ロスト・ファンタジスタ

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第3話 神の帰還と、一年前の約束

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 試合終了を告げる長いホイッスルが鳴り響いた瞬間、スタジアムは奇妙な熱狂に包まれていた。
 スコアは1対4。アズーロ八王子の惨敗だ。
 それでも、スタンドの観客たちが席を立とうとしないのは、彼らが「歴史」を目撃したからだった。負け試合のなかで放たれた、あのたった一発のシュート。それはJ2の、しかも引退する無名選手の放ったものとしてはあまりに場違いな、文字通り「世界一」の弾道だった。

 夜、八王子の路地裏。
 アズーロのチーム関係者や熱狂的なサポーターが夜な夜な集う居酒屋、『酒処・蒼』の暖簾が揺れていた。
 店主の源さんは、アズーロの創設以来のサポーターであり、今夜は店を貸し切りにして、一人の男の帰還を待っていた。

「さあ、みんな揃ったか! 今日は結果は散々だったが……あんなもんを見せられちゃ、湿っぽく終わるわけにはいかねえ。入坂悠作の20年間に、乾杯だ!」

 同僚のコーチがジョッキを高く掲げ、音頭を取る。

「悠作、お疲れさん! 最高の魔法だったぞ!」

 周囲から飛ぶ祝福と労いの声。だが、当の本人は、座敷の端で左足を不自然に投げ出したまま、少しだけ困ったような笑みを浮かべていた。

「ありがとうございます。でも、負け試合の戦犯を祝うのは、少し気が引けますね」

 悠作の言葉は、謙遜ではなかった。
 後半48分に放ったあの奇跡のゴール。スタジアム中を熱狂させた一撃の直後、代償はすぐに訪れた。着地した瞬間、左足の感覚が完全に消失したのだ。しびれが取れぬまま、続行された数分間。相手のカウンターに対し、悠作は一対一の守備を強いられた。
 全盛期の彼なら、影を踏ませることすらなくボールを奪い取れたはずの場面。だが、脳が命じた「反転」に、膝は一ミリも動かなかった。無様に転倒し、悠作の目の前を相手アタッカーが通り過ぎ、決定的な4点目が決まった。

(……ああ、やっぱり俺は、もう終わっているんだな)

 ゴールネットが揺れる音を聞きながら、悠作は芝生の上でそう痛感していた。世界一の才能を持っていても、それを支える器がなければ、フットボールは残酷なまでに成立しない。

「そんなこと言わないでくださいよ、悠作さん」

 隣に座っていた谷車一郎が、中学生とは思えないほど馴れ馴れしく、悠作の肩を叩いた。

「あのシュートは、100回見ても飽きないですよ。完全に神様が降りてました。……まあ、その後の守備の甘さは、ジュニアユースの連中がやったら僕がボロクソに言いますけどね。悠作さん、あそこで体投げ出しすぎなんですよ」

「手厳しいな、一郎。引退したその日にダメ出しされるとは思わなかった」

「当たり前ですよ。僕があなたの背中を追うって決めたんだから。不格好なところも見逃しません」

 生意気な口を叩く一郎の瞳には、それでも隠しきれない敬愛の念が溢れていた。
 その対面には、イングランドから駆けつけた恩師、ケビン・ファロンが座っていた。
 ケビンは、ジョッキを傾けながら、我が子を見つめるような慈愛に満ちた眼差しを悠作に向けている。

「Yusaku, listen. あのゴールは、マンチェスター・ユナイテッドでも、バルセロナでも見られないものだった。君の膝は確かに限界かもしれないが、君の魂は、今日この八王子の地でクライフを超えた。私は君のコーチだったことを、人生で最も誇りに思うよ」

 ケビンの温かい言葉に、悠作は胸が熱くなるのを感じた。

 ふと、店内の空気が一瞬だけ華やいだ。
 入り口から、二人の女性が入ってきたからだ。
 一人は、アズーロ八王子の社長、加納瑞穂。32歳。
 普段の仕事着であるタイトなスーツとは違い、今夜は柔らかな質感のニットとロングスカートを纏っている。プライベートの彼女は、仕事中よりもさらに女性らしい色香を放っており、店内の男性客たちが一斉に生唾を飲み込むのが分かった。知美人の彼女が、悠作の隣に座る。

「お疲れ様、悠作君。社長命令よ。今夜は思いっきり羽目を外していいわ」

 瑞穂の細い指が、悠作の肩に軽く触れる。
 そしてもう一人。彼女の後ろから、少し遠慮がちに現れたのは佐倉結衣だった。
 17歳の彼女は、春らしい薄手のワンピース姿。その瑞々しさと、思わず見惚れてしまうほどの「美少女」ぶりは、古びた居酒屋の空気には不釣り合いなほど眩しい。

「悠作さん、これ……お疲れ様の、お花です。あと、試合、本当に、本当にかっこよかったです」

 結衣の顔は、熟れたリンゴのように赤い。彼女の純粋な憧れは、悠作にとって何よりも救いだった。

 悠作は、目の前に運ばれてきた生ビールを見つめた。
 現役生活の間、身体をいたわるために一滴も口にしなかったアルコール。
 約1年ぶりとなるその黄金の液体を、ゆっくりと喉に流し込む。

「……うまい」

 思わず声が漏れた。
 五臓六腑に染み渡る苦味と刺激。それが、自分がもはやアスリートではないという、最も確かな証明のように感じられた。

「あーあ、世界一の天才が、そんな安ビールで幸せそうな顔してんじゃねえよ」

 聞き慣れた、粗野だが信頼に満ちた声が店内に響いた。
 入り口に立っていたのは、京滝菊雄だ。
 165センチの小柄な身体からは、現役J1戦士としての圧倒的なオーラが放たれている。野性味溢れるその姿は、居酒屋のサポーターたちの注目の的となった。

「菊雄。……来てくれたのか」

「当たり前だろ。親友の葬式……じゃなくて、引退式だ。見届けねえわけにいかねえ」

 菊雄はドカッと悠作の隣、一郎を追い出すようにして座り込んだ。
 そして、テーブルに置かれた悠作の足を、容赦なく指差す。

「さっきの一郎の意見に賛成だ。今日の試合、採点は『2点』だな」

「……厳しいな、相変わらず」

「当たり前だ。あのシュートだけなら200点だが、その後の失点シーンは何だ? あんな三流のフェイントに引っかかって、膝から崩れ落ちやがって。『反転スピードが耕運機以下』だ。あんな守備、俺が相手なら3回は股抜いてるぜ」

 菊雄の辛辣な言葉に、店内のサポーターたちがヒヤリとする。
 だが、悠作は否定できなかった。実際、あの時、自分の体はもはや自分の支配下に置けなかったのだ。膝の中で何かが弾け、神経が焼き切れるような感覚。言い訳はしたくないが、あれが限界だった。

「……ああ、その通りだ。情けないことに、立っているのが精一杯だったんだよ」

「わかってりゃいい。お前は世界一の才能を持ってたが、身体の作り込みは世界一じゃなかった。いや……壊れすぎちまったんだろうな。お前の苦労は、俺が一番近くで見てきたからよ」

 菊雄の瞳が、一瞬だけ湿ったように見えた。
 彼は悠作の空になったジョッキを奪い取り、店主に叫んだ。

「おやじ、一番高い酒持ってこい! 贅沢させてやるよ。この男はな、俺が人生で唯一、足元にも及ばないと思ったフットボーラーなんだ」

 その言葉に、店内の空気が変わった。
 現役の「10番」である菊雄にそこまで言わしめる男、入坂悠作。
 サポーターたちは、自分たちが応援してきた男の真の価値を、改めて噛み締めていた。

「悠作。お前は今日で『神様』から『ただの人間』に戻ったんだ」

 菊雄は、新しく運ばれてきた大ジョッキを悠作に突き出し、自分のジョッキを力強くぶつけた。

「ようこそ、人間の世界へ。そして……本当にお疲れ様。お前とボールを蹴れた20年間は、俺の宝物だ」

「……ありがとう、菊雄」

 二人のジョッキがぶつかり、冷たい飛沫が舞う。
 瑞穂は微笑みながらその様子を見守り、結衣は感極まったように目元を拭った。
 ケビンは、イングランドのパブでよく歌われるような陽気な歌を口ずさみ始め、一郎は必死に二人の会話をメモに取ろうとしている。

 外は、八王子の穏やかな夜。
 入坂悠作の、第2の人生が、ビールの泡とともに静かに幕を開けた。
 膝の痛みはまだ消えないが、不思議と心は軽かった。
 
 もう、走らなくてもいい。
 けれど、彼の中に刻まれた「世界一の感覚」は、形を変えて、次世代へと受け継がれていくことになるのだ。
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