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第4話 黄金の底値と雨の日の記憶
入学式の翌日。今日から本格的な授業が始まる。
ペントハウスのリビング。俺は淹れたてのコーヒーを啜りながら、指先で一枚の金貨を弄んでいた。
純度99.99%、カナダ造幣局発行のメイプルリーフ金貨。
明智に指示して現物資産として買い集めさせているものの一部だ。
現在の金価格は1グラムあたり1,000円前後。歴史的な大底圏にある。
ITバブルに沸く世間では「金なんてオワコンだ」「利子がつかない資産はゴミだ」と見向きもされていない。
だが、20年後、この輝く金属が1グラム1万3,000円を超える価値を持つことを、俺は知っている。
通貨の価値が揺らぐ時、最後に信じられるのはこれだ。
(……静かに、底値で買い集めておくか)
俺は金貨をポケットに滑り込ませ、通学用の鞄を手に取った。
今は誰も見向きもしない原石を拾う。それが投資の基本だ。
1限目は現代社会の授業だった。
教壇に立つ初老の教師は、新入生を値踏みするような視線で教室を見渡した。
「えー、では早速だが。バブル経済崩壊後の日本における金融システムの問題点について、誰か答えられる者はいるか?」
高校1年生の最初の授業にしては、いささか難易度の高い質問だ。
教室が静まり返る。誰も目を合わせようとしない。
教師は満足げに鼻を鳴らし、出席簿に目を落とした。
「いないか? ならば、入試トップの西園寺。お前なら答えられるかね?」
指名された俺は、静かに席を立った。
試されているのだろう。俺は教科書通りの答えに、少しだけ現状認識を加えることにした。
「はい。最大の問題点は、金融機関が抱える巨額の不良債権処理が遅れていることです。地価の下落により担保価値が目減りし、貸し渋りや貸し剥がしが横行しています。これにより企業の資金繰りが悪化し、景気回復の足かせとなっていると考えます」
私情を挟まず、マクロな視点からの分析を淀みなく口にする。
教師は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに咳払いをして頷いた。
「……うむ。よろしい。よく予習しているようだな」
俺は一礼して着席した。
周囲から「すげぇ」「ガチだ」という囁きが聞こえる。
その中で、隣の席の男子生徒が、背もたれにふんぞり返りながら俺を見ていた。
金髪に染めた短髪。着崩した制服。
城戸隼人だ。
「へっ、優等生サマは言うことが違うねぇ」
皮肉げな口調だが、その瞳には単純な敵意とは違う、探るような光があった。
昼休み。
俺は購買で買ったサンドイッチを持って、自分の席に座っていた。
教室の前方では、いつものように日向翔太と桜木マナが会話している。
「翔太、お昼でしょ? ……あのね、今日は早起きして作ってきたんだ」
マナが少し恥ずかしそうに、可愛らしい包みの弁当箱を取り出した。
翔太の好物である唐揚げや卵焼きを、彩りよく詰めてきたに違いない。
早起きして、幼馴染のために手間をかける。その健気さは、誰が見ても微笑ましいものだ。
日向は当然のようにそれを受け取ると、さっそく蓋を開けた。
「お、サンキュ! ……って、なんだよこれ、ブロッコリー入ってんじゃん」
日向の顔に、露骨な不満が浮かんだ。
「俺、野菜嫌いって言ったろ? マナのくせに気ぃ利かねーな」
「え……でも、お肉ばっかりじゃ栄養バランスが偏るから……」
「うるせーな。俺の世話係なら、俺の好きなもんだけ入れろよ! こういうのはマジで勘弁な」
日向は箸でブロッコリーを無造作に弾きのけ、唐揚げだけを口に放り込んだ。
マナの表情がスッと凍りつく。
感謝の言葉もなく、ただ自分の我儘だけを押し付ける。彼女がどれほどの思いで朝早く起きたかなど、彼には微塵も想像できていないのだろう。
「……ごめんね、次から気をつけるから」
マナは力なく笑い、俯いた。
その指先が微かに震えているのを、俺は見ていた。
日向に悪気はないのだろうが、相手を所有物のように扱い、自分の世話をさせるのが当然だと思い込んでいる。
(……残酷だな、無自覚というのは)
俺は心の中で一人ごちて、サンドイッチを口に運んだ。
ここで俺が割って入るのは簡単だが、今はまだ、彼女自身が日向への違和感に気づく過程を見守るしかない。
放課後。
帰ろうと鞄を手に取った俺の机に、影が落ちた。
「おい西園寺。ちょっと面貸せよ」
城戸隼人だ。
ポケットに手を突っ込み、鋭い目つきで見下ろしている。
クラスの空気が凍った。優等生の西園寺が、ヤンキーの城戸に絡まれている――誰もがそう思っただろう。
「……何か用か、城戸」
「テメェ、一昨日の日曜、青山で大学生のサークル崩れ追い返したらしいな?」
一昨日のことか。早坂涼を助けた件だ。どこで見られていたのか。
「……人違いじゃないか?」
「とぼけんな。あの時逃げてった連中の中に、俺の地元の後輩がいたんだよ。後で俺んトコに泣きついてきやがった。『グラサンかけた生意気なガキがいきなり法律持ち出して脅してきた』ってな。で、昨日の入学式でお前の挨拶聞いて確信したらしいぜ。『あの低くて偉そうな声と喋り方、間違いない! 日曜に俺たちを論破した奴だ!』ってよ」
なるほど。顔は隠せていても、声や態度、言葉の選び方までは誤魔化しきれなかったか。
隼人はニヤリと笑った。
「気に入ったぜ。お前、ただのガリ勉ボンボンじゃねぇだろ」
「買いかぶりだ」
「うるせぇ。……おい、ゲーセン行くぞ。奢れとは言わねぇ。格ゲーで勝負だ」
有無を言わせぬ強引さ。
だが、その声には陰湿な響きはない。純粋に俺という人間に興味を持ったゆえの誘いだ。
断る理由もない。俺は少し考えて、頷いた。
「いいだろう。だが、手加減はしないぞ」
「はっ! 上等だオラ!」
駅前のゲームセンターは、煙草の煙と電子音に満ちていた。
俺と隼人は対戦台に座り、『ストリートファイターZERO3』で拳を交えた。
結果は、俺の圧勝だった。
前世の経験値と、動体視力の差だ。
「くっそー! なんで勝てねぇんだよ! お前、絶対やり込んでるだろ!」
「読みが甘い。攻めっ気が強すぎて隙だらけだ」
「うるせぇ! もう一回だ!」
結局、10戦やって俺の8勝2敗。
店を出る頃には、日は傾きかけていた。
隼人は缶ジュースを飲みながら、清々しい顔をしていた。
「あー、腹立つけどスッキリしたわ。……悪かったな、無理やり連れ回して」
「いや、いい気分転換になった。悪くなかった」
「なんだよそれ。……ま、お前が話せる奴だってわかっただけで収穫だわ」
隼人は俺の肩を軽く叩いた。
乱暴だが、そこには確かな親愛の情があった。
彼のような裏表のない人間との関係は、計算高い大人社会に疲れた俺にとって、貴重なものになるかもしれない。
「じゃあな、西園寺。また明日」
「ああ。また明日」
手を振って去っていく背中を見送り、俺は携帯電話を取り出した。
迎えの車を呼ぶ時間だ。
迎えに来た黒塗りのセダンの後部座席に乗り込む。
運転席には、タイトなスーツを着こなした女性が座っていた。
如月舞。
俺の個人資産管理会社の社長秘書であり、公私にわたるパートナーだ。
19歳とは思えない落ち着きと、陶器のような白い肌を持つ美貌は、車内の空気を凛と引き締める。
「お疲れ様です、社長。……ご友人との時間は楽しめましたか?」
バックミラー越しに、舞の大きな瞳が俺を捉える。
彼女は俺のスケジュールを把握している。
「ああ。騒がしい奴だが、悪い人間じゃない」
「そうですか。社長が年相応のご友人と過ごされるのは、良いことだと思います」
少しだけ、彼女の声が和らいだ気がした。
車は夕暮れの都心を滑るように走る。
窓の外には、建設中のビル群が見える。バブル崩壊で暴落した地価も、都心部ではようやく下げ止まりの兆しを見せている。
ここから不動産流動化ビジネスが本格化する。仕込み時だ。
「舞、例の青山と六本木の物件データ、まとめておけ」
「はい。既に机の上に。……それと、社長の好物のコーヒーも用意してあります」
「気が利くな」
舞は無表情を崩さないが、その忠誠心は言葉の端々から伝わってくる。
彼女との出会いを思い出す。
あれは2年前。俺がまだ中学2年生、彼女が高校3年生の時だった。
――1997年、初夏。
激しい雨が降る公園だった。
ブランコに座り、ずぶ濡れで震えている少女がいた。それが舞だった。
彼女の父親が連帯保証人になり、多額の借金を背負わされた直後だった。
ヤクザまがいの業者が自宅に押し寄せ、暴力的な取り立てを行っていた。
「娘を風俗に沈めれば金になる」
そんな脅しを受け、彼女は進学を諦め、家族のために身を売る決意を固めていたのだ。
俺は通りがかりに彼女を見つけ、傘を差し出した。
『……風邪を引くぞ』
『……放っておいてください。どうせ、もう終わりなんです』
彼女の瞳は死んでいた。
俺は事情を聞き出し、その場で業者への連絡先を聞いた。
中学生のガキが出てきても相手にされないだろう。だから俺は、金と法律を使った。
雇っていた顧問弁護士を使い、業者の貸付契約における違法性を指摘。元本のみの一括返済という条件で、強引に手打ちにさせた。
返済原資は、俺が株で稼いだ小遣いだ。
『借金は消えた。お前が身を売る必要もない』
呆然とする彼女に、俺は名刺を渡した。
『その代わり、俺の元で働け。簿記1級を持っていると聞いた。俺の会社の帳簿整理を手伝うんだ。……給料は出す』
彼女は震える手で名刺を受け取り、雨の中で俺に平伏した。
あの時の、涙で濡れた瞳を今でも覚えている。
「……社長? どうなさいました?」
舞の声で、俺は我に返った。
いつの間にか、マンションの地下駐車場に到着していた。
「いや……昔のことを思い出していただけだ。雨の日のことをな」
「……!」
舞の手が、ハンドルを握りしめる。
バックミラー越しの彼女の耳が、朱に染まっているのが見えた。
「……あの日、傘を差し出していただいたこと。私は一生忘れません」
「恩に着せるつもりはない。お前はもう十分に、仕事で返してくれている」
「いいえ。……私の命も、この身も、すべて社長のものですから」
彼女は静かに、しかし熱のこもった声で呟いた。
その言葉には、単なる主従を超えた重みがあった。
19歳の彼女にとって、15歳の俺は異性として見づらい対象かもしれない。
だが、俺たちの間にある絆は、年齢や常識で測れるものではない。
「……頼りにしているぞ、舞」
ペントハウスのリビング。俺は淹れたてのコーヒーを啜りながら、指先で一枚の金貨を弄んでいた。
純度99.99%、カナダ造幣局発行のメイプルリーフ金貨。
明智に指示して現物資産として買い集めさせているものの一部だ。
現在の金価格は1グラムあたり1,000円前後。歴史的な大底圏にある。
ITバブルに沸く世間では「金なんてオワコンだ」「利子がつかない資産はゴミだ」と見向きもされていない。
だが、20年後、この輝く金属が1グラム1万3,000円を超える価値を持つことを、俺は知っている。
通貨の価値が揺らぐ時、最後に信じられるのはこれだ。
(……静かに、底値で買い集めておくか)
俺は金貨をポケットに滑り込ませ、通学用の鞄を手に取った。
今は誰も見向きもしない原石を拾う。それが投資の基本だ。
1限目は現代社会の授業だった。
教壇に立つ初老の教師は、新入生を値踏みするような視線で教室を見渡した。
「えー、では早速だが。バブル経済崩壊後の日本における金融システムの問題点について、誰か答えられる者はいるか?」
高校1年生の最初の授業にしては、いささか難易度の高い質問だ。
教室が静まり返る。誰も目を合わせようとしない。
教師は満足げに鼻を鳴らし、出席簿に目を落とした。
「いないか? ならば、入試トップの西園寺。お前なら答えられるかね?」
指名された俺は、静かに席を立った。
試されているのだろう。俺は教科書通りの答えに、少しだけ現状認識を加えることにした。
「はい。最大の問題点は、金融機関が抱える巨額の不良債権処理が遅れていることです。地価の下落により担保価値が目減りし、貸し渋りや貸し剥がしが横行しています。これにより企業の資金繰りが悪化し、景気回復の足かせとなっていると考えます」
私情を挟まず、マクロな視点からの分析を淀みなく口にする。
教師は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに咳払いをして頷いた。
「……うむ。よろしい。よく予習しているようだな」
俺は一礼して着席した。
周囲から「すげぇ」「ガチだ」という囁きが聞こえる。
その中で、隣の席の男子生徒が、背もたれにふんぞり返りながら俺を見ていた。
金髪に染めた短髪。着崩した制服。
城戸隼人だ。
「へっ、優等生サマは言うことが違うねぇ」
皮肉げな口調だが、その瞳には単純な敵意とは違う、探るような光があった。
昼休み。
俺は購買で買ったサンドイッチを持って、自分の席に座っていた。
教室の前方では、いつものように日向翔太と桜木マナが会話している。
「翔太、お昼でしょ? ……あのね、今日は早起きして作ってきたんだ」
マナが少し恥ずかしそうに、可愛らしい包みの弁当箱を取り出した。
翔太の好物である唐揚げや卵焼きを、彩りよく詰めてきたに違いない。
早起きして、幼馴染のために手間をかける。その健気さは、誰が見ても微笑ましいものだ。
日向は当然のようにそれを受け取ると、さっそく蓋を開けた。
「お、サンキュ! ……って、なんだよこれ、ブロッコリー入ってんじゃん」
日向の顔に、露骨な不満が浮かんだ。
「俺、野菜嫌いって言ったろ? マナのくせに気ぃ利かねーな」
「え……でも、お肉ばっかりじゃ栄養バランスが偏るから……」
「うるせーな。俺の世話係なら、俺の好きなもんだけ入れろよ! こういうのはマジで勘弁な」
日向は箸でブロッコリーを無造作に弾きのけ、唐揚げだけを口に放り込んだ。
マナの表情がスッと凍りつく。
感謝の言葉もなく、ただ自分の我儘だけを押し付ける。彼女がどれほどの思いで朝早く起きたかなど、彼には微塵も想像できていないのだろう。
「……ごめんね、次から気をつけるから」
マナは力なく笑い、俯いた。
その指先が微かに震えているのを、俺は見ていた。
日向に悪気はないのだろうが、相手を所有物のように扱い、自分の世話をさせるのが当然だと思い込んでいる。
(……残酷だな、無自覚というのは)
俺は心の中で一人ごちて、サンドイッチを口に運んだ。
ここで俺が割って入るのは簡単だが、今はまだ、彼女自身が日向への違和感に気づく過程を見守るしかない。
放課後。
帰ろうと鞄を手に取った俺の机に、影が落ちた。
「おい西園寺。ちょっと面貸せよ」
城戸隼人だ。
ポケットに手を突っ込み、鋭い目つきで見下ろしている。
クラスの空気が凍った。優等生の西園寺が、ヤンキーの城戸に絡まれている――誰もがそう思っただろう。
「……何か用か、城戸」
「テメェ、一昨日の日曜、青山で大学生のサークル崩れ追い返したらしいな?」
一昨日のことか。早坂涼を助けた件だ。どこで見られていたのか。
「……人違いじゃないか?」
「とぼけんな。あの時逃げてった連中の中に、俺の地元の後輩がいたんだよ。後で俺んトコに泣きついてきやがった。『グラサンかけた生意気なガキがいきなり法律持ち出して脅してきた』ってな。で、昨日の入学式でお前の挨拶聞いて確信したらしいぜ。『あの低くて偉そうな声と喋り方、間違いない! 日曜に俺たちを論破した奴だ!』ってよ」
なるほど。顔は隠せていても、声や態度、言葉の選び方までは誤魔化しきれなかったか。
隼人はニヤリと笑った。
「気に入ったぜ。お前、ただのガリ勉ボンボンじゃねぇだろ」
「買いかぶりだ」
「うるせぇ。……おい、ゲーセン行くぞ。奢れとは言わねぇ。格ゲーで勝負だ」
有無を言わせぬ強引さ。
だが、その声には陰湿な響きはない。純粋に俺という人間に興味を持ったゆえの誘いだ。
断る理由もない。俺は少し考えて、頷いた。
「いいだろう。だが、手加減はしないぞ」
「はっ! 上等だオラ!」
駅前のゲームセンターは、煙草の煙と電子音に満ちていた。
俺と隼人は対戦台に座り、『ストリートファイターZERO3』で拳を交えた。
結果は、俺の圧勝だった。
前世の経験値と、動体視力の差だ。
「くっそー! なんで勝てねぇんだよ! お前、絶対やり込んでるだろ!」
「読みが甘い。攻めっ気が強すぎて隙だらけだ」
「うるせぇ! もう一回だ!」
結局、10戦やって俺の8勝2敗。
店を出る頃には、日は傾きかけていた。
隼人は缶ジュースを飲みながら、清々しい顔をしていた。
「あー、腹立つけどスッキリしたわ。……悪かったな、無理やり連れ回して」
「いや、いい気分転換になった。悪くなかった」
「なんだよそれ。……ま、お前が話せる奴だってわかっただけで収穫だわ」
隼人は俺の肩を軽く叩いた。
乱暴だが、そこには確かな親愛の情があった。
彼のような裏表のない人間との関係は、計算高い大人社会に疲れた俺にとって、貴重なものになるかもしれない。
「じゃあな、西園寺。また明日」
「ああ。また明日」
手を振って去っていく背中を見送り、俺は携帯電話を取り出した。
迎えの車を呼ぶ時間だ。
迎えに来た黒塗りのセダンの後部座席に乗り込む。
運転席には、タイトなスーツを着こなした女性が座っていた。
如月舞。
俺の個人資産管理会社の社長秘書であり、公私にわたるパートナーだ。
19歳とは思えない落ち着きと、陶器のような白い肌を持つ美貌は、車内の空気を凛と引き締める。
「お疲れ様です、社長。……ご友人との時間は楽しめましたか?」
バックミラー越しに、舞の大きな瞳が俺を捉える。
彼女は俺のスケジュールを把握している。
「ああ。騒がしい奴だが、悪い人間じゃない」
「そうですか。社長が年相応のご友人と過ごされるのは、良いことだと思います」
少しだけ、彼女の声が和らいだ気がした。
車は夕暮れの都心を滑るように走る。
窓の外には、建設中のビル群が見える。バブル崩壊で暴落した地価も、都心部ではようやく下げ止まりの兆しを見せている。
ここから不動産流動化ビジネスが本格化する。仕込み時だ。
「舞、例の青山と六本木の物件データ、まとめておけ」
「はい。既に机の上に。……それと、社長の好物のコーヒーも用意してあります」
「気が利くな」
舞は無表情を崩さないが、その忠誠心は言葉の端々から伝わってくる。
彼女との出会いを思い出す。
あれは2年前。俺がまだ中学2年生、彼女が高校3年生の時だった。
――1997年、初夏。
激しい雨が降る公園だった。
ブランコに座り、ずぶ濡れで震えている少女がいた。それが舞だった。
彼女の父親が連帯保証人になり、多額の借金を背負わされた直後だった。
ヤクザまがいの業者が自宅に押し寄せ、暴力的な取り立てを行っていた。
「娘を風俗に沈めれば金になる」
そんな脅しを受け、彼女は進学を諦め、家族のために身を売る決意を固めていたのだ。
俺は通りがかりに彼女を見つけ、傘を差し出した。
『……風邪を引くぞ』
『……放っておいてください。どうせ、もう終わりなんです』
彼女の瞳は死んでいた。
俺は事情を聞き出し、その場で業者への連絡先を聞いた。
中学生のガキが出てきても相手にされないだろう。だから俺は、金と法律を使った。
雇っていた顧問弁護士を使い、業者の貸付契約における違法性を指摘。元本のみの一括返済という条件で、強引に手打ちにさせた。
返済原資は、俺が株で稼いだ小遣いだ。
『借金は消えた。お前が身を売る必要もない』
呆然とする彼女に、俺は名刺を渡した。
『その代わり、俺の元で働け。簿記1級を持っていると聞いた。俺の会社の帳簿整理を手伝うんだ。……給料は出す』
彼女は震える手で名刺を受け取り、雨の中で俺に平伏した。
あの時の、涙で濡れた瞳を今でも覚えている。
「……社長? どうなさいました?」
舞の声で、俺は我に返った。
いつの間にか、マンションの地下駐車場に到着していた。
「いや……昔のことを思い出していただけだ。雨の日のことをな」
「……!」
舞の手が、ハンドルを握りしめる。
バックミラー越しの彼女の耳が、朱に染まっているのが見えた。
「……あの日、傘を差し出していただいたこと。私は一生忘れません」
「恩に着せるつもりはない。お前はもう十分に、仕事で返してくれている」
「いいえ。……私の命も、この身も、すべて社長のものですから」
彼女は静かに、しかし熱のこもった声で呟いた。
その言葉には、単なる主従を超えた重みがあった。
19歳の彼女にとって、15歳の俺は異性として見づらい対象かもしれない。
だが、俺たちの間にある絆は、年齢や常識で測れるものではない。
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