺の平穏を切り裂いた。
PCモニターの陰から顔を上げると、営業二課の権藤課長が、脂ぎった赤ら顔で手招きしている。
俺は表情筋を死滅させた「派遣スマイル」を貼り付け、席を立った。
「はい、何でしょうか権藤課長」
「悪いんだけどさあ、この資料、急ぎで20部コピー頼めるかな? さっき急に会議が決まってさあ」
権藤課長が差し出してきたのは、クリップで留められた紙の束だ。
ざっと見て15ページほど。
これを20部。合計300枚。
俺は瞬時に計算する。
ここにある最新の複合機は、別の社員が大量印刷中で塞がっている。
使えるのは、給湯室の隅に追いやられた旧式のサブ機だけだ。あの骨董品の印刷速度は、分速30枚程度。
つまり、単純計算で10分かかる。
紙詰まりが起きれば、その時点で定時退社は絶望的だ。
「……課長。現在は17時12分です。私の契約時間は17時30分までとなっておりますが」
「あー、ごめんごめん! ギリギリだよね? でもほら、君、手際いいし! ちゃちゃっと終わるでしょ?」
権藤課長はニカっと笑い、俺の肩をバシバシと叩いた。
その瞬間、俺の視界がぐらりと歪む。
物理的な衝撃ではない。
霊的な嘔吐感だ。
俺は無言で、権藤課長の背後を見上げた。
そこには――いた。
課長の肩から首にかけて、赤黒い皮膚をした子供のような何かが、がっしりとしがみついている。
大きさは3歳児ほどだが、顔は醜悪に歪んだ老人だ。
そいつは俺と目が合うと、ニタリと笑い、課長の耳元で何やら囁き始めた。
『俺はすごい。俺は偉い。俺は寝てない。お前らは無能だ』
――『マウント小僧』だ。
オフィス妖怪図鑑、カテゴリーC。
承認欲求とストレスが肥大化したサラリーマンに取り憑く、極めて厄介な怨霊。
宿主のプライドを異常に高め、「俺の若い頃は」という武勇伝や、「俺、昨日2時間しか寝てないわ~」という地獄のミサワ的マウント発言を誘発させる。
さらに物理的な質量を持ち始めると、宿主に強烈な肩こりと頭痛を引き起こす。
「……いてて、なんか最近、肩が重くてなぁ。マッサージ行っても治らんのよ」
権藤課長が首をコキコキと鳴らす。
治るわけがない。3歳児サイズの怨念を背負って生活しているのだから。
「あー、やっぱり派遣さんじゃ無理かなぁ? 俺が若い頃はさぁ、このくらいの仕事、言われる前に終わらせてたんだけどなぁ。最近の人は権利ばっかり主張するっていうかさぁ」
マウント小僧の囁きに同調するように、権藤課長の口から嫌味が漏れ出す。
周囲の正社員たちが、気まずそうに目を逸らすのが見えた。
俺は小さくため息をつく。
放置すれば、こいつの承認欲求はさらに肥大化し、部下へのパワハラが悪化するだろう。
そして何より、このままだと俺が残業させられる。
それは困る。
今日はスーパーで豚バラ肉が特売なのだ。家に帰って、スパイスから仕込んだ特製カレーを作らねばならない。
「……わかりました。コピー、とっておきます」
「おお! 助かるよ! やっぱり持つべきものは優秀な派遣さんだね!」
「ただし」
俺は資料を受け取りながら、冷徹な声で付け加えた。
「メインの複合機が使用中ですので、給湯室にある旧式のサブ機を使います。少しお時間をいただけますか?」
「ん? ああ、綺麗に刷ってくれるならどこでもいいよ。頼んだね!」
権藤課長は上機嫌で自席に戻っていった。背中のマウント小僧が、俺に向かって「べー」と舌を出している。
(……ナメやがって)
俺は資料を手に、くるりと背を向けた。
その時だ。
「ちわーっす。社内便でーす」
入り口のドアが開き、元気のない声とともに、一人の少女が入ってきた。
制服の上に作業用ジャンパーを羽織った、女子高生だ。
長い黒髪を無造作に束ね、その大きな瞳には「帰りたい」という文字がありありと浮かんでいる。
松田透子。17歳。
夕方から郵便室でバイトをしている高校生だ。
彼女がフロアに一歩足を踏み入れた瞬間、オフィスの空気がドロリと淀んだ。
蛍光灯がチカチカと明滅し、どこからか「ヒヒヒ……」という笑い声が聞こえる。
彼女の背後には、雑多な低級霊たちが5、6体、金魚のフンのように列をなしてついてきていた。
「……おい、松田」
「あ、中川さん。お疲れ様ですー。これ、総務宛の請求書」
透子は悪びれる様子もなく、俺に封筒の束を押し付けてきた。
「お前、また拾ってきたな」
「へ? 何をです?」
「後ろだ、後ろ。……今日は一段と多いな。満員電車で痴漢の霊でも引き寄せたか?」
「はぁ? 何変なこと言ってるんですか。セクハラですよ」
透子は心底嫌そうな顔をする。
この少女、自分では気づいていないが、とんでもない「霊媒体質」の持ち主だ。
霊感はゼロ。幽霊の姿は見えないし、声も聞こえない。
だが、その身から溢れ出る霊的フェロモンとでも言うべきオーラが、浮遊霊たちを強烈に引き寄せてしまう。
歩く霊寄せビーコン。それが松田透子だ。
「肩、重くないか?」
「あー、言われてみれば。なんか今日、体が鉛みたいに重いんですよね。成長痛かな」
「17歳で成長痛はないだろ。……ついてこい」
「え、どこへ? 私まだ配り終わってないんですけど」
「手伝ってやるから、こっちへ来い。ついでに『掃除』する」
俺は透子の襟首を掴み、ずるずると給湯室へと引きずっていった。
丸の内商事の給湯室は、フロアの隅にある4畳ほどのスペースだ。
流し台と冷蔵庫、そして本来なら廃棄されるはずだった旧式のコピー機が、無理やり押し込まれている。
湿気と熱気が籠もりやすく、精密機器を置く環境ではないが、総務の備品管理課としては「予備」としてここに置かざるを得なかったのだ。
俺は透子を中に入れ、ドアを閉めた。
狭い室内には、透子が連れてきた低級霊たちと、冷蔵庫のブーンという重低音が充満している。
まずは仕事だ。
俺は旧式コピー機のトレイに原稿をセットし、スタートボタンを押した。
ウィーン、ガッ……ウィーン。
苦しげな駆動音と共に、ゆっくりと紙が吐き出され始める。
残り時間15分。300枚。ギリギリの戦いだ。
「で、何なんですか中川さん。私、時給発生してるんですけど」
「静かにしてろ。……あと、そこにある塩、取ってくれ」
「塩? ……はい」
透子が棚から食卓塩の瓶を渡してくる。
コピー機が唸りを上げて稼働している横で、俺はそれを左手に持ち、右手でポケットからあるものを取り出した。
75mm×75mmの、蛍光イエローの付箋だ。
どこにでもある事務用品。
だが、その裏面には、俺が昼休みに極細ボールペンでびっしりと書き込んだ『退魔の呪文』が記されている。
「……え、何それ。中川さん、もしかして中二病?」
「黙って見てろ。バイト代以上に面白いものを見せてやる」
俺は付箋を2本の指で挟み、呪文を詠唱した。
声に出さず、唇だけを動かす。
(――オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン――)
指先の付箋が、カッと熱を帯びる。
俺は透子の背中――正確には、そこにへばりついていた『貧乏神のなりそこない』の額めがけて、付箋を叩きつけた。
「悪霊退散、定時退社!」
パンッ!
乾いた音が、狭い給湯室に響く。
『ギャアアアアアアア!!』
透子には聞こえない断末魔と共に、彼女の背中から黒い霧が噴き出した。
付箋がまばゆい光を放ち、霧を吸い込んでいく。
蛍光イエローの紙片は一瞬で真っ黒に変色し、パラリと床に落ちた。
「……へ?」
透子がキョトンとした顔で振り返る。
「あれ? なんか急に体が軽い……。え、何したんですか今?」
「静電気除去だ。冬場は多いからな」
「嘘だ絶対! ……あ、この黒い付箋、なんか焦げ臭い!」
俺は黒くなった付箋を拾い上げ、燃えるゴミの箱に捨てた。
これで透子の掃除は完了だ。
コピー機の排紙トレイには、順調に資料が積み重なっている。あと半分といったところか。
「よし、次は権藤課長のアレをやるぞ」
「アレ?」
「お前、コーヒー淹れられるか?」
「インスタントでいいなら」
「それでいい。ただし、お湯を入れる前にこれを混ぜろ」
俺は胸ポケットから、小さな小瓶を取り出した。
中には透明な液体が入っている。
これは俺が自宅で精製した『聖水』だ。
「……毒じゃないですよね?」
「ただのミネラルウォーターだ。さっさとやれ。コピーが終わるのと同時進行だ」
「へーい」
透子が怪訝な顔でコーヒーを作り始める。
ポットのお湯が注がれ、インスタントコーヒーの香ばしい匂いが漂う。
それとほぼ同時に、コピー機が最後の1枚を吐き出し、ピーッと終了音を鳴らした。
時刻は17時28分。
完璧だ。
俺はほかほかの資料を揃え、ホッチキスで素早く止めていく。
そして、その一番上の紙に、新たな付箋を貼り付けた。
今度はピンク色だ。
書かれている呪文は『謙虚・反省・鎮静』。
「よし、行くぞ松田」
「え、私も?」
「お前が持っていけ。女子高生が淹れたコーヒーなら、あのオッサンも断らないだろ」
「権藤課長、コピー終わりました」
俺たちは営業二課の島へ戻った。
権藤課長は電話で誰かを怒鳴りつけている最中だった。背中のマウント小僧が、真っ赤になって膨れ上がっている。
「だから! 俺が言った通りにやればいいんだよ! お前らゆとりは……あ? なんだ?」
課長が不機嫌そうに電話を切る。
「コピー、完了しました。あと、こちらは松田さんからの差し入れです」
「あ、ど、どうぞ……。コーヒーです」
透子が引きつった笑顔でマグカップを差し出す。
「おう、気が利くねぇ! バイトちゃんもご苦労さん!」
権藤課長は鼻の下を伸ばし、コーヒーを受け取った。
そして、一口すする。
「ん……? なんかこれ、妙にスッキリした味が……」
その瞬間だった。
俺は資料の束を、課長のデスクに「ダンッ!」と強めに置いた。
その衝撃で、資料に貼ったピンクの付箋から波動が広がる。
体内に入った聖水と、外部からの呪符の波動。
内と外からの同時攻撃だ。
『グギャアアアアア!!』
課長の背中のマウント小僧が、悲鳴を上げて弾け飛んだ。
その姿は霧散し、オフィスの換気扇へと吸い込まれていく。
「……あれ?」
権藤課長が、ぽかんと口を開けた。
憑き物が落ちたような顔、とはまさにこのことだ。
血走っていた目が穏やかになり、赤黒かった顔色がみるみる健康的な肌色に戻っていく。
「……俺、なんで怒鳴ってたんだっけ?」
課長は自分の手を見つめ、それから受話器を取った。
「あー、もしもし、さっきの件だけど……ごめん、俺の勘違いだったかもしれない。うん、君のやり方で進めてみてくれ。……ああ、悪かったな。よろしく頼むよ」
周囲の社員たちが、「えっ?」という顔で顔を見合わせている。
あの権藤課長が謝った? 天変地異か?
「すまんね、中川さん。急な仕事頼んじゃって。……あれ、もうこんな時間か」
課長が壁の時計を見る。
17時30分。
定時のチャイムが、ピンポンパンポーンと鳴り響いた。
「定時ですね。お疲れ様でした」
俺は流れるような動作でジャケットを羽織り、カバンを掴んだ。
「あ、ああ。お疲れ様。……あれ? 肩が軽い。すげえ軽いぞ!?」
権藤課長が腕をぐるぐると回しているのを背中で聞きながら、俺は早足でエレベーターホールへと向かう。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ中川さん!」
背後から、小走りで透子が追いかけてきた。
「何だ。残業代は出ないぞ」
「違いますよ! ……さっきの、何なんですか? 課長、別人みたいになってたし……私の肩も軽くなったし」
「プラシーボ効果だ」
「絶対違う! 中川さん、何者なんですか? ただの派遣じゃないですよね?」
エレベーターが到着し、ドアが開く。
俺は乗り込み、閉まるボタンを押しながら、透子に向かって人差し指を立てた。
「……時給1200円の派遣社員だ。それ以上のことは、業務規定に含まれていない」
ドアが閉まる寸前、透子の呆気にとられた顔が見えた。
俺は一つ息を吐き、ネクタイを少しだけ緩める。
とりあえず、今日の業務は終了だ。
スーパーの特売にはまだ間に合う。
今夜は豚バラと夏野菜のカレーだ。隠し味に、少しだけクミンを効かせよう。
俺の、平和で静かな夜が始まる――はずだった。
この時の俺はまだ知らない。
明日から、この「丸の内商事」が、百鬼夜行の魔都と化すことを。
午後5時のオフィス街は、まだ戦場だった。
高層ビルの窓という窓から漏れる光は、この国を動かすエネルギーの輝きであると同時に、そこで働く社畜たちの魂が燃え尽きる残光でもある。
そんなコンクリートジャングルの一角に建つ、創業50年の中堅商社「丸の内商事」。
その総務部・備品管理課のデスクで、俺――中川武は、腕時計の秒針を見つめていた。
17時10分。
定時まで、あと20分。
「……長い」
俺は小さく息を吐き、手元の伝票整理に戻るふりをした。
30歳。独身。職業、派遣社員。
時給は1200円。
俺の業務は、ボールペンの補充からコピー用紙の発注、蛍光灯の交換まで、この会社の下支えをすることだ。
誰にでもできる仕事、と言われればそれまでだが、俺はこの仕事が気に入っている。
責任が重くない。
人間関係が希薄。
そして何より――定時で帰れる。
はずだった。
「おーい、派遣さーん! ちょっといいかね?」
フロアの空気を震わせるような大声が、俺の平穏を切り裂いた。
PCモニターの陰から顔を上げると、営業二課の権藤課長が、脂ぎった赤ら顔で手招きしている。
俺は表情筋を死滅させた「派遣スマイル」を貼り付け、席を立った。
「はい、何でしょうか権藤課長」
「悪いんだけどさあ、この資料、急ぎで20部コピー頼めるかな? さっき急に会議が決まってさあ」
権藤課長が差し出してきたのは、クリップで留められた紙の束だ。
ざっと見て15ページほど。
これを20部。合計300枚。
俺は瞬時に計算する。
ここにある最新の複合機は、別の社員が大量印刷中で塞がっている。
使えるのは、給湯室の隅に追いやられた旧式のサブ機だけだ。あの骨董品の印刷速度は、分速30枚程度。
つまり、単純計算で10分かかる。
紙詰まりが起きれば、その時点で定時退社は絶望的だ。
「……課長。現在は17時12分です。私の契約時間は17時30分までとなっておりますが」
「あー、ごめんごめん! ギリギリだよね? でもほら、君、手際いいし! ちゃちゃっと終わるでしょ?」
権藤課長はニカっと笑い、俺の肩をバシバシと叩いた。
その瞬間、俺の視界がぐらりと歪む。
物理的な衝撃ではない。
霊的な嘔吐感だ。
俺は無言で、権藤課長の背後を見上げた。
そこには――いた。
課長の肩から首にかけて、赤黒い皮膚をした子供のような何かが、がっしりとしがみついている。
大きさは3歳児ほどだが、顔は醜悪に歪んだ老人だ。
そいつは俺と目が合うと、ニタリと笑い、課長の耳元で何やら囁き始めた。
『俺はすごい。俺は偉い。俺は寝てない。お前らは無能だ』
――『マウント小僧』だ。
オフィス妖怪図鑑、カテゴリーC。
承認欲求とストレスが肥大化したサラリーマンに取り憑く、極めて厄介な怨霊。
宿主のプライドを異常に高め、「俺の若い頃は」という武勇伝や、「俺、昨日2時間しか寝てないわ~」という地獄のミサワ的マウント発言を誘発させる。
さらに物理的な質量を持ち始めると、宿主に強烈な肩こりと頭痛を引き起こす。
「……いてて、なんか最近、肩が重くてなぁ。マッサージ行っても治らんのよ」
権藤課長が首をコキコキと鳴らす。
治るわけがない。3歳児サイズの怨念を背負って生活しているのだから。
「あー、やっぱり派遣さんじゃ無理かなぁ? 俺が若い頃はさぁ、このくらいの仕事、言われる前に終わらせてたんだけどなぁ。最近の人は権利ばっかり主張するっていうかさぁ」
マウント小僧の囁きに同調するように、権藤課長の口から嫌味が漏れ出す。
周囲の正社員たちが、気まずそうに目を逸らすのが見えた。
俺は小さくため息をつく。
放置すれば、こいつの承認欲求はさらに肥大化し、部下へのパワハラが悪化するだろう。
そして何より、このままだと俺が残業させられる。
それは困る。
今日はスーパーで豚バラ肉が特売なのだ。家に帰って、スパイスから仕込んだ特製カレーを作らねばならない。
「……わかりました。コピー、とっておきます」
「おお! 助かるよ! やっぱり持つべきものは優秀な派遣さんだね!」
「ただし」
俺は資料を受け取りながら、冷徹な声で付け加えた。
「メインの複合機が使用中ですので、給湯室にある旧式のサブ機を使います。少しお時間をいただけますか?」
「ん? ああ、綺麗に刷ってくれるならどこでもいいよ。頼んだね!」
権藤課長は上機嫌で自席に戻っていった。背中のマウント小僧が、俺に向かって「べー」と舌を出している。
(……ナメやがって)
俺は資料を手に、くるりと背を向けた。
その時だ。
「ちわーっす。社内便でーす」
入り口のドアが開き、元気のない声とともに、一人の少女が入ってきた。
制服の上に作業用ジャンパーを羽織った、女子高生だ。
長い黒髪を無造作に束ね、その大きな瞳には「帰りたい」という文字がありありと浮かんでいる。
松田透子。17歳。
夕方から郵便室でバイトをしている高校生だ。
彼女がフロアに一歩足を踏み入れた瞬間、オフィスの空気がドロリと淀んだ。
蛍光灯がチカチカと明滅し、どこからか「ヒヒヒ……」という笑い声が聞こえる。
彼女の背後には、雑多な低級霊たちが5、6体、金魚のフンのように列をなしてついてきていた。
「……おい、松田」
「あ、中川さん。お疲れ様ですー。これ、総務宛の請求書」
透子は悪びれる様子もなく、俺に封筒の束を押し付けてきた。
「お前、また拾ってきたな」
「へ? 何をです?」
「後ろだ、後ろ。……今日は一段と多いな。満員電車で痴漢の霊でも引き寄せたか?」
「はぁ? 何変なこと言ってるんですか。セクハラですよ」
透子は心底嫌そうな顔をする。
この少女、自分では気づいていないが、とんでもない「霊媒体質」の持ち主だ。
霊感はゼロ。幽霊の姿は見えないし、声も聞こえない。
だが、その身から溢れ出る霊的フェロモンとでも言うべきオーラが、浮遊霊たちを強烈に引き寄せてしまう。
歩く霊寄せビーコン。それが松田透子だ。
「肩、重くないか?」
「あー、言われてみれば。なんか今日、体が鉛みたいに重いんですよね。成長痛かな」
「17歳で成長痛はないだろ。……ついてこい」
「え、どこへ? 私まだ配り終わってないんですけど」
「手伝ってやるから、こっちへ来い。ついでに『掃除』する」
俺は透子の襟首を掴み、ずるずると給湯室へと引きずっていった。
丸の内商事の給湯室は、フロアの隅にある4畳ほどのスペースだ。
流し台と冷蔵庫、そして本来なら廃棄されるはずだった旧式のコピー機が、無理やり押し込まれている。
湿気と熱気が籠もりやすく、精密機器を置く環境ではないが、総務の備品管理課としては「予備」としてここに置かざるを得なかったのだ。
俺は透子を中に入れ、ドアを閉めた。
狭い室内には、透子が連れてきた低級霊たちと、冷蔵庫のブーンという重低音が充満している。
まずは仕事だ。
俺は旧式コピー機のトレイに原稿をセットし、スタートボタンを押した。
ウィーン、ガッ……ウィーン。
苦しげな駆動音と共に、ゆっくりと紙が吐き出され始める。
残り時間15分。300枚。ギリギリの戦いだ。
「で、何なんですか中川さん。私、時給発生してるんですけど」
「静かにしてろ。……あと、そこにある塩、取ってくれ」
「塩? ……はい」
透子が棚から食卓塩の瓶を渡してくる。
コピー機が唸りを上げて稼働している横で、俺はそれを左手に持ち、右手でポケットからあるものを取り出した。
75mm×75mmの、蛍光イエローの付箋だ。
どこにでもある事務用品。
だが、その裏面には、俺が昼休みに極細ボールペンでびっしりと書き込んだ『退魔の呪文』が記されている。
「……え、何それ。中川さん、もしかして中二病?」
「黙って見てろ。バイト代以上に面白いものを見せてやる」
俺は付箋を2本の指で挟み、呪文を詠唱した。
声に出さず、唇だけを動かす。
(――オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン――)
指先の付箋が、カッと熱を帯びる。
俺は透子の背中――正確には、そこにへばりついていた『貧乏神のなりそこない』の額めがけて、付箋を叩きつけた。
「悪霊退散、定時退社!」
パンッ!
乾いた音が、狭い給湯室に響く。
『ギャアアアアアアア!!』
透子には聞こえない断末魔と共に、彼女の背中から黒い霧が噴き出した。
付箋がまばゆい光を放ち、霧を吸い込んでいく。
蛍光イエローの紙片は一瞬で真っ黒に変色し、パラリと床に落ちた。
「……へ?」
透子がキョトンとした顔で振り返る。
「あれ? なんか急に体が軽い……。え、何したんですか今?」
「静電気除去だ。冬場は多いからな」
「嘘だ絶対! ……あ、この黒い付箋、なんか焦げ臭い!」
俺は黒くなった付箋を拾い上げ、燃えるゴミの箱に捨てた。
これで透子の掃除は完了だ。
コピー機の排紙トレイには、順調に資料が積み重なっている。あと半分といったところか。
「よし、次は権藤課長のアレをやるぞ」
「アレ?」
「お前、コーヒー淹れられるか?」
「インスタントでいいなら」
「それでいい。ただし、お湯を入れる前にこれを混ぜろ」
俺は胸ポケットから、小さな小瓶を取り出した。
中には透明な液体が入っている。
これは俺が自宅で精製した『聖水』だ。
「……毒じゃないですよね?」
「ただのミネラルウォーターだ。さっさとやれ。コピーが終わるのと同時進行だ」
「へーい」
透子が怪訝な顔でコーヒーを作り始める。
ポットのお湯が注がれ、インスタントコーヒーの香ばしい匂いが漂う。
それとほぼ同時に、コピー機が最後の1枚を吐き出し、ピーッと終了音を鳴らした。
時刻は17時28分。
完璧だ。
俺はほかほかの資料を揃え、ホッチキスで素早く止めていく。
そして、その一番上の紙に、新たな付箋を貼り付けた。
今度はピンク色だ。
書かれている呪文は『謙虚・反省・鎮静』。
「よし、行くぞ松田」
「え、私も?」
「お前が持っていけ。女子高生が淹れたコーヒーなら、あのオッサンも断らないだろ」
「権藤課長、コピー終わりました」
俺たちは営業二課の島へ戻った。
権藤課長は電話で誰かを怒鳴りつけている最中だった。背中のマウント小僧が、真っ赤になって膨れ上がっている。
「だから! 俺が言った通りにやればいいんだよ! お前らゆとりは……あ? なんだ?」
課長が不機嫌そうに電話を切る。
「コピー、完了しました。あと、こちらは松田さんからの差し入れです」
「あ、ど、どうぞ……。コーヒーです」
透子が引きつった笑顔でマグカップを差し出す。
「おう、気が利くねぇ! バイトちゃんもご苦労さん!」
権藤課長は鼻の下を伸ばし、コーヒーを受け取った。
そして、一口すする。
「ん……? なんかこれ、妙にスッキリした味が……」
その瞬間だった。
俺は資料の束を、課長のデスクに「ダンッ!」と強めに置いた。
その衝撃で、資料に貼ったピンクの付箋から波動が広がる。
体内に入った聖水と、外部からの呪符の波動。
内と外からの同時攻撃だ。
『グギャアアアアア!!』
課長の背中のマウント小僧が、悲鳴を上げて弾け飛んだ。
その姿は霧散し、オフィスの換気扇へと吸い込まれていく。
「……あれ?」
権藤課長が、ぽかんと口を開けた。
憑き物が落ちたような顔、とはまさにこのことだ。
血走っていた目が穏やかになり、赤黒かった顔色がみるみる健康的な肌色に戻っていく。
「……俺、なんで怒鳴ってたんだっけ?」
課長は自分の手を見つめ、それから受話器を取った。
「あー、もしもし、さっきの件だけど……ごめん、俺の勘違いだったかもしれない。うん、君のやり方で進めてみてくれ。……ああ、悪かったな。よろしく頼むよ」
周囲の社員たちが、「えっ?」という顔で顔を見合わせている。
あの権藤課長が謝った? 天変地異か?
「すまんね、中川さん。急な仕事頼んじゃって。……あれ、もうこんな時間か」
課長が壁の時計を見る。
17時30分。
定時のチャイムが、ピンポンパンポーンと鳴り響いた。
「定時ですね。お疲れ様でした」
俺は流れるような動作でジャケットを羽織り、カバンを掴んだ。
「あ、ああ。お疲れ様。……あれ? 肩が軽い。すげえ軽いぞ!?」
権藤課長が腕をぐるぐると回しているのを背中で聞きながら、俺は早足でエレベーターホールへと向かう。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ中川さん!」
背後から、小走りで透子が追いかけてきた。
「何だ。残業代は出ないぞ」
「違いますよ! ……さっきの、何なんですか? 課長、別人みたいになってたし……私の肩も軽くなったし」
「プラシーボ効果だ」
「絶対違う! 中川さん、何者なんですか? ただの派遣じゃないですよね?」
エレベーターが到着し、ドアが開く。
俺は乗り込み、閉まるボタンを押しながら、透子に向かって人差し指を立てた。
「……時給1200円の派遣社員だ。それ以上のことは、業務規定に含まれていない」
ドアが閉まる寸前、透子の呆気にとられた顔が見えた。
俺は一つ息を吐き、ネクタイを少しだけ緩める。
とりあえず、今日の業務は終了だ。
スーパーの特売にはまだ間に合う。
今夜は豚バラと夏野菜のカレーだ。隠し味に、少しだけクミンを効かせよう。
俺の、平和で静かな夜が始まる――はずだった。
この時の俺はまだ知らない。
明日から、この「丸の内商事」が、百鬼夜行の魔都と化すことを。
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