社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~

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【第1章】 社畜、悪魔と契約する

第1話: 深夜0時の訪問者

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 カカタ、カカタ、ッターン。
 無機質な打鍵音だけが、深夜のオフィスに響いていた。

 東京都港区、六本木の一角にそびえ立つ高層ビル。その24階にある「株式会社ネクスト・イノベーション・ソリューションズ」――名前だけは立派なこのIT企業のオフィスは、今、死の静寂に包まれている。

 時刻は23時58分。
 窓の外には、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景が広がっているはずだ。だが、今の俺の目には、モニターに表示される終わりのないエラーログと、チャットツールに次々と湧いてくる上司からの罵倒メッセージしか映っていない。

『おい遠藤、またバグ出てるぞ。どうなってんだ』
『納期明日だぞ? 寝言言ってねえで手を動かせ』
『これだからゆとりは』

 チャットの通知音が鳴るたびに、胃の腑が締め上げられるような痛みに襲われる。
 俺の名前は遠藤悟。今日で――いや、あと2分足らずで30歳になる、しがないシステムエンジニアだ。

 入社して8年。最初は希望に燃えていた。
 いつか世界を変えるようなサービスを作りたい。そんな青臭い夢は、入社3ヶ月で塵と消えた。
 待っていたのは、月200時間を超えるサービス残業、上司からの人格否定、そして終わりのないデスマーチ。同期は全員辞めた。メンタルを病んで田舎に帰った奴もいれば、音信不通になった奴もいる。
 残ったのは、逃げ遅れた俺だけだ。

「……帰りたい」

 乾いた唇から、無意識に本音が漏れた。
 帰りたい。でも、帰れない。
 今帰ったら、明日の朝礼で何を言われるか分からない。損害賠償を請求すると脅されるかもしれない。お前のせいでプロジェクトが失敗したと、全社員の前で吊るし上げられるかもしれない。

 恐怖が、俺の思考を支配していた。
 辞めたい。辞められない。
 その無限ループを繰り返し、心も体もすり減らしてきた。

 ふと、デスクの隅に置いてあるコンビニのおにぎりに目をやった。消費期限は昨日の昼で切れている。そういえば、最後にまともな食事をしたのはいつだったか。3日前、家に帰ってシャワーを浴びた時に食べたカップ麺か?
 鏡を見ていないから分からないが、今の俺は酷い顔をしているだろう。かつて大学時代には「イケメン」ともてはやされ、モデルのスカウトを受けたこともあったなんて、もはや前世の記憶のようだ。今の俺は、ただのゾンビだ。

 23時59分。
 スマートフォンの時計表示が変わる。

「……誕生日、おめでとう。俺」

 誰もいないオフィスで、小さく呟く。
 まさか人生の節目をこんな場所で、カフェイン錠剤をかじりながら迎えることになるとは思わなかった。

 その時だった。

 ピコン。
 チャットツールが新たな通知を吐き出した。送信者は、通称「破壊王」と呼ばれるパワハラ部長の権田だ。

『遠藤、今すぐ部長室に来い。修正案が気に入らん』

 深夜0時直前だぞ?
 この人は会社に住んでいるのか?
 いや、そもそも俺がこの修正案を出したのは3時間前だ。今まで何をしていたんだ。

 理不尽への怒りよりも先に、条件反射で体が動いた。「はい」と返信を打ち込み、フラフラと立ち上がる。
 視界がぐらりと揺れた。
 ああ、これはまずい。
 天井の蛍光灯が、やけに白く、眩しく見える。
 心臓の鼓動が早くなる。息が苦しい。

(このまま倒れたら、楽になれるのかな)

 そんな危険な思考が頭をよぎった瞬間――。

 カッ……ドォンッ!!

 鋭い閃光と同時に、短く重い破裂音が響いた。

「うわぁっ!?」

 俺は爆風に煽られ、床に転がった。
 何だ? ガス爆発か?
 舞い上がる書類。粉々になったガラス片が、きらきらと光りながら降り注ぐ。
 一瞬の静寂の後、ヒュウウウウウウッという凄まじい風切り音が室内に響き渡った。気圧差で強烈なビル風が吹き込んできたのだ。

 ジリリリリリリリッ!
 間髪入れず、非常ベルがけたたましく鳴り響く。

 俺は腕で顔を庇いながら、音のした方――窓際へと視線を向けた。
 そこには、信じられない光景があった。

 24階の一角、人間が一人通れるほどのサイズで、窓ガラスがきれいに消失している。
 そして、その窓枠に。
 一人の女が立っていた。

 夜風に煽られ、黒いロングコートがバサバサと音を立てて激しく翻る。
 逆光で表情は見えないが、そのシルエットは異様なほど美しく、そして現実離れしていた。
 彼女は24階の窓枠から、まるで階段を一段降りるかのような軽やかさで、オフィスの床に着地した。

 カツン、とヒールの音が響く。
 硝煙が晴れ、その姿が露わになる。

 息を飲むような美女だった。
 年齢は俺と同じくらいだろうか。大きな瞳は吸い込まれそうなほど深く、意志の強さを宿している。整った顔立ちは、映画のスクリーンの中にしか存在しないような完璧な造形美だ。
 だが、何よりも異様なのは、彼女が手にしているものだった。

 右手に、黒光りする特殊警棒。
 左手に、分厚いジュラルミンケース。

 廊下の向こうから、「なんだ今の音は!」「テロか!?」という怒号と、ドタドタと走る複数の足音が近づいてくるのが聞こえる。
 だが、彼女はそんな騒ぎなど気にも留めず、無造作に歩み寄ると、床にへたり込んでいる俺を見下ろした。
 そして、腕時計を一瞥する。

「ターゲット確認。遠藤悟、30歳。職業、社畜」

 美しい声だった。だが、そこには一切の感情がない。まるで機械がデータを読み上げているようだ。

「……は、はい?」

 俺が間抜けな声を上げると、彼女はふっと口元を緩めた。それは微笑みというよりは、獲物を見つけた肉食獣の笑みに近かった。

「間に合ったわね。現在時刻、0時00分05秒」

 彼女は俺の胸倉を掴み上げると、至近距離で瞳を覗き込んできた。

「日付が変わった。お前をこの監獄から解放しに来たわ」

「か、監獄? 解放?」
「ええ。作戦名『ハッピー・バースデー・トゥー・ヘル』。依頼主は……3日前のあんた自身よ」

 依頼主?
 3日前の俺?

 記憶の糸を手繰り寄せる。
 そうだ。3日前、まともな食事も摂れず、意識が朦朧とする中で、ネットで見つけた怪しいサイトに書き込みをした気がする。

 『もう死にたい。誰かここから出してくれ』
 『誕生日に絶対に辞めさせてくれるなら、魂だって売る』

 そんな、半ば遺書のような書き込みを。

「さあ、行くわよ」

 バン! と乱暴にドアが開いたのは、ほぼ同時だった。

「おい遠藤! 今の音は何だ! 何サボって遊んでやがる!」

 現れたのは、部長の権田だった。
 プロレスラーのような巨躯に、脂ぎった顔。手にはゴルフのアイアンクラブが握られている。爆発音を聞いて飛んできたのだろう、肩で息をしているが、その目は怒りで血走っている。
 権田は、吹き飛んだ窓と、吹き荒れる風、そして見知らぬ美女を見て、一瞬呆気にとられたが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

「なんだ貴様は! 不法侵入だぞ! 警察を呼ぶぞ!」
「……チッ。ボスキャラのお出ましね。指向性爆薬で音は抑えたつもりだったんだけど、耳ざとい豚ね」

 女は鬱陶しそうに舌打ちをした。
 権田がアイアンクラブを振り上げ、俺たちの方へ迫ってくる。

「遠藤! お前、産業スパイでも引き入れたのか!? ただで済むと思うなよ! 損害賠償だ! 懲戒解雇だ! この業界で二度と働けないようにしてやる!」

 いつもの脅し文句。
 いつもなら、この言葉を聞くだけで震え上がり、土下座をしていただろう。
 だが、今日の俺には、目の前に謎の女がいる。

「……ねえ、サトル」

 彼女は、まるで長年の恋人のように、俺を名前で呼んだ。

「あいつが、あんたを縛り付けている鎖?」
「え……あ、はい。権田部長です。僕の上司で……」
「オーケー。承認プロセス完了」

 彼女はジュラルミンケースを床に置くと、ゆらりと権田に向かって歩き出した。

「な、なんだ貴様! 女だと思って手加減すると――」

 権田がクラブを振り下ろそうとした、その刹那。
 視界がブレた。

 ヒュンッ!

 風を切る音と共に、彼女の姿が消えた。
 次の瞬間、彼女は権田の懐に潜り込んでいた。

「ガッ……!?」

 鳩尾に強烈な掌底。
 権田の巨体が、くの字に折れ曲がる。
 彼女はそのまま流れるような動作で権田の腕を取り、関節を極めながら床にねじ伏せた。アイアンクラブがカランと虚しい音を立てて転がる。

「痛い痛い痛い! 折れる! 俺の腕が!」
「うるさい。静かにしなさい。今は神聖な退職の儀式の最中よ」

 彼女は冷徹に言い放つと、ジャケットの内ポケットから何かを取り出した。
 それは、一見するとただの白い封筒に見えた。
 だが、その厚みと光沢が異常だった。

「これより、退職届を提出する」

 彼女はそう宣言すると、床に這いつくばる権田の目の前に、その封筒をかざした。

「受領しなさい」
「ふ、ふざけるな! 誰が認めるか! 今のプロジェクトが終わるまでは絶対に辞めさせん! 契約違反だ!」
「契約? 労働基準法第5条、強制労働の禁止。第36条違反の長時間労働。未払い賃金は概算で800万円オーバー。……契約違反をしているのは、どっちかしら?」

 彼女はスラスラと法律用語を並べ立てる。その知識量と、暴力的なまでの制圧力のギャップに、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

「それに、これを見てもまだ『認めない』なんて言える?」

 彼女は封筒から中身を取り出した。
 それは紙ではなかった。
 鈍い銀色の輝きを放つ、一枚の金属板。
 表面には、レーザー刻印で『退職届』の文字と、俺の名前、そして本日の日付が彫り込まれている。

「こ、これは……?」
「ダマスカス鋼製よ。3日前の依頼と同時に特注して、さっき完成したばかり」

 ダマスカス鋼!?
 古代インドで作られていたという、伝説の鋼材?
 なぜそんな素材で退職届を?

「受け取らないと言うなら……こうするまでよ」

 彼女は金属板を振り上げると、権田の顔の横――フローリングの床に向かって、全力で振り下ろした。

 ズガンッ!!

 凄まじい音が響き、床板が爆ぜた。
 金属製の退職届は、床を貫き、コンクリートの基礎にまで食い込んで直立している。
 権田の鼻先、わずか数センチの距離だ。
 権田は白目を剥き、恐怖で声を失っている。股間あたりから、じわりと湿ったシミが広がっていくのが見えた。

「……受理、されたようね」

 彼女は満足げに頷くと、俺の方を振り返った。
 風に舞う書類と埃の中で、彼女はニカっと笑った。先ほどの冷徹さが嘘のような、悪戯っ子のような笑顔だった。

「さあ、行くわよサトル。荷物は?」
「え、あ、荷物……パソコンとか……」
「いらない。そんなゴミは置いていきなさい」
「でも、引継ぎ資料が……」
「引継ぎ? あんたが死ぬほど働いて作ったシステムでしょ? あんたがいなくなって困るなら、それは会社の責任よ」

 彼女の言葉は乱暴だったが、不思議と俺の胸の奥深くに突き刺さった。
 会社の責任。
 そうか。俺が背負わなくていい荷物まで、俺はずっと背負わされていたのか。

 彼女は俺の手首を掴んだ。その手は驚くほど熱かった。

「ここから先は、あんたの人生よ。一秒たりとも、あんな奴らにくれてやる必要はない」

 彼女は力強く俺を引っ張る。
 だが、俺の足は限界だった。立ち上がろうとした瞬間、膝から力が抜け、ガクンと崩れ落ちる。

「あ、足が……動かない……」

 極度の緊張と栄養失調、そして突然の事態に脳の処理が追いつかない。視界が明滅し、吐き気がこみ上げてくる。
 そんな俺を見て、彼女はため息をついた。

「チッ、世話が焼けるわね。……舌、噛まないようにしなさいよ!」

 彼女は俺の襟首を掴むと、まるで米袋か何かのように軽々と引きずり起こし、脇に抱えた。

「え、ちょっ……!?」
「行くわよ!」

 彼女は俺を抱えたまま走り出した。
 吹き飛んだ窓枠、夜の闇が口を開けている場所へ向かって。
 
「あ、あの! アレ! 置いて行っていいんですか!?」

 俺は薄れゆく意識の中で、床に突き刺さったままの金属板を指差した。特注品だと言っていたはずだ。

「あれが『提出』よ! 回収したら退職にならないでしょ!」

 彼女は笑い飛ばすと、躊躇なく夜空へと身を躍らせた。

「嘘だろォォォォォォォッ!?」

 俺の絶叫は、東京の夜風にかき消された。
 浮遊感。
 眼下に広がる光の海。
 風が頬を叩き、胃の中の酸っぱいものがこみ上げてくる。
 怖い。死ぬほど怖い。
 けれど――。

 ああ、なんて空気が美味いんだろう。

 3年ぶりに吸った「外の空気」は、排気ガス混じりのはずなのに、どんな高級料理よりも甘美だった。

 ワイヤーが唸りを上げ、急激な減速Gがかかる。
 俺たちはビルの谷間を振り子のように滑空し、近くの雑居ビルの屋上に着地した。

 ドサッ。
 俺はゴミ袋のように屋上のコンクリートに放り出された。

「おえぇ……」

 もはや立ち上がる気力もない。四つん這いになり、荒い息を吐くのが精一杯だ。

「ナイスランディング。……ちょっと重かったけど」

 彼女は何事もなかったかのように髪を整え、ポケットからタバコを取り出した。

「さて、と」

 彼女は紫煙を吐き出しながら、瀕死の俺を見下ろした。

「改めまして。私は青木裕里子。『ミッドナイト・エグジット』の代表よ」

「ミッドナイト……エグジット?」
「深夜0時の退職代行屋。あんたみたいな、逃げたくても逃げられない社畜を、あの世……じゃなくて、シャバに逃がすのが仕事」

 裕里子はニヤリと笑い、俺に手を差し伸べた。

「遠藤悟。あんたの退職、確かに受理させたわ。これであんたは自由の身よ」

 自由。
 その言葉の響きに、涙がこみ上げてきた。
 もう、明日あの会社に行かなくていい。
 権田の怒鳴り声を聞かなくていい。
 終わらないバグ修正に追われなくていい。

「……ありがとう。本当に、ありがとう……」

 俺は震える手で彼女の手を握り返し、子供のように泣いた。
 30歳の男が、見知らぬ美女の前でボロボロになって号泣するなんて情けない話だが、涙は止まらなかった。

「礼を言うのは早いわよ」

 裕里子は不敵な笑みを深めた。

「代行費用、まだもらってないもの。……あんた、貯金ないでしょ?」
「えっ」

 涙が引っ込んだ。
 そういえばそうだ。安月給で、残業代も出ない生活。貯金なんて雀の涙ほどしかない。

「特別プラン『エクストリーム退職』の料金は、基本料50万円+危険手当30万円+ダマスカス鋼材費20万円で、計100万円よ」
「ひゃ、100万!?」
「払えないなら……体で払ってもらうしかないわね」

 彼女の目が、怪しく光った。

「私の事務所、経理と事務ができる人間が不足してるのよ。……あんたのその指、キーボードを叩くには最高にいい音をさせてたわ」

 こうして、俺の30代は幕を開けた。
 ブラック企業という地獄から抜け出した先に待っていたのは、元スパイの女社長が支配する、もっと危険で、もっと刺激的な「退職代行」という名の新たな戦場だったのだ。

 これが、俺と彼女――最強にして最恐の「退職代行屋」の始まりの物語である。
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