死んだ推しが幽霊になって憑いてきた〜「成仏するまで手足になりなさい!」とスパルタ指導で社内無双していたら、なぜか現実の美女たちからモテまくっ

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第1章:推しが部屋にやってきた

第1話 サヨナラは言わないで、推し

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 午後6時30分。定時退社をキメた上田晃次の足取りは、羽が生えたように軽かった。
 中堅食品メーカー「オリオンフーズ」の総務部で主任代理を務める晃次は、社内では「真面目で温厚、だが決して無理はしない男」として認知されている。出世欲は薄く、残業は極力断り、飲み会も一次会でスマートに帰る。
 なぜなら、彼には1分1秒でも早く帰宅しなければならない絶対的な理由があったからだ。

「今日の夜9時からは、李理香ちゃん主演のドラマ第4話……そして夜11時からはラジオの生放送。完璧なスケジュールだ」

 満員電車の揺れに耐えながら、晃次は口元が緩むのを必死に堪えていた。

 内田李理香。

「1000年に一度の透明感」という鮮烈なキャッチコピーでデビューし、今や国民的な清純派女優として不動の地位を築いている彼女こそが、晃次の生きる希望であり、魂の救済だった。

 透き通るような白い肌、色素の薄いブラウンの瞳。テレビ画面越しに彼女が微笑むだけで、総務部での理不尽なクレーム処理も、上司の嫌味も、全てが浄化される。晃次にとって、李理香はただの芸能人ではなく、過酷な現代社会を生き抜くための「宗教」のようなものだった。

 自宅の最寄り駅を降り、晃次は駅前のスーパーマーケットに立ち寄った。
 彼のもう一つの趣味は「料理」である。食品メーカーに勤めていることもあり、食材の鮮度や産地には人一倍うるさかった。休日に作り置きや下ごしらえをし、平日は手早く絶品イタリアンを作るのが、彼の日課でありストレス発散法だ。

「今日はドラマを見ながら、白ワインとアクアパッツァだな。真鯛のいいのが入ってるといいが……」

 鮮魚コーナーでパックを吟味していた、その時だった。

『ブルルルルッ!』

 ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが、けたたましいバイブレーションを鳴らした。普段は通知を切っているニュースアプリからの、緊急の号外通知だ。

「なんだよ、地震か?」

 眉をひそめながらスマートフォンの画面をタップした晃次は、そこに表示された文字列を見て、全身の血の気が引いた。

【速報】女優・内田李理香さんが死亡。撮影スタジオでセット崩落事故。

「……は?」

 間の抜けた声が漏れた。
 意味がわからなかった。文字の羅列が、脳で情報として処理されない。
 周囲の客たちも、次々とスマートフォンを取り出し、ざわめき始めていた。

「え、嘘でしょ……」
「内田李理香って、あの女優の? 死んだって……」

 店内のBGMが、まるで遠い世界の環境音のようにくぐもって聞こえた。
 晃次は震える指でSNSを開いた。タイムラインは、尋常ではない速度で滝のように更新されていた。

『李理香ちゃん嘘だよね!?』『セット崩落ってどういうこと!?』『誰か誤報だと言ってくれ』

 どの投稿も、晃次と同じようにパニックに陥っていた。ニュースサイトのリンクを踏むと、無機質なアナウンサーの顔と共に、ブルーシートに覆われた撮影スタジオの様子が映し出されていた。
 警察は事故として捜査を進めている。搬送先の病院で死亡が確認された。
 その事実だけが、冷たく、容赦なく突きつけられた。

 手からスマートフォンが滑り落ち、硬い床に乾いた音を立ててぶつかった。

「李理、香……ちゃん……?」

 嘘だ。だって、今日の夜9時からドラマがあるじゃないか。夜11時からはラジオで、あの優しい声が聞けるはずじゃないか。
 心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち、視界がぐにゃりと歪んだ。
 晃次は足元に落ちたスマートフォンを慌てて拾い上げると、手に持っていた買い物かごをその場に置き去りにし、ふらつく足取りでスーパーから飛び出した。真鯛を買うことなど、とうに頭から消し飛んでいた。

 どうやってスーパーから自宅のマンションまで帰ってきたのか、晃次は全く覚えていなかった。
 築20年のリノベーション済み2LDK。玄関のドアを開けると、真っ暗な部屋が彼を迎え入れた。
 壁には彼女の巨大なポスターが貼られ、ガラスケースの中には出演作品のBlu-rayボックスと、限定のアクリルスタンドが綺麗に並べられている。
 いつもなら、この部屋に帰ってくるだけで心が満たされた。だが今は、ポスターの中で微笑む李理香を見るだけで、胸を鋭い刃物でえぐられるような激痛が走った。

「う、あ……あぁっ……」

 ソファに崩れ落ちた晃次は、両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。
 30歳の男が、まるで子供のように肩を震わせて咽び泣いた。
 なぜ彼女が死ななければならないのか。あんなに一生懸命に演技に向き合い、ファンを大切にして、天使のように優しかった彼女が。
 神様がいるなら、あまりにも残酷すぎる。

 数時間が経過した。
 時計の針は夜の10時を回っていた。
 本来なら、心待ちにしていた主演ドラマの第4話が終わり、余韻に浸りながらラジオの待機をしている時間だ。しかし、テレビの電源を入れる気力など到底湧かなかった。SNSのタイムラインを見るのも恐ろしかった。おそらく、テレビの全チャンネルが彼女の死を報じる特別番組に差し替わっていることだろう。あの残酷な「事実」を、これ以上脳に刻み込みたくなかった。

 晃次はふらふらと立ち上がった。心の中には、悲しみを通り越した、ポッカリとした巨大な虚無の穴が開いていた。

(……何か、しないと。頭がおかしくなりそうだ)

 無意識のうちに、晃次はハードディスクレコーダーのスイッチを入れていた。
 再生されたのは、3日前に放送されたバラエティ番組だった。番宣のためにゲスト出演していた李理香が、司会者と笑顔でトークをしている。
 画面の中の彼女は、透き通るような声でこう語っていた。

『最近、無性に激辛の本格的なアラビアータが食べたくて仕方ないんです。でも、マネージャーさんに絶対ダメって止められてて。太るからって』
『へえ、李理香ちゃん、辛いもの好きなんだ』
『大好きです! ニンニクと唐辛子がガツンと効いたやつ。いつか、お腹いっぱい食べてみたいなって……』

 画面の中で照れくさそうに笑う彼女の顔を見た瞬間、晃次の中で何かが弾けた。

「……作ってやるよ」

 掠れた声が口を突いて出た。

「俺が……世界で一番美味いアラビアータを、作ってやる」

 それは、狂気にも似た現実逃避だったのかもしれない。あるいは、彼なりの不器用すぎる「供養」の儀式だった。

 晃次はキッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。
 スーパーで買い物をせずに帰ってきてしまったが、幸いにも日持ちのする食材はストックしてあった。料理趣味が高じて、常備している保存食のラインナップはプロ顔負けだ。
 まな板を取り出し、青森県産の立派なニンニクを1片取り出す。包丁の腹で押し潰し、芯の芽を丁寧に取り除いてから、細かな微塵切りにしていく。

『トントントントントン……』

 静かな部屋に、包丁のリズミカルな音だけが響き渡る。
 次に、カラブリア産の小ぶりで強烈な辛味を持つ唐辛子を2本、種を抜いて輪切りにする。さらに、冷蔵庫の奥で熟成させていた豚バラ肉の塩漬け——自家製のパンチェッタを拍子木切りにした。

 厚手のフライパンに、たっぷりのエクストラバージンオリーブオイルを引く。
 そこに刻んだニンニクを入れ、ごく弱火にかける。

「絶対に焦がさない……じっくり、オイルに香りを移すんだ」

 誰に聞かせるわけでもなく、晃次は独り言を呟いた。
 オイルの中で細かな泡が立ち始め、食欲をそそる芳醇な香りがキッチンに充満していく。
 そこに唐辛子とパンチェッタを投入する。パンチェッタから透明な脂が溶け出し、旨味と刺激的な香りが、見事な三重奏を奏で始めた。

「トマトは、買い置きのサンマルツァーノ種だ」

 パントリーから最高級のホールトマトの缶詰を取り出し、フライパンに流し込む。
『ジュワァァァッ!』という派手な音と共に、真っ赤なソースが跳ねた。
 晃次は木べらを使い、トマトを丁寧に潰しながら煮詰めていく。水分が飛び、ソースに深いコクととろみが生まれてくる。
 その間に、隣のコンロでたっぷりのお湯を沸かし、1パーセント強の塩を加える。
 パスタは、ソースがよく絡むように表面がザラザラしたブロンズダイス製のペンネを選んだ。規定の茹で時間より1分早くお湯から引き上げる。

 茹で上がったペンネを、煮詰まった真っ赤なソースの海へ投入する。
 フライパンをリズミカルに煽り、ソースとパスタの表面にあるでんぷん質を乳化させていく。オリーブオイルとトマトの酸味が完全に一体化し、ツヤツヤと輝き始めた。

「……完璧だ」

 最後に、ベランダのプランターで育てている新鮮なイタリアンパセリをちぎって散らす。
 純白の平皿に、真っ赤なペンネ・アラビアータが高く盛り付けられた。食欲を刺激する香ばしさと、ツンとした辛味が鼻腔をくすぐる。

 晃次は、その皿をダイニングテーブルの向かい側の席に置いた。
 そして、戸棚から李理香の1番お気に入りのアクリルスタンドを取り出し、皿の向こう側にそっと立てた。グラスに冷えた炭酸水を注ぎ、フォークを添える。
 それはまるで、向かいに彼女が座っているかのような、奇妙で悲しい食卓の光景だった。

「……できたぞ、李理香ちゃん」

 晃次は、向かいの空席に向かって語りかけた。

「君が食べたがっていた、最高のアラビアータだ。マネージャーなんて気にするな。今日は……お腹いっぱい、食べてくれよ」

 言い終えると同時に、全身の力が抜け、晃次は椅子に深くもたれかかった。
 先ほどまでの料理への熱中が嘘のように消え去り、あとには冷たい虚無感だけが残った。
 誰も座っていない椅子。誰も口をつけることのない料理。
 自分のしていることの滑稽さと、どうしようもない喪失感が、容赦なく晃次の心を蝕んでいく。
 料理を作ったからといって、彼女が生き返るわけではない。現実は何一つ変わらないのだ。

 その時だった。

「……いい匂い」

 静寂に包まれていたはずの部屋に、声が響いた。
 それはテレビのスピーカーからではない。すぐ目の前、向かいの空席の方から聞こえた。

「ねえ、一口ちょうだい?」

 ビクッと肩を震わせ、晃次は弾かれたように顔を上げた。
 幻聴だ。ストレスでついに幻聴まで聞こえるようになったのだ。
 そう思いながら、恐る恐る正面に視線を向ける。

「え……?」

 晃次は息を呑み、目を見開いた。
 そこには、テレビで何度も見た、あの透き通るような美貌の女性が立っていた。
 いや、違う。よく見ると、彼女の足元は床から少し浮いており、その体は背後の壁の模様が透けて見えるほど半透明だった。
 死んだ時に着ていたと思われる、撮影用の白いワンピース姿。

 内田李理香の「幽霊」が、ダイニングテーブルの向かい側から身を乗り出し、真っ赤なアラビアータを食い入るように見つめていた。

「わぁ……香ばしくて最高! すっごく美味しそう! ねえ、早く食べさせてよ!」

 テレビの「清楚で大人しい」イメージとは全く違う、ガサツで食い意地の張った声。
 絶望の底にいた30歳のサラリーマンと、死んだはずの国民的女優。
 二人の奇妙で騒がしい同居生活は、一杯の激辛アラビアータから幕を開けたのだった。
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