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第1章:推しが部屋にやってきた
第3話 推しと波長が合った日
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真っ赤なペンネ・アラビアータが盛られていた平皿は、すっかり空になっていた。
晃次はグラスに残っていた冷たい炭酸水を一気に飲み干し、ふう、と大きく息を吐き出した。額には唐辛子の強烈な辛味による汗が滲んでいる。
「あーあ、終わっちゃった。最後の一口、私が食べたかったなぁ……」
ダイニングテーブルの向かい側で、内田李理香の幽霊が恨めしそうに唇を尖らせていた。
彼女は物理的に食事をとることはできないが、晃次が一口食べるごとに「どう!? 今のニンニクの感じどう!?」「パンチェッタの脂、甘い!? 溶ける!?」と矢継ぎ早に質問を浴びせ、晃次がそれに全力の食レポで応えることで、疑似的な食事体験を楽しんでいた。
結果として、晃次はこれまで生きてきた30年間で最も騒がしく、最もカロリーを消費する夕食を終えたのだった。
「……君が食べられないんだから仕方ないだろ。それにしても、テレビで見ていた『妖精』のイメージと違いすぎて、俺はまだ頭が追いついてないよ」
晃次が苦笑しながら皿を下げる準備をしていると、李理香はふわりと空中に浮かび上がり、部屋の中を物珍しそうに漂い始めた。
そして、テーブルの端に置きっぱなしになっていた晃次のネームストラップ付きの社員証を、上からひょいと覗き込んだ。
「上田晃次……オリオンフーズ総務部。へえ、食品メーカーにお勤めなんだ」
李理香は社員証の文字を読み上げると、ふふん、と得意げに胸を張った。
「なら、テレビのイメージなんて、作られたパッケージみたいなものだってわかるでしょ? 中身が同じポテトチップスでも、パッケージが『ふんわり塩味』か『ドカンと濃厚ガーリック』かで、手に取る客層が変わるじゃない。私は事務所に『ふんわり塩味』のパッケージを着せられてただけ」
「なるほど、すごくわかりやすい例えだ……」
「でしょ? 中身は濃厚ガーリックなのよ、私」
白いワンピースがふわりと揺れるが、その向こう側にはやはり部屋の壁紙が透けて見えている。
彼女は壁に貼られた自分の巨大なポスターの前で立ち止まり、まじまじと見つめた。
「それにしても、見事なオタク部屋ね。この特大ポスター、雑誌の懸賞で100名にしか当たらないやつじゃない。あと、そこのガラスケースに入ってる写真集、なんで同じのが3冊もあるのよ?」
「……観賞用、保存用、布教用だ。基本だろ」
「30歳の独身サラリーマンが真顔で言うことじゃないわね」
李理香は呆れたように肩をすくめたが、その表情はどこか嬉しそうだった。
「でも、その『執念』のおかげで、私は今ここにいられるんだと思う」
ポスターから視線を外し、李理香はすっと真顔になって晃次を振り返った。
その声のトーンには、先ほどまでのふざけた響きはなくなっていた。
「さっき自分が『死んだ』って自覚してから、少しずつ記憶が整理されてきたの。私、自分が死んだ瞬間のこと、鮮明に思い出したわ」
李理香はゆっくりと床に降り立ち、両手で自分の細い腕を抱きしめた。
「上から重い鉄骨が落ちてきて……ドスンって、息の根が止まる音がして。視界が真っ暗になって、体がどんどん冷たくなっていった。ああ、これで全部終わりなんだって、暗闇の底に沈んでいくみたいだった」
晃次は黙って彼女の言葉に耳を傾けた。ニュースの無機質な報道では決してわからない、死の瞬間の生々しい恐怖。想像するだけで胸が締め付けられる。
「でも、私、どうしても納得がいかなかったの」
李理香のブラウンの瞳に、強い光が宿った。
「なんで私がこんなところで死ななきゃいけないの? やっと主演ドラマが決まって、これからもっと色んな役をやりたかったのに。恋愛だってまともにしたことないし、激辛のアラビアータだって、お腹いっぱい食べたかったのに! ふざけるな、まだ死ねない、こんなところで終わってたまるか……って、暗闇の中で必死に叫んだのよ」
彼女の強い無念。それは、魂が霧散してしまうのを繋ぎ止めるほどの、凄まじいエネルギーだったのだろう。
「そしたら、真っ暗な空間の遠くの方から、すごく温かくて、強い『引っ張る力』を感じたの。なんだろうと思ってそっちに意識を向けたら……強烈なニンニクと唐辛子の匂いがして、誰かが私の名前を呼びながら、わんわん泣いてる声が聞こえたのよ」
李理香は晃次を指差した。
「あんたよ。上田晃次。あんたの『李理香ちゃんを失いたくない』っていう強烈な推し活の念と、私の『まだ死ねない』っていう無念の波長が、あの瞬間、奇跡的にピタリと合っちゃったの。ラジオの周波数が合うみたいにね。だから、私はその光と匂いに向かって、無我夢中で泳いだ。気づいたら、このキッチンのカウンターに立ってたってわけ」
晃次は自分の手を見つめた。
霊感など、生まれてこの方30年間、一度も感じたことはなかった。オカルトや心霊現象の類も全く信じていなかった。
だが、彼が内田李理香という女優に注いできた情熱と愛情は、本物だった。彼女の笑顔に救われ、彼女の活躍を自分のことのように喜び、そして彼女の死に、世界が終わるほどの絶望を感じた。
その純粋で強烈な「念」が、迷子になっていた彼女の魂を、この部屋に呼び寄せたのだ。
「……まさか、俺のオタクとしての執念が、君を現世に引き留めるアンテナになっていたなんてな」
「笑い事じゃないわよ。おかげで私、あんたから一定の距離以上離れられないみたいだし」
「えっ、そうなのか?」
「さっき、あんたが料理してる間にちょっと外の様子を見に行こうとして、玄関のドアをすり抜けて廊下に出たのよ。そしたら、急に体が水に溶けるみたいに薄くなって、意識が遠のきそうになったの。慌てて戻ってきたら治ったけど……たぶん、私を繋ぎ止めてる『バッテリー』があんたなんだと思う。あんたのそばにいないと、私は消えちゃうのよ」
自分が、彼女の命綱。
晃次はその事実に、重い責任と、そしてほんの少しの優越感を抱いた。自分は今、世界で唯一、彼女の存在を感じ、彼女を生かしている人間なのだ。
「……わかった。俺の部屋にいる限りは、君が消えないように全力でサポートする。推しを家に住まわせるなんて、オタクにとっては夢のような話だしな」
晃次が少し照れくさそうに笑うと、李理香は「ふふっ」と悪戯っぽく微笑んだ。
「ただ住まわせるだけじゃダメよ。あんたには、やってもらわなきゃいけないことがあるんだから」
「やってもらわなきゃいけないこと?」
「ええ」
李理香は表情を引き締め、ダイニングテーブルの真ん中までふわりと移動した。そして、晃次の目を真っ直ぐに見据えて、衝撃的な言葉を口にした。
「私、自分の死が『単なる不運な事故』だなんて、これっぽっちも思ってないの」
「……は?」
晃次の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「ニュースじゃ、セットの老朽化か、設営ミスによる崩落事故だって言ってたぞ。警察もその線で捜査してるって……」
「警察はそう判断するでしょうね。でも、さっき死んだって自覚してから思い出したの。あのセットの柱は、リハーサルの時は何の問題もなかった。でも、本番直前の休憩時間、誰もいないスタジオの隅で、怪しい人影が柱の根元で何かをゴソゴソやっていたのを見たわ。その後、私が柱の下に立った完璧なタイミングで、ボルトが弾け飛ぶような『パキンッ』って不自然な音がして……柱が倒れてきたのよ」
李理香の言葉に、部屋の空気が一気に冷え込んだように感じた。
「それって……つまり、誰かが意図的にセットを倒したってことか? 君を、狙って?」
「そう。私は殺されたのよ」
断言する李理香の声には、恐怖よりも強い『怒り』が込められていた。
「でも、なんで君が狙われるんだ? 誰かから恨みを買うようなトラブルでもあったのか?」
「私自身が誰かに恨まれてたわけじゃないと思う。ただ……『知っちゃいけないこと』を知っちゃったから、口封じされたのよ」
李理香は腕を組み、忌々しそうに舌打ちをした。
「数日前の夜、事務所の社長と、スポンサー企業の偉い人が、ホテルのラウンジで密会してるのを偶然聞いちゃったの。そこで彼らは、『広告費のキックバック』だの『裏帳簿の隠蔽』だのって、かなりヤバい話をしてたわ。私、それをスマートフォンのボイスレコーダーで録音したのよ。正義感ぶるわけじゃないけど、そんな汚いお金の動きで自分の仕事が回ってるのが許せなくて」
「録音……! それは決定的な証拠じゃないか」
「ええ。でも、その録音データが入った私のスマートフォンは、事故のドサクサで誰かに持ち去られたみたい。さっき幽霊だって自覚してから思い出したんだけど……体が潰された後、自分の意識が上からスタジオを見下ろすような不思議な感覚があったの。その時、あの人影が私のバッグからスマートフォンを抜き取るのが見えたわ」
晃次は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
国民的女優の死の裏に、そんな黒い陰謀が渦巻いていたなんて。
「だからね、上田晃次。あんたは私のオタクであり、ただのサラリーマンだけど……ある意味、私にとって一番の『適任者』なのよ」
「適任者……? 俺が?」
「ええ」
李理香は、すっと目を細めた。
「私の事務所の社長と密会して、裏金を作っていたスポンサー企業の偉い人。……それ、あんたの勤めてる『オリオンフーズ』の役員よ」
「なっ……!?」
晃次は絶句した。
オリオンフーズは、内田李理香を長年CMキャラクターとして起用している大口のスポンサーだ。確かに、役員クラスが彼女の所属事務所の社長と繋がりがあってもおかしくない。
だが、自分の勤める会社の人間が、彼女の死に関与しているかもしれないなどと、想像すらしていなかった。
「警察は事故で処理しようとしてる。このままじゃ、私はただの『運が悪かった可哀想な女優』として消費されて終わり。あいつらは、私を殺した事実を隠蔽して、のうのうと汚いお金で贅沢を続ける……そんなの、絶対に許せない!」
李理香の感情が高ぶるにつれ、部屋の空気がビリビリと震え始めた。
ダイニングのペンダントライトがチカチカと明滅し、キッチンの引き出しがカタカタと鳴り始める。
李理香自身は物理的に物に触れることはできない。しかし、彼女の強烈な感情の波が周囲の磁場に干渉し、ポルターガイスト現象を引き起こしているらしい。
「ちょ、ちょっと落ち着け! 李理香ちゃん! 電球が切れる!」
晃次が慌てて声をかけると、李理香はハッとして深呼吸をし、現象を収めた。
「ごめん、つい熱くなっちゃった。……とにかく、私はこのままじゃ絶対に成仏できないの。真犯人を突き止めて、あいつらの罪を白日の下に晒さない限り、絶対にね」
李理香はスッと右手を伸ばし、晃次の鼻先に半透明の指を突きつけた。
「だから、あんたに手伝ってもらうわ。私には実体がないから、物理的な証拠を集めたり、パソコンを操作したりできない。でも、あんたならオリオンフーズの内部に潜り込めるし、私が『幽霊の力』でサポートすることもできる」
「俺に……探偵みたいなことをしろって言うのか? 相手は会社の役員だぞ。平社員の俺がそんなことしたら、クビどころか、最悪俺も……」
晃次が躊躇すると、李理香はふっと、今度こそテレビで見るような「小悪魔的な天使の微笑み」を浮かべた。
「嫌とは言わせないわよ? あんた、さっき言ったわよね。『俺の部屋にいる限りは、全力でサポートする』って」
「それは、君が消えないように生活の面倒を見るって意味で……」
「同じことよ。私の無念を晴らしてくれなきゃ、私の魂はずっと苦しいままなんだから。ファンなら、推しの最後の願いを叶えるために、命懸けで働きなさい!」
有無を言わさぬ、強烈なトップダウンの命令。
生前の清楚なイメージからは想像もつかない、横暴でワガママな鬼上司の誕生だった。
しかし、晃次の心の中に不思議と嫌悪感はなかった。
むしろ、ニュースを見て絶望の底にいた数時間前の自分に比べれば、今の自分には明確な「生きる目的」が与えられている。
彼女の死の真相を暴く。彼女の無念を晴らす。
それは、一人のオタクとして、これ以上ないほど名誉な『推し活』ではないか。
「……わかったよ」
晃次はゆっくりと立ち上がり、半透明の李理香に向かって真っ直ぐに視線を返した。
「君が成仏できるその日まで、俺が君の手足になって働く。会社の闇だろうが、殺人犯だろうが、暴き出してやる」
「ふふっ、いい返事。言っとくけど、私、演技指導も仕事の要求も厳しいわよ? 覚悟しなさい」
「望むところだ、鬼上司」
幽霊になった国民的女優と、霊感ゼロの冴えないサラリーマン。
絶対に交わるはずのなかった二人の運命は、一杯のアラビアータと強烈な「念の波長」によって結びつき、ここに奇妙で騒がしく、そして少しだけ危険な『同居生活兼・未解決事件捜査』が、ついに動き出したのだった。
晃次はグラスに残っていた冷たい炭酸水を一気に飲み干し、ふう、と大きく息を吐き出した。額には唐辛子の強烈な辛味による汗が滲んでいる。
「あーあ、終わっちゃった。最後の一口、私が食べたかったなぁ……」
ダイニングテーブルの向かい側で、内田李理香の幽霊が恨めしそうに唇を尖らせていた。
彼女は物理的に食事をとることはできないが、晃次が一口食べるごとに「どう!? 今のニンニクの感じどう!?」「パンチェッタの脂、甘い!? 溶ける!?」と矢継ぎ早に質問を浴びせ、晃次がそれに全力の食レポで応えることで、疑似的な食事体験を楽しんでいた。
結果として、晃次はこれまで生きてきた30年間で最も騒がしく、最もカロリーを消費する夕食を終えたのだった。
「……君が食べられないんだから仕方ないだろ。それにしても、テレビで見ていた『妖精』のイメージと違いすぎて、俺はまだ頭が追いついてないよ」
晃次が苦笑しながら皿を下げる準備をしていると、李理香はふわりと空中に浮かび上がり、部屋の中を物珍しそうに漂い始めた。
そして、テーブルの端に置きっぱなしになっていた晃次のネームストラップ付きの社員証を、上からひょいと覗き込んだ。
「上田晃次……オリオンフーズ総務部。へえ、食品メーカーにお勤めなんだ」
李理香は社員証の文字を読み上げると、ふふん、と得意げに胸を張った。
「なら、テレビのイメージなんて、作られたパッケージみたいなものだってわかるでしょ? 中身が同じポテトチップスでも、パッケージが『ふんわり塩味』か『ドカンと濃厚ガーリック』かで、手に取る客層が変わるじゃない。私は事務所に『ふんわり塩味』のパッケージを着せられてただけ」
「なるほど、すごくわかりやすい例えだ……」
「でしょ? 中身は濃厚ガーリックなのよ、私」
白いワンピースがふわりと揺れるが、その向こう側にはやはり部屋の壁紙が透けて見えている。
彼女は壁に貼られた自分の巨大なポスターの前で立ち止まり、まじまじと見つめた。
「それにしても、見事なオタク部屋ね。この特大ポスター、雑誌の懸賞で100名にしか当たらないやつじゃない。あと、そこのガラスケースに入ってる写真集、なんで同じのが3冊もあるのよ?」
「……観賞用、保存用、布教用だ。基本だろ」
「30歳の独身サラリーマンが真顔で言うことじゃないわね」
李理香は呆れたように肩をすくめたが、その表情はどこか嬉しそうだった。
「でも、その『執念』のおかげで、私は今ここにいられるんだと思う」
ポスターから視線を外し、李理香はすっと真顔になって晃次を振り返った。
その声のトーンには、先ほどまでのふざけた響きはなくなっていた。
「さっき自分が『死んだ』って自覚してから、少しずつ記憶が整理されてきたの。私、自分が死んだ瞬間のこと、鮮明に思い出したわ」
李理香はゆっくりと床に降り立ち、両手で自分の細い腕を抱きしめた。
「上から重い鉄骨が落ちてきて……ドスンって、息の根が止まる音がして。視界が真っ暗になって、体がどんどん冷たくなっていった。ああ、これで全部終わりなんだって、暗闇の底に沈んでいくみたいだった」
晃次は黙って彼女の言葉に耳を傾けた。ニュースの無機質な報道では決してわからない、死の瞬間の生々しい恐怖。想像するだけで胸が締め付けられる。
「でも、私、どうしても納得がいかなかったの」
李理香のブラウンの瞳に、強い光が宿った。
「なんで私がこんなところで死ななきゃいけないの? やっと主演ドラマが決まって、これからもっと色んな役をやりたかったのに。恋愛だってまともにしたことないし、激辛のアラビアータだって、お腹いっぱい食べたかったのに! ふざけるな、まだ死ねない、こんなところで終わってたまるか……って、暗闇の中で必死に叫んだのよ」
彼女の強い無念。それは、魂が霧散してしまうのを繋ぎ止めるほどの、凄まじいエネルギーだったのだろう。
「そしたら、真っ暗な空間の遠くの方から、すごく温かくて、強い『引っ張る力』を感じたの。なんだろうと思ってそっちに意識を向けたら……強烈なニンニクと唐辛子の匂いがして、誰かが私の名前を呼びながら、わんわん泣いてる声が聞こえたのよ」
李理香は晃次を指差した。
「あんたよ。上田晃次。あんたの『李理香ちゃんを失いたくない』っていう強烈な推し活の念と、私の『まだ死ねない』っていう無念の波長が、あの瞬間、奇跡的にピタリと合っちゃったの。ラジオの周波数が合うみたいにね。だから、私はその光と匂いに向かって、無我夢中で泳いだ。気づいたら、このキッチンのカウンターに立ってたってわけ」
晃次は自分の手を見つめた。
霊感など、生まれてこの方30年間、一度も感じたことはなかった。オカルトや心霊現象の類も全く信じていなかった。
だが、彼が内田李理香という女優に注いできた情熱と愛情は、本物だった。彼女の笑顔に救われ、彼女の活躍を自分のことのように喜び、そして彼女の死に、世界が終わるほどの絶望を感じた。
その純粋で強烈な「念」が、迷子になっていた彼女の魂を、この部屋に呼び寄せたのだ。
「……まさか、俺のオタクとしての執念が、君を現世に引き留めるアンテナになっていたなんてな」
「笑い事じゃないわよ。おかげで私、あんたから一定の距離以上離れられないみたいだし」
「えっ、そうなのか?」
「さっき、あんたが料理してる間にちょっと外の様子を見に行こうとして、玄関のドアをすり抜けて廊下に出たのよ。そしたら、急に体が水に溶けるみたいに薄くなって、意識が遠のきそうになったの。慌てて戻ってきたら治ったけど……たぶん、私を繋ぎ止めてる『バッテリー』があんたなんだと思う。あんたのそばにいないと、私は消えちゃうのよ」
自分が、彼女の命綱。
晃次はその事実に、重い責任と、そしてほんの少しの優越感を抱いた。自分は今、世界で唯一、彼女の存在を感じ、彼女を生かしている人間なのだ。
「……わかった。俺の部屋にいる限りは、君が消えないように全力でサポートする。推しを家に住まわせるなんて、オタクにとっては夢のような話だしな」
晃次が少し照れくさそうに笑うと、李理香は「ふふっ」と悪戯っぽく微笑んだ。
「ただ住まわせるだけじゃダメよ。あんたには、やってもらわなきゃいけないことがあるんだから」
「やってもらわなきゃいけないこと?」
「ええ」
李理香は表情を引き締め、ダイニングテーブルの真ん中までふわりと移動した。そして、晃次の目を真っ直ぐに見据えて、衝撃的な言葉を口にした。
「私、自分の死が『単なる不運な事故』だなんて、これっぽっちも思ってないの」
「……は?」
晃次の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「ニュースじゃ、セットの老朽化か、設営ミスによる崩落事故だって言ってたぞ。警察もその線で捜査してるって……」
「警察はそう判断するでしょうね。でも、さっき死んだって自覚してから思い出したの。あのセットの柱は、リハーサルの時は何の問題もなかった。でも、本番直前の休憩時間、誰もいないスタジオの隅で、怪しい人影が柱の根元で何かをゴソゴソやっていたのを見たわ。その後、私が柱の下に立った完璧なタイミングで、ボルトが弾け飛ぶような『パキンッ』って不自然な音がして……柱が倒れてきたのよ」
李理香の言葉に、部屋の空気が一気に冷え込んだように感じた。
「それって……つまり、誰かが意図的にセットを倒したってことか? 君を、狙って?」
「そう。私は殺されたのよ」
断言する李理香の声には、恐怖よりも強い『怒り』が込められていた。
「でも、なんで君が狙われるんだ? 誰かから恨みを買うようなトラブルでもあったのか?」
「私自身が誰かに恨まれてたわけじゃないと思う。ただ……『知っちゃいけないこと』を知っちゃったから、口封じされたのよ」
李理香は腕を組み、忌々しそうに舌打ちをした。
「数日前の夜、事務所の社長と、スポンサー企業の偉い人が、ホテルのラウンジで密会してるのを偶然聞いちゃったの。そこで彼らは、『広告費のキックバック』だの『裏帳簿の隠蔽』だのって、かなりヤバい話をしてたわ。私、それをスマートフォンのボイスレコーダーで録音したのよ。正義感ぶるわけじゃないけど、そんな汚いお金の動きで自分の仕事が回ってるのが許せなくて」
「録音……! それは決定的な証拠じゃないか」
「ええ。でも、その録音データが入った私のスマートフォンは、事故のドサクサで誰かに持ち去られたみたい。さっき幽霊だって自覚してから思い出したんだけど……体が潰された後、自分の意識が上からスタジオを見下ろすような不思議な感覚があったの。その時、あの人影が私のバッグからスマートフォンを抜き取るのが見えたわ」
晃次は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
国民的女優の死の裏に、そんな黒い陰謀が渦巻いていたなんて。
「だからね、上田晃次。あんたは私のオタクであり、ただのサラリーマンだけど……ある意味、私にとって一番の『適任者』なのよ」
「適任者……? 俺が?」
「ええ」
李理香は、すっと目を細めた。
「私の事務所の社長と密会して、裏金を作っていたスポンサー企業の偉い人。……それ、あんたの勤めてる『オリオンフーズ』の役員よ」
「なっ……!?」
晃次は絶句した。
オリオンフーズは、内田李理香を長年CMキャラクターとして起用している大口のスポンサーだ。確かに、役員クラスが彼女の所属事務所の社長と繋がりがあってもおかしくない。
だが、自分の勤める会社の人間が、彼女の死に関与しているかもしれないなどと、想像すらしていなかった。
「警察は事故で処理しようとしてる。このままじゃ、私はただの『運が悪かった可哀想な女優』として消費されて終わり。あいつらは、私を殺した事実を隠蔽して、のうのうと汚いお金で贅沢を続ける……そんなの、絶対に許せない!」
李理香の感情が高ぶるにつれ、部屋の空気がビリビリと震え始めた。
ダイニングのペンダントライトがチカチカと明滅し、キッチンの引き出しがカタカタと鳴り始める。
李理香自身は物理的に物に触れることはできない。しかし、彼女の強烈な感情の波が周囲の磁場に干渉し、ポルターガイスト現象を引き起こしているらしい。
「ちょ、ちょっと落ち着け! 李理香ちゃん! 電球が切れる!」
晃次が慌てて声をかけると、李理香はハッとして深呼吸をし、現象を収めた。
「ごめん、つい熱くなっちゃった。……とにかく、私はこのままじゃ絶対に成仏できないの。真犯人を突き止めて、あいつらの罪を白日の下に晒さない限り、絶対にね」
李理香はスッと右手を伸ばし、晃次の鼻先に半透明の指を突きつけた。
「だから、あんたに手伝ってもらうわ。私には実体がないから、物理的な証拠を集めたり、パソコンを操作したりできない。でも、あんたならオリオンフーズの内部に潜り込めるし、私が『幽霊の力』でサポートすることもできる」
「俺に……探偵みたいなことをしろって言うのか? 相手は会社の役員だぞ。平社員の俺がそんなことしたら、クビどころか、最悪俺も……」
晃次が躊躇すると、李理香はふっと、今度こそテレビで見るような「小悪魔的な天使の微笑み」を浮かべた。
「嫌とは言わせないわよ? あんた、さっき言ったわよね。『俺の部屋にいる限りは、全力でサポートする』って」
「それは、君が消えないように生活の面倒を見るって意味で……」
「同じことよ。私の無念を晴らしてくれなきゃ、私の魂はずっと苦しいままなんだから。ファンなら、推しの最後の願いを叶えるために、命懸けで働きなさい!」
有無を言わさぬ、強烈なトップダウンの命令。
生前の清楚なイメージからは想像もつかない、横暴でワガママな鬼上司の誕生だった。
しかし、晃次の心の中に不思議と嫌悪感はなかった。
むしろ、ニュースを見て絶望の底にいた数時間前の自分に比べれば、今の自分には明確な「生きる目的」が与えられている。
彼女の死の真相を暴く。彼女の無念を晴らす。
それは、一人のオタクとして、これ以上ないほど名誉な『推し活』ではないか。
「……わかったよ」
晃次はゆっくりと立ち上がり、半透明の李理香に向かって真っ直ぐに視線を返した。
「君が成仏できるその日まで、俺が君の手足になって働く。会社の闇だろうが、殺人犯だろうが、暴き出してやる」
「ふふっ、いい返事。言っとくけど、私、演技指導も仕事の要求も厳しいわよ? 覚悟しなさい」
「望むところだ、鬼上司」
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