遺品整理士の最後のご馳走 〜三ツ星シェフは死者の台所に立つ〜

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第2話 美食家の隠し味と、銀の皿

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 前回の依頼を終えた九条とひまりのもとに、新たな依頼が舞い込む。場所は都心の超高級タワーマンション。亡くなったのは「現代の美食家」として知られた資産家だった。豪華なキッチンに残されていたのは、不釣り合いなほど大量の「安物のケチャップ」。

 現場に合流した特殊清掃員兼鑑定士、如月澪は、遺された一枚の「銀の皿」から、故人がひた隠しにしてきた孤独な過去を読み解く。



 東京の空を切り裂くようにそびえ立つ、西新宿の超高級タワーマンション。45階のペントハウス。

 オートロックを3つ抜けた先にあるその部屋は、生活感という言葉を拒絶していた。大理石の床、イタリア製の最高級ソファ、そして壁一面に飾られた現代アート。

 だが、その豪華絢爛な空間には、死後1週間が経過した独居老人の、冷たく重い沈黙が淀んでいた。



「……趣味の悪い部屋。金で買える最高の孤独を詰め込んだみたいですね」



 佐倉ひまりが、作業着の襟元をパタパタと仰ぎながら呟いた。

 28歳の彼女は、今日もその圧倒的な美貌を放っている。ポニーテールにまとめたブロンドの髪が、窓から差し込む陽光を受けて金糸のように輝き、現場の陰鬱な空気を華やかに塗り替えていく。ワークウェアの下に覗く四肢はしなやかで、作業着越しでもその抜群のプロポーションは隠しきれない。

 彼女は手慣れた様子でタブレットを操作し、室内の空間スキャンを始めた。



「ひまり、言葉を慎め。死者は耳を持たないが、遺品はすべてを聞いている」



 九条蓮が、低い、地響きのような声で嗜めた。

 42歳。屈強な背中。彼はリビングの贅沢な装飾には目もくれず、真っ直ぐにキッチンへと向かった。プロ仕様の最新鋭の厨房機器が並ぶそこは、まるでショールームのようだった。

 九条は、シンクの横に置かれた、たった一つの異質な存在に目を止めた。

 それは、使い古され、表面の銀メッキが剥げかかった「銀の皿」だった。



「……その皿、ただのガラクタではありませんね」



 背後から、ひやりとした氷の粒のような声が届いた。

 如月澪が、音もなくキッチンの入り口に立っていた。

 32歳。人離れした美貌。陶器のように真っ白な肌に、漆黒の長い髪。そして、何を見通しているのか分からない、憂いを帯びた大きな瞳。

 彼女はダークグレーのタイトな作業着を纏っているが、その佇まいは現場作業員というよりは、古城に住まう若き貴婦人のようだった。彼女がそこにいるだけで、温度が2、3度下がったような錯覚を覚える。



「澪か。……鑑定を頼む」

「ええ。……失礼します」



 澪は九条の横を通り抜け、銀の皿の前に立った。

 彼女が通り過ぎる瞬間、冷涼な白百合のような香りが九条とひまりの鼻をくすぐる。

 澪は、指先を保護する薄手の革手袋をはめた手で、壊れ物を扱うように皿に触れた。彼女が目を閉じると、長い睫毛が白い頬に影を落とす。その神秘的な光景に、ひまりさえも思わず息を呑んだ。



「これは……1970年代のイギリス製。安価な大量生産品です。この部屋の他の家具が数千万円するのに対し、この皿の価値は、骨董的にも美術的にもゼロに等しい」

「……だが、彼はこれだけを大切に磨き上げていた跡がある」

「ええ。この皿に刻まれた無数の傷。……それは、愛された記憶です。ボス、聞こえませんか? この皿が求めている、甘くて、少し酸っぱい匂いが」



 澪の瞳が九条を射抜く。

 九条は無言で頷き、キッチンのパントリーを開けた。

 そこには、1本数万円するヴィンテージワインや、最高級のトリュフオイルに混じって、スーパーで100円程度で売られている「業務用ケチャップ」の容器が、10本以上も整然と並べられていた。



「これだ。……これが、彼の『最後のご馳走』の鍵だ」



 依頼人は、故人の遠い親戚だという、品の良い老婦人だった。



「彼は『現代の美食家』と呼ばれ、世界中の美食を食べ尽くした人でした。それなのに、なぜ最後はこんな安物のケチャップばかり……」



 ひまりが、デジタル遺品を解析しながら割り込んだ。



「ボス、分かりました。故人のSNS……裏のアカウントです。50年前の写真が一枚だけアップされてます。画質は最悪ですけど、これ、ナポリの路地裏じゃないかな。……横に写ってる女性、すごく綺麗な人」



 九条はその画像と、澪が鑑定した「安物の皿」、そして「大量のケチャップ」を脳内で繋ぎ合わせた。



『痕跡のレシピ』。

 九条の脳内に、50年前の光景が鮮やかに再構築されていく。

 貧しかった若き日の彼。修行先を飛び出し、異国の地で飢えていた彼に、一人の女性が差し出した、たった一皿のパスタ。



「……ひまり、パスタと玉ねぎ、ピーマン、そして赤ウインナーを用意しろ。最高級のブランド豚ではなく、どこにでもある、安いウインナーだ」

「ええっ? ボス、まさかナポリタンを作る気? ここ、三ツ星レストランの厨房より凄い機材があるんですよ?」

「……道具は関係ない。彼が求めているのは、完璧な味ではなく、あの日の『記憶』だ」



 九条は、純白のコックコートに袖を通した。

 42歳の男の広い肩幅に、白布がぴたりと吸い付く。彼が包丁を握った瞬間、その場にいた全員が、空気が切り替わる音を聞いた。



 九条の動きは無駄がなかった。

 玉ねぎを薄く切り、ピーマンを細切りにする。安い赤ウインナーを斜めに切り落とす。

 その横で、澪は黙って銀の皿を磨き直していた。彼女の白い指先が皿の表面を滑るたび、50年分の汚れが落ち、くすんだ銀色が鈍い光を取り戻していく。

 ひまりは、そんな二人の姿をカメラに収めながら、不思議な高揚感を感じていた。

 圧倒的な力強さを持つ九条。静謐な美を体現する澪。そして、最新の技術で真実を暴く自分。

 この3人が揃えば、どんな死者の無念も救える気がした。



「ケチャップを焼く。……それが、この料理のすべてだ」



 九条はフライパンに大量のケチャップを投入した。

 常識的なシェフなら顔を顰めるような光景だが、九条は冷静だった。水分を飛ばし、酸味を飛ばし、糖分をキャラメリゼさせていく。キッチンに、濃厚で暴力的なまでに食欲をそそる、甘酸っぱい香りが立ち込める。



 茹で上がったパスタを投入し、一気に煽る。

 オレンジ色に輝くソースが、麺の一本一本に絡みつく。



「……澪。あの皿を」

「はい、ボス」



 澪が、磨き上げた銀の皿を九条に差し出した。

 九条はそこに、山盛りのナポリタンを盛り付けた。



 依頼人の老婦人が、震える手でフォークを取った。

 一口食べた瞬間、彼女の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。



「……ああ、これ。……和夫さんが、ずっと昔、私に一度だけ話してくれたことがありました。イタリアで、お金も夢も失くした時に、ある女性が作ってくれた、世界で一番贅沢な食べ物の話……」



 美食家として知られた男が、死の間際まで求めていたのは、高級食材のハーモニーではなかった。

 まだ何者でもなかった頃、自分を救ってくれた温もり。

 この100円のケチャップで作られたナポリタンこそが、彼の人生の原点であり、到達点だったのだ。



「……届いたようだな」



 九条は静かにそう言うと、コックコートを脱いだ。



 帰り道。

 タワーマンションの麓、3人は夜の新宿を歩いていた。



「ねえボス、今のナポリタン、私も食べたかったです」



 ひまりが九条の腕を掴み、上目遣いで覗き込む。彼女のブロンドが街灯に照らされ、夜の闇に美しく浮かび上がっている。その無邪気で誘うような眼差しに、すれ違う男たちが次々と振り返る。



「……材料は余っている。事務所に戻ったら作ってやる」

「やった! ボス、大好き!」



 ひまりが歓声を上げて九条の腕に抱きつく。



 その少し後ろを、澪が静かに歩いていた。

 彼女の漆黒の髪が夜風になびき、大きな瞳が都会のネオンを反射して、この世のものとは思えない神秘的な輝きを放っている。
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