深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件

ken

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第2章:正体バレと秘密の共有

第17話 午前0時のコインランドリー

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 梅雨入りした東京は、朝からしとしとと雨が降り続いていた。
 湿気を帯びた夜風が、窓ガラスを叩いている。

 金曜日の深夜23時。
 俺は、自宅のキッチンで「黒いペースト」と対峙していた。
 愛犬レオは、雨の日の散歩が短かったせいか少し不満げだったが、今は遊び疲れてケージの中で丸まっている。

「さて……雨の夜には、少しクセのある味が欲しくなるな」

 俺が手に取ったのは、イギリス生まれの発酵食品『マーマイト』の瓶だ。
 ビールの醸造過程で出る酵母を主原料とした、強烈な塩味と独特の風味を持つペースト。

 「好きか嫌いか」の二択しかないと言われるこの食材を、俺は愛している。

 今夜のメニューは、『究極のマーマイト・バタートースト』だ。

 まず、食パンは厚切りの4枚切りを選ぶ。
 表面に格子状の切れ込みを入れる。こうすることで、バターとマーマイトがパンの芯まで染み込むのだ。
 トースターに入れ、まずは低温でじっくりと水分を飛ばす。
 表面が狐色になる直前で取り出す。

「ここからが勝負だ」

 熱々のパンに、室温に戻しておいた無塩バターをたっぷりと塗る。
 溶けたバターが切れ込みに吸い込まれていく。
 そして、主役の登場だ。
 ナイフの先にマーマイトを少しだけ取る。これくらいで十分だ。塗りすぎると塩辛くて食べられなくなる。
 バターの上から、薄く、均一に、フィルムを貼るように塗り広げていく。
 黄金色のバターと、漆黒のマーマイトが混ざり合い、琥珀色のマーブル模様を描く。

 仕上げに、もう一度トースターへ。
 高温で1分。
 香ばしい発酵臭と、バターの甘い香りが立ち上る。

「……完成」

 皿に乗せると、カリッと焼けた表面が艶やかに光っている。
 これに合わせるペアリングは、『シークヮーサー・ジュース』だ。
 沖縄産の原液を炭酸水で割り、氷を浮かべる。
 マーマイトの強烈な塩気とコクを、シークヮーサーの鋭い酸味と苦味が洗い流し、次の一口を誘うのだ。

「いただきます」

 俺はトーストを齧った。
 サクッ。ジュワッ。
 口の中に広がる、バターの暴力的なコクと、マーマイトの深い旨味。
 塩辛い。でも、美味い。
 味噌や醤油にも通じる発酵の風味が、日本人のDNAを刺激する。

 そこに、シークヮーサー・ソーダを流し込む。
 シュワワ……。
 柑橘の爽快感が、濃厚な後味を一瞬でリセットする。

「……最高だ」

 一人で楽しむ、通好みの夜食。
 誰にも邪魔されない至福の時間――のはずだった。

 ブーッ。ブーッ。
 テーブルの上のスマホが震えた。
 画面には『迷い猫』の文字。
 こんな時間に?

「……もしもし?」

『……師匠。助けて』

 電話の向こうから聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうな彼女の声だった。

『洗濯機が……死んだわ』

 深夜24時30分。
 俺は大きなランドリーバッグを抱えた李雪と共に、コインランドリーの自動ドアをくぐった。
 外は本降りの雨だ。

「……災難でしたね」

「本当よ。回し始めた途端に『ガガガッ』って凄い音がして……水浸しよ」

 彼女は肩を落としている。
 今日の服装は、いつもの芋ジャージではなく、グレーのスウェットパーカーにロングスカートという、少しだけ「外行き」を意識した部屋着だ。
 髪も下ろしており、濡れた毛先が色っぽい。
 すっぴんに黒縁メガネをかけている。

「まあ、乾燥まで一気にできると思えば、手間が省けたと思いましょう」

 俺は手慣れた様子で洗濯機を操作し、彼女の洗濯物を放り込んだ。
 洗剤は自動投入。コースを選んで、コインを入れる。
 ゴウン……と低い音がして、ドラムが回り始めた。

「終了まで40分ですね」

「……40分。長いのね」

「待ってる間に、少し温まりましょうか」

 俺は持参した保温バッグを開いた。
 中から取り出したのは、来る途中のコンビニで買ってきた『冷凍たこ焼き』だ。
 店のレンジで温めてあるので、まだ熱々だ。
 そして、俺愛用の魔法瓶。

「……たこ焼き?」

「ただのたこ焼きじゃありません。……これを使ってください」

 俺は紙コップを二つ取り出し、魔法瓶の中身を注いだ。
 湯気と共に、ふわりと上品な香りが漂う。
 黄金色の液体。

 『白だし』の特製スープだ。昆布と鰹の出汁に、三つ葉を散らしてある。

「……お出汁?」

「はい。たこ焼きをこの出汁に浸して食べるんです。『明石焼き風』アレンジですよ」

 李雪は目を丸くし、それから嬉しそうに割り箸を割った。
 たこ焼きを一つ摘み、出汁の中にポチャンと落とす。
 ソースのかかっていないプレーンなたこ焼きが、出汁を吸ってふっくらと膨らむ。

「……いただきます」

 彼女は熱々のそれを、ハフハフしながら口に運んだ。
 とろりとした生地と、染み出した出汁の旨味。

「……んっ! 優しい……!」

 彼女が感嘆の声を漏らす。

「ソース味もいいけど、このお出汁……五臓六腑に染み渡るわね。雨で冷えた体にちょうどいい」

「でしょう? 梅雨時の重だるい夜には、こういう優しい味が一番です」

 俺も一つ食べる。
 冷凍食品とは思えない、料亭のような味わい。
 俺がさっき食べたマーマイトトーストが「攻め」の味なら、これは完全なる「癒やし」の味だ。

 俺たちはコインランドリーの長ベンチに並んで座り、雨音と洗濯機の回る音を聞きながら、ゆっくりとたこ焼きをつついた。
 店内には俺たち以外、誰もいない。
 蛍光灯の白い光と、ぐるぐると回る洗濯物。
 単調なリズムが、不思議な心地よさを生み出している。

「……ねえ、師匠」

「はい」

「なんか、こういうの……いいわね」

 彼女は出汁を少し啜り、ぽつりと言った。

「何も生産的なことをしていない時間。ただ、洗濯が終わるのを待っているだけの時間。……普段の私なら『無駄』って切り捨ててるはずなのに」

 彼女は毎日、分刻みのスケジュールで動いている。
 効率化、最適化、生産性。
 そんな言葉に追われる彼女にとって、この「空白の40分」は、本来なら耐え難い退屈なはずだ。

「無駄こそが、最高の贅沢なんですよ」

 俺は答えた。

「何もしなくていい。何も考えなくていい。……ただ、雨音を聞いて、美味しいものを食べる。それだけで十分じゃないですか」

「……そうね。貴方といると、私の価値観、どんどん崩されていくわ」

 彼女は苦笑し、そして少しだけ体を傾けてきた。
 俺の肩に、彼女の頭が触れる。
 柔らかい重み。シャンプーの香り。

 俺は動かなかった。
 受け入れるように、少しだけ背筋を伸ばす。
 これが、俺たちの新しい距離感だ。
 恋人というには静かすぎで、同僚というには近すぎる。
 名前のない、心地よい関係。

 彼女はそのまま、ウトウトし始めたようだ。
 温かい出汁と、安心できる場所が、彼女の睡魔を誘ったのだろう。
 規則的なドラムの回転音が、子守唄のように響く。

「……ねえ」

 半分夢の中のような、とろんとした声が聞こえた。

「……ん?」

「……このまま、朝まで回ってればいいのに」

 その言葉に、俺の心臓がトクンと跳ねた。
 洗濯機のことか。それとも、この時間のことを言っているのか。
 どちらにせよ、それは彼女なりの精一杯のデレだった。

「……そうですね。でも、40分は意外と長いですよ」

 俺は優しく返した。
 彼女は「ふふ」と小さく笑い、さらに深く俺に寄りかかってきた。
 俺は自分のパーカーを脱いで、彼女の膝にかけてやった。

 窓の外では、雨が降り続いている。
 世界から切り離されたような、二人だけの箱庭。
 マーマイトの刺激的な余韻はもう消え、今はただ、出汁の優しい香りと、隣の彼女の体温だけが、俺の心を満たしていた。

 洗濯が終わるブザーが鳴るまで、あと30分。
 俺は、この「何もしない贅沢」を、一秒たりとも逃さずに味わおうと決めた。
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