通報窓口、ただいま炎上中

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地下室の執行人たち

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 東都テクノリンク本社ビル、地下2階。

 地上30階、クリスタルガラスに覆われた「技術立国ニッポン」の象徴とも言えるこのビルの足元に、華やかなショールームや、最先端のR&Dセンターとは無縁の場所がある。

 空調のダクトが剥き出しになり、常に低い唸り声を上げているその部屋――内部監査部・特命調査室。

 社内では密かに「掃き溜め」、あるいは「電子の墓場」と囁かれるその場所に、俺、葛石の新しい席はあった。



 かつては広報部のエースとして、新製品発表会でスポットライトを浴び、この国の技術力を世界に発信していた俺が、今や組織の「排泄物」を処理する役回りとは、運命の皮肉もいいところだ。

 配属されて2週間。俺の仕事は、社内に設置された『コンプライアンス・ホットライン』に届く、有象無象の密告を選別することだった。



「……またこれか」



 モニターに映し出されたメールを見つめ、俺は溜息をついた。



『上司の体臭がキツくて開発に集中できません』

『隣の部署が経費で高級弁当を頼んでいます』



 匿名という安全地帯から放たれる言葉は、時として正義ではなく、単なる鬱憤ばらしの礫となる。真実と虚偽、悲鳴と悪態が混ざり合ったヘドロの中から、たった一粒の半導体片――法的リスクのある重大案件――を見つけ出す。それが俺たちの仕事だ。



「ため息をつくと、室内の二酸化炭素濃度が上がります。思考効率が落ちるからやめて」



 部屋の奥、サーバーラックの隙間から、冷ややかな、それでいて鈴を転がしたような美しい声が飛んできた。

 積み上げられた旧型マザーボードの山から顔を覗かせたのは、この部署の先住者、入坂すずだ。



 彼女を見た瞬間、大概の男は息を呑むだろう。

 色素の薄いブラウンの髪は、あえて整えられていないのか、無造作なウェーブを描いて肩にかかっている。それがだらしないのではなく、フランス映画の女優のようなアンニュイな色気を醸し出していた。

 黒縁メガネの奥にある瞳は、驚くほど大きく、そして濡れている。まるで捨てられた子猫が雨の中で震えているような儚さを感じさせるが、その実、彼女が見ているのは獲物の喉笛だ。

 彼女は、「触れれば切れるような危うい美貌」を現代に蘇らせたような女だった。



「葛石さん、これを見て」



 すずは、細く長い指でキーボードを叩き、俺のモニターに一つのデータを転送してきた。彼女のデスクには、高級そうな輸入チョコレートの包み紙が散乱している。基板の焼ける匂いが微かにする部屋に、高カカオの香りが甘く漂った。



「第3開発部からの匿名通報。送信元は社内VPNを経由して偽装されているけれど、パケットの挙動とゲートウェイの通過ログを照合すれば、送信端末は特定できるわ」



 彼女は口元についたチョコレートのかけらを、無防備な仕草で指先で拭い取った。その所作一つとっても、どこか背徳的で、視線を釘付けにする磁力がある。

 俺は慌てて視線をモニターに戻した。



『件名:システム開発本部 第3開発部・谷車部長によるパワーハラスメント、および開発工数の不正計上について』



 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 谷車剛造。その名前は、俺にとって忘れることのできない楔だ。



「……谷車部長か」

「知っているの?」



 すずが、興味なさそうに、けれど鋭く問いかけてくる。



「ああ。俺が広報にいた頃、彼には何度も世話になったよ。……いや、世話をした、と言うべきか」



 3年前、自社クラウドサーバーの大規模障害で世間が騒いだ時、技術責任者として矢面に立ったのは谷車だった。俺は広報として彼を徹底的に守った。彼の独善的な開発体制を「カリスマによる迅速な決断」と言い換え、メディアの追及をかわし、彼を「改革の旗手」として演出したのだ。

 あの時、彼が裏でエンジニアを何人潰していたかを知りながら、俺は見ないふりをした。

 「東都テクノリンク」というブランドを守るために。



「ログを見た限り、第3開発部の稼働率は異常値を示しているわ。深夜帯のコミットログが多すぎる。でも、勤怠管理システム上の数字は定時退社ばかり。綺麗な数字ね。バグ一つない、完璧に捏造された仕様書みたいに」



 すずの比喩はいつも詩的で、残酷だ。

 その時、執務室の重い防火扉が音もなく開き、一人の男が入ってきた。

 室内の温度が、ふっと2度ほど下がった気がした。



「おや、既に嗅ぎつけましたか。さすがは『地下室のデバッガー』たちだ」



 合渡悠作。コンプライアンス統括部のエースであり、法務出身の切れ者だ。

 仕立ての良いチャコールグレーのスリーピースに身を包み、銀縁眼鏡の奥から理知的な光を放っている。工場の油の匂いなど微塵も感じさせないその姿は、英国紳士のように優雅だが、彼が手にしているのはステッキではなく、六法全書という名の処刑道具だ。



「合渡さん、コンプラ部にも届いていたんですか?」

「ええ。ただし、我々のルートではありません。下請法違反と労働安全衛生法違反を示唆する内容証明郵便が、役員宛に届きましてね。もはや社内だけのボヤ騒ぎでは済まされない」



 合渡は手にしたモンブランの万年筆を弄びながら、薄い唇を歪めた。



「相手はあの谷車剛造です。『成果主義の怪物』。生半可な証拠では、逆に名誉毀損や業務妨害で訴え返される。……葛石さん、貴方の出番ですよ」

「俺? 俺はただの窓際……」

「貴方は彼を知っている。彼の『正義』の形を理解している。違いますか?」



 合渡の視線が俺を射抜く。

 そうだ。俺は知っている。谷車という男が、単なる悪人ではないことを。彼は、自分が会社のために、そして日本の技術のために最善を尽くしていると信じて疑わない、もっとも厄介な種類の狂信者だ。

 かつて守った相手を、今度は告発する。

 胃のあたりが重くなるのを感じたが、俺は頷いた。



「……分かりました。それで、どう動くんですか?」

「正面突破です」



 合渡は涼しい顔で言った。



「名目は『全社的な開発プロセスおよび業務実態ヒアリング』。コンプライアンス部と内部監査部の合同調査という体裁で、第3開発部の定例進捗会議に潜入します」



 すずが、面白そうに目を細め、口元に飴を放り込んだ。



「バグ出しの時間ね」



 本社の25階、システム開発本部。

 エレベーターを降りた瞬間、地下とは異なる種類の重圧感が肌にまとわりついた。

 無機質なサーバーの排熱音、キーボードを叩く乾いた音、そして何十人ものエンジニアが発する焦燥感。それらが混ざり合い、息苦しいほどの密度を作っている。



 第3開発部の会議室。ガラス張りのその部屋は、水槽のようにフロアから丸見えだった。

 上座に座る男――谷車剛造は、52歳とは思えない若々しい肌艶と、捕食者のようなエネルギーを放っていた。イタリア製のストライプスーツを着こなし、白い歯を見せて笑っている。

 その笑顔は、一見すると頼れるプロジェクトリーダーのそれだ。しかし、俺には分かる。あれは、獲物を前にした獣の笑みだ。



「やあ、広報の……いや、今は監査の葛石くんだったね。久しぶりじゃないか」



 谷車は立ち上がり、大げさな動作で俺たちを迎えた。



「わざわざヒアリングだなんて、ご苦労なことだ。我々のプロジェクトは見ての通り、順調そのものだよ。ねえ、みんな?」



 彼が同意を求めると、長いテーブルに座った部下たちは、一斉に小さく頷いた。まるでプログラムされたロボットのように。誰一人として、谷車と目を合わせようとしない。

 その異様な光景に、背筋が寒くなる。



「ええ、進捗表上は順調そのものです。あまりに順調すぎて、不安になるほどに」



 すずが、空気を読まない発言を投下した。谷車の眉がピクリと動く。



「ハハハ、お嬢さんは数字がお好きなようだ。だがね、イノベーションを起こすのは数字じゃない。人間の情熱だよ」



 谷車は悠然と座り直し、手元のタブレットに目を落とした。

 そして、テーブルの末席に座っていた一人の若手社員に視線を向けた。



「そうだろう、門廻くん?」



 指名された青年――門廻湊は、びくりと肩を震わせた。

 痩せこけた頬、目の下の濃い隈。社給の作業着ではなく安っぽいスーツを着ているが、ヨレヨレで生気というものが感じられない。まるで嵐の中に立つ若木のように、今にも折れそうだった。



「は、はい……部長……」

「君、先週のモジュール修正、まだコミットされていないそうだね」



 谷車の声は優しかった。慈父のように穏やかで、しかし絶対的な響きを持っていた。



「君のために言っておくけれど、あの程度のコードも書けないなら、君はこのプロジェクトにとって『バグ』でしかないんだよ。分かるね?」



 会議室の空気が凍りついた。

 怒鳴り声ではない。だからこそ恐ろしい。

 谷車は笑顔のまま、言葉のナイフで門廻の内臓を抉りにかかっている。



「君は真面目だ。それは認める。だが、スペックが追いついていない。君が座っているその椅子、開発機材、君が吸っている空気……それら全てが、株主様への背任行為だと思わないか?」



「も、申し訳……ありません……」

「謝らなくていい。ただ、証明してくれればいいんだ。君が生きている価値を。今のままじゃ、君は不良品だ。廃棄されるべきエラーだ」



 門廻の手が震えている。握りしめられた拳は白く、爪が掌に食い込んでいた。

 サンドイッチ・テクニックの悪用。

 最初に「真面目だ」と褒め、次に人格と存在意義を否定し、最後に「期待」という名の呪いをかける。

 これが、谷車剛造のやり方だ。



 隣で合渡が、音もなく手帳にペンを走らせている。

 すずは、無表情で谷車を見つめている。その瞳孔が、猫のように開いていた。彼女の頭の中で、谷車の発言と過去のログが紐付けられ、真っ赤な警告色として可視化されているのが分かる。



 俺は、震える門廻の背中を見ながら、かつての自分を重ねていた。

 3年前、俺はこの男の笑顔を守るために嘘をついた。その結果が、この地獄だ。

 俺にも責任がある。

 だからこそ、終わらせなければならない。



「……谷車部長」



 俺は声を上げた。喉が渇いて、声が少し擦れた。



「今の発言、業務指導の範疇を超えていると捉えられますが」



 谷車がゆっくりと俺を見た。その目は、笑っていなかった。

 深淵のような暗い瞳が、俺を値踏みしている。



「ほう? 監査部というのは、現場のクリエイティビティ管理にまで口を出すようになったのかね、葛石くん」



 机の下で、俺は拳を握りしめた。

 開戦のゴングは鳴った。

 これはヒアリングではない。

 俺たち「地下室の執行人」と、「成果主義の怪物」との戦争だ。



 門廻が、助けを求めるように俺たちを見た。その目は絶望に染まっていたが、奥底にはまだ微かな光――エンジニアとしての矜持――が残っていた。

 その光を守るためなら、俺は何度でも悪者になろう。

 

 俺は、谷車の目を真っ直ぐに見つめ返し、静かに告げた。



「クリエイティビティではありません。これは、リスク管理です。……東都テクノリンクの未来のためのね」
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