現代の精神科医が異世界でメンタルクリニックを開業したら、国中の英雄たちが救われた件 〜魔法で治せない心の傷、俺が心理療法で解決します〜

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第4話 大人の夜と、影の誘い

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 氷が溶ける音は、意外なほどに静かだった。



 帝国最大の商会主、ジェシカ・フォン・ベルンシュタインが九条怜治の胸の中で泣き崩れてから、一時間が経過していた。

 診療所の奥にあるプライベートなカウンセリングルーム。そこには、豪華な装飾を剥ぎ取った「一人の女性」としてのジェシカが、怜治が淹れた安価なハーブティーを、宝石でも扱うかのように大切そうに両手で包み込んでいた。



 眩いばかりのライトブラウンのロングヘアが、少しだけ乱れて彼女の肩にかかっている。泣き腫らした瞳は、皮肉にも彼女の冷徹な美しさを、より人間らしく、官能的なものへと変貌させていた。



「……信じられないわ。あんなに、何を食べても砂を噛むようだったのに」



 彼女は、アイシャが用意したごく普通のクッキーを一口かじり、驚いたように目を見開いた。



「味が、する。甘くて、少しだけ粉っぽい……。でも、確かに私は今、これを『美味しい』と感じている。……ドクター、あなた、本当に何をしたの?」



「何もしていない。君の脳が、自分の感覚をシャットダウンしていたのを、少しだけ解除しただけだ。……極限の緊張から解放されれば、神経は本来の機能を取り戻す」



 怜治は、デスクの向こう側で静かに脚を組み、彼女を見つめた。

 無駄のない所作。彼の落ち着いた視線は、ジェシカに「女王」として振る舞う必要がないことを無言で伝えていた。



「……フフ、あなたは本当に、恐ろしい男ね」



 ジェシカは、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。それは、帝国中の貴族たちが一度拝みたいと切望してやまない、氷の王女の「真実の微笑」だった。

 彼女は身を乗り出し、怜治の顔を間近で覗き込む。洗練された大人の女性の香りが、怜治の鼻腔をくすぐった。



「私の感覚を呼び覚ました責任、取ってもらうわよ。ドクター……。今日から、ベルンシュタイン商会はあなたの診療所の公式スポンサーになるわ。……そして私自身も、定期的な『メンテナンス』が必要なようですしね」



 彼女の言葉には、商会主としての打算だけでなく、一人の女性としてこの男を独占したいという、洗練された、だが強欲な独占欲が混じっていた。



「それは困るな。私の患者には、序列はないんだ」



「あら、そう。……でも、アイシャやあの幼い聖女様には、負けるつもりはないわ」



 ジェシカは、ドアの隙間からこちらを伺っていたアイシャとセレナをチラリと見て、優雅に髪をかき上げた。

 アイシャはライバル心のこもった視線を返し、セレナはおどおどしながらも、憧れの眼差しでジェシカの美しさを見つめている。

 三人の美女が、それぞれの理由で自分を見つめている状況にあっても、怜治の表情に揺らぎはない。



「……さて。ジェシカ、今日の診察はここまでだ。外には君の騎士たちが首を長くして待っている」



「……ええ、わかっているわ。……また来るわね、怜治」



 彼女は初めて彼の名を呼び、名残惜しそうに診療所を後にした。



 その夜。

 辺境の街が深い静寂に包まれる頃。

 怜治は一人、診療所のテラスで冷めたコーヒーを口にしていた。



 空には、この世界特有の二つの月が浮かんでいる。

 ふと、怜治はコーヒーカップを置いた。



「……気配を消すのは上手だが、呼吸の音が少しだけ重いな。相当、疲れているようだ」



 怜治が闇に向かって静かに告げると、建物の影から、一人の女性が音もなく滑り出してきた。



「……さすがね。プロの殺し屋でも、私の接近には気づかないはずだけど」



 現れたのは、夜の闇に溶け込むような漆黒のタクティカル・レザーに身を包んだ女性だった。

 ヴェスペラ・ナイトフォール。29歳。

 帝国直属隠密部隊の元隊長にして、現在は闇の世界でその名を知らぬ者はいない情報屋だ。



 圧倒的な肉体美。

 175cmの長身。タイトなレザーウェア越しにもわかる、しなやかで力強い筋肉のライン。磨き上げられた黒檀のようなダークスキンが、月光を反射して艶やかに輝いている。

 艶やかな黒髪をタイトなポニーテールにまとめ、琥珀色の鋭い瞳で怜治を射抜くその姿は、一頭の美しい雌豹を彷彿とさせた。



「……九条怜治。あんたが、あの聖女やジェシカを腑抜けにした男か」



 ヴェスペラは、音もなく歩み寄ると、怜治の喉元に薄い短剣を突きつけた。

 だが、怜治は瞬き一つせず、彼女の瞳をじっと見つめ返した。



「殺しに来たにしては、殺気が『濁って』いるな。……不眠症か?」



 その言葉に、ヴェスペラの短剣が僅かに震えた。



「……何?」



「目の下の隈は隠せても、瞳の奥にある慢性的な疲労までは隠せない。……あんた、ここ1ヶ月、まともに眠れていないだろう。それも、深い自責の念を伴う悪夢のせいで」



「……黙れ」



 ヴェスペラは短剣をさらに押し当てた。

 だが、怜治は一切怯むことなく、彼女の琥珀色の瞳の中に深く入り込んでいく。



「【共感の魔眼】」



 怜治の視界が切り替わる。

 ヴェスペラの心の風景。そこは、果てしない泥濘の広がる戦場だった。

 彼女の足元には、これまで任務で葬ってきた無数の影がまとわりつき、彼女を底なしの闇へと引きずり込もうとしている。

 彼女の魂は、自らを「汚れた道具」と定義し、安らぎを享受することを自ら禁じていた。



(……「モラル・インジュアリ」。自分の信念に反する行為を強いられ続けた者が陥る、魂の傷跡か)



 怜治はゆっくりと手を伸ばし、彼女が握る短剣の刃を、素手でそっと押し下げた。

 手のひらに鋭い痛みが走り、一筋の血が流れる。



「……っ、あんた、狂ったのか!? 手を離せ、切れるぞ!」



「あんたの心の痛みに比べれば、この程度の傷はどうということはない」



 怜治の声は、夜の風のように穏やかで、そして残酷なまでに優しかった。



「ヴェスペラ。あんたはこれまで、誰にも感謝されない場所で、誰にも言えない汚れ仕事を引き受けてきた。……自分を人殺しの道具だと、そう思って生きてきたんだろう?」



「……それが、私の役割だ。影に生きる者に、光なんて必要ない」



「いいや、必要だ。道具にだって、メンテナンスと休息は必要だ。ましてや、あんたは道具じゃない。血の通った、一人の女性だ」



 怜治は、血の滲む手で、彼女の頬を優しく撫でた。

 ヴェスペラの身体が、電流が走ったように強張る。

 これまで彼女に触れてきた男たちは、皆、彼女を恐れるか、あるいは戦利品として欲しがる者だけだった。

 だが、この男の手は違う。

 自分を「戦士」としてではなく、ただの「一人の、疲弊した人間」として、丸ごと受け入れようとしている。



「……やめて。私を、惑わせないで……」



「惑わせているんじゃない。現実を見ろと言っているんだ。……あんたの仕事は終わった。今、この瞬間だけは、あんたを守る盾も、あんたを縛る任務もない」



 怜治は、彼女を自分の方へと引き寄せた。

 ヴェスペラの175cmの長身が、怜治の腕の中にすっぽりと収まる。

 鍛え上げられた強靭な身体が、初めて他人の体温に触れ、子供のように震え始めた。



「……眠れないんだ。目を閉じると、あいつらが……私が殺した奴らが、笑いながら私の首を締めてくるんだ……」



「私がいる。悪夢が来るなら、私が追い払ってやる。……だから、少しだけ力を抜いてみろ」



 怜治のその言葉は、ヴェスペラが29年の人生で最も求めていた「許可」だった。

 彼女は握りしめていた短剣を地面に落とした。硬い石畳に金属音が響く。

 それは、彼女が「影の隊長」という仮面を捨て、一人の女性に戻った瞬間だった。



 ヴェスペラは、怜治の肩に顔を埋め、深いため息をついた。

 30歳の怜治が放つ、落ち着いた、そしてどこか懐かしい男の香りが、彼女の緊張を少しずつ溶かしていく。



「……ドクター。あんた、本当に……ずるい男だよ」



 彼女の琥珀色の瞳から、静かに涙が溢れ、怜治のシャツを濡らした。

 それは、誇り高い戦士が、初めて見せた「降伏」の証だった。



 アイシャの献身。

 セレナの純真。

 ジェシカの執着。

 そして、ヴェスペラの信頼。



 怜治を巡る四人の美女たちの物語は、帝都という巨大な陰謀の渦へと、さらに加速して飲み込まれていく。



「……明日の朝まで、ここで寝ていてもいい。……おやすみ、ヴェスペラ」
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