通報窓口、ただいま炎上中

ken

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天空の断頭台

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 東都テクノリンク本社、最上階。

 役員専用の大会議室「オリンポス」。

 その名の通り、この場所は下界の喧騒から切り離された神々の座だ。

 窓の外には、薄暮に沈みゆく東京の摩天楼が広がっている。だが、その美しい景色を楽しむ者は、今のこの部屋には一人もいない。



 重厚なマホガニーの円卓を囲むのは、この国の製造業を牽引する重役たち。

 そして、その頂点に座る一人の女性――東鶴襟華。



 彼女は、まるでオペラハウスのボックス席で悲劇を鑑賞するかのように、優雅に脚を組んでいた。

 真珠色のシルクのスーツが、会議室の照明を浴びて艶やかに輝く。その美貌は、見る者を魅了し、同時にひれ伏させる圧倒的な気品を放っている。

 彼女の微笑みは、完璧だ。だが、その瞳の奥にあるのは、慈愛ではなく、絶対零度の計算式だ。



「……それで? 全ラインの停止ですって?」



 東鶴の声は、鈴を転がすように美しく、そして鞭のように鋭かった。

 彼女は手元のタブレット――全社員に送信された緊急招集通知が表示されている――を、汚いものを見るように指先で弾いた。



「葛石さん。貴方、自分が何をしたか分かっていて? 1分の停止で数千万円の損失が出るのよ。それを、貴方の一存で止めた。……これはもう、背任行為を超えてテロリズムだわ」



 私は、円卓の末席で立ち上がった。

 背後には、合渡悠作と入坂すず。そして、震える新方課長と、作業着のままの鴨飛田がいる。

 私たちは、泥だらけの野良犬の群れだ。だが、その牙は鋭い。



「テロではありません。緊急避難措置です」



 私は、工場の油の匂いが染み付いたままのスーツで、胸を張った。



「品質基準を満たしていない製品が、システム的な改ざんによって出荷されようとしていた。これを止めるのは、企業の社会的責任の基本です」



「改ざん? 証拠はあるのかね」



 東鶴の隣に座る京滝室長が、嗄れた声で口を挟んだ。

 彼は私と目を合わせようとしない。その手元の革手帳を、爪が白くなるほど強く握りしめている。



「証拠なら、ここにあります」



 すずが一歩前に出た。

 この重厚な会議室において、彼女の存在はあまりにも異質だった。

 淡いブルーのニットに、少し大きめのカーディガン。無造作にかき上げられた亜麻色の髪は、まるで森の妖精のようだが、その瞳は獲物を狙う猛禽類のように鋭い。

 彼女は、役員たちを睨みつけながら、口に含んでいた棒付きキャンディを抜き取り、タブレットを操作した。



「これが、工場のサーバーに残っていたバッチ処理のログです」



 巨大スクリーンに映し出されたのは、無機質な文字列の羅列。



「深夜3時。工場が無人になる時間帯を狙って、検査データのNGフラグを強制的にOKに書き換えるプログラムが実行されています。……使用されたアカウントは『窓口管理サブ』。内部監査部のシステムから、裏口経由で侵入した痕跡です」



 会議室がざわめいた。

 役員たちが顔を見合わせ、ヒソヒソと言葉を交わす。



「まさか、監査部が?」

「自作自演じゃないのか?」



「静粛に」



 東鶴が、指を一本立てただけで、場が静まり返った。

 彼女は興味深そうにスクリーンを見つめ、そして私を見た。



「つまり、こういうことかしら。内部監査部の管理下にあるアカウントを使って、誰かが不正を行った。……それなら、管理責任は貴方たちにあるのではなくて?」



 詭弁だ。

 だが、その論理のすり替えこそが、彼女の得意とする「政治」だった。



「管理責任の問題ではありません!」



 合渡が、六法全書を机に叩きつけるように置いた。



「問題は、この『窓口管理サブ』というアカウントが、過去の不正隠蔽にも使われていたという事実です。……東鶴副社長、貴方が以前、私に『窓口権限を寄越せ』と仰ったのは、このバックドアを確保し続けるためだったのではないですか?」



 合渡の追及は鋭かった。

 だが、東鶴は動じない。むしろ、その赤い唇を歪め、愉悦に浸るような笑みを浮かべた。



「合渡さん、貴方は優秀な法律家だけど……想像力が足りないわね」



 その時だった。

 会議室の空気を切り裂くような、電子音が鳴り響いた。

 それは、すずの持っているノートPCからの警告音だった。



 ピピピピピピピピ……!



「……なっ!?」



 すずが、血相を変えて画面を覗き込む。

 彼女の美しい顔が、瞬く間に蒼白になり、そして激しい怒りに染まっていく。

 あんなに取り乱した彼女を見るのは、初めてだった。



「どうした、入坂!」

「切られた……! 接続が、強制遮断された!」



 すずは、狂ったようにキーボードを叩いた。

 カチャカチャカチャッ! その音は悲鳴のようだった。



「管理権限が剥奪されていく……! 監査ログ、通報データベース、システム設定……全部、ロックアウトされた!」



 スクリーンに映っていたログ画面が、プツンと消えた。

 代わりに表示されたのは、真っ赤な背景に、無機質な白い文字。



 【システム通知】

 【内部通報管理システムの管理者権限は、リスク管理委員会へ移管されました】

 【理由:現管理者による不正利用の疑義および緊急保全措置のため】



 私は、愕然として東鶴を見た。

 彼女は、まるで午後のティータイムを楽しむかのように、手元のタブレットを操作していた。その指先が、画面上の「実行」ボタンから離れたところだった。



「……言ったでしょう? 貴方たちには管理能力がないって」



 東鶴は、甘く囁いた。



「監査部のアカウントが悪用され、工場を混乱させた。これは重大なセキュリティインシデントよ。だから、私が直轄するリスク管理委員会で、システムを一時的に『保護』することにしました」



「保護だと……ふざけるな!」



 私が叫ぶと、彼女は冷ややかな視線を返した。



「言葉を慎みなさい、葛石次長。これは取締役会の承認を得た、正式な決定よ」



 彼女は、最初からこの瞬間を狙っていたのだ。

 私たちが騒ぎを起こし、全ラインを停止させたその隙を突いて、「混乱の収拾」という大義名分のもとに、システムの全権を奪い取る。

 これで、通報ログも、改ざんの証拠も、すべて彼女の手の中だ。

 もはや、証拠隠滅は秒読み段階に入った。



「さて」



 東鶴は立ち上がり、窓際に歩み寄った。



「システムの安全は確保されたわ。次は、生産の復旧ね。……京滝室長、ラインの再稼働を指示して」



「は、はい……!」



 京滝が、弾かれたようにスマホを取り出した。



「待ってください!」



 鴨飛田が叫んだ。



「まだ原因は特定できていない! 不良品が混入している可能性があるんです! このまま動かせば……!」



「黙りなさい、現場の人間が」



 東鶴の一喝。

 その声には、有無を言わせぬ絶対的な権力が宿っていた。



「不良品? それは貴方たちの管理ミスでしょう? 検査を強化して、不良品を弾きなさい。システムは正常に戻したわ。これ以上、会社の利益を損なうなら……分かっているわね?」



 脅し。

 生活を、人生を人質に取った、究極のパワハラ。

 鴨飛田は唇を噛み締め、悔し涙を溜めて俯いた。新方課長は、恐怖で震えが止まらない。



 終わりだ。

 システムを奪われ、証拠を握りつぶされ、現場は再び地獄のデスマーチに戻される。

 私たちは敗北したのか?

 この巨大な悪意の前に、ひれ伏すしかないのか?



 いや。

 違う。

 私の脳裏に、かつての自分がよぎった。

 広報部時代、会社の嘘を守るために、笑顔でカメラの前に立った自分。

 あの時の自分を殺すために、私はこの地下室に来たはずだ。



 私は、胸ポケットからスマートフォンを取り出した。

 そして、画面に表示された「ある連絡先」を、東鶴に見えるように掲げた。



「……東鶴副社長」



 私の声は、不思議なくらい落ち着いていた。



「ラインを動かすなら、動かせばいい。ただし、そのスイッチを押した瞬間、私は通話ボタンを押します」



 東鶴が、怪訝そうに眉をひそめた。



「誰にかけるつもり?」



「大手新聞社の社会部デスク。……それと、証券取引等監視委員会のホットラインです」



 会議室の空気が、凍りついた。

 京滝が、スマホを持つ手を止める。



「……何ですって?」



 東鶴の完璧な笑顔が、初めて崩れた。



「聞こえませんでしたか? 内部告発ですよ」



 私は一歩、彼女に近づいた。



「今、私の手元には、すずが保全した改ざんログのコピーがあります。そして、ここには現場の証人たちがいる。……これらを全て、外部のメディアと監督官庁に提供します」



「……本気? 守秘義務違反で訴えられるわよ。貴方の人生は終わりよ」



 東鶴の声が低くなる。脅しではない、殺意を含んだ警告だ。



「ええ、終わるでしょうね」



 私は笑った。自嘲気味に、しかし清々しく。



「懲戒解雇、損害賠償請求、あるいは刑事告訴。……上等です。私の人生ひとつで、この腐った組織の膿が出せるなら、安いものだ」



 私は、隣にいる仲間たちを見た。

 合渡は、呆れたように、しかし満足げに眼鏡を押し上げた。



「……やれやれ。私の弁護が必要になりそうですね、葛石さん。報酬は高いですよ」



 すずは、PCを抱きしめたまま、ニヤリと笑った。その瞳には、再び反逆の炎が宿っている。「いいわね。心中するなら、派手にやりましょう」



 私は再び、東鶴に向き直った。



「取引はしません。これは最後通告です」



 私の指が、通話ボタンの上に置かれる。



「出荷停止を継続し、第三者委員会による調査を受け入れるか。……それとも、明日の朝刊一面を『東都テクノリンク、組織ぐるみでデータ改ざん』という見出しで飾るか。今すぐ、決めてください」



 東鶴は、私を睨みつけた。

 その瞳は、もはや貴婦人のものではない。追い詰められた猛獣のそれだ。

 沈黙が続く。

 永遠にも思える数秒間。

 窓の外では、夜が始まろうとしていた。

 だが、ここにあるのは闇ではない。

 私たちが灯した、消えることのない火種だ。



 さあ、選べ。

 破滅か、浄化か。

 私の指に力が込もる。

 地下室の野良犬が、女王の喉元に牙を突き立てた瞬間だった。
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