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第2章:巨大プロジェクト『絶望の箱庭』
第19話 予算会議の攻防
特級迷宮『絶望の箱庭』の深層、第10層の統括管理室。
物流部門のレイラが輸送ルートを死守したおかげで、第11層から第20層までの『第一期工事エリア』の基礎再建は、いよいよ最終段階へと突入しようとしていた。
そんな忙しない現場の拠点である管理室の片隅で、今日も小さな事件が起きていた。
「ヴゥゥゥ……ッ!!」
低く、いっちょ前に威嚇するような唸り声が響く。
声の主は、黒犬の子犬であるノワールだった。彼は普段ピンと立っている耳を後ろにピタリと反らせ、全身の短い毛をハリネズミのように逆立てて、小さな牙を剥き出しにして激怒していた。
彼の視線の先には、白犬の子犬であるブランがのんびりと伏せている。ブランの大きな口には、先ほどまでノワールが一生懸命にカミカミして遊んでいたお気に入りの『魔獣の骨ガム』がすっぽりと収まっていた。
ブランは全く悪気がなく、「落ちていたから拾った」とでも言わんばかりの呑気な顔で骨ガムを堪能している。それがノワールの逆鱗に触れたのだ。
「ワゥッ! ワァウッ!!」
ノワールは猛烈な抗議の声を上げながら、短い足でタタタッと突進し、ブランの顔面に向かってポカポカと必死の連続犬パンチを繰り出した。さらに、ブランのフワフワの胸毛に噛み付いて力いっぱい引っ張る。
しかし、大型犬種であるブランの分厚い毛皮と豊富な脂肪の前には、ノワールの攻撃など全くのノーダメージだった。ブランは痛がるそぶりすら見せず、「きゅ~ん?」と不思議そうに首を傾げ、そのまま骨ガムを噛み続けている。
全く相手にされず、それでも必死に短い手足をバタバタさせて怒り狂うノワールの姿は、凶暴というよりもただただ愛らしかった。
「……ノワールがおもちゃを取られて完全にブチギレてますね。可愛すぎます。あの必死な前足の動き、ずっと見ていられます」
デスクで書類の山と格闘していた経理担当のリーゼロッテが、鼻眼鏡を押し上げながらうっとりとしたため息を漏らした。
「和んでいるところ悪いが、こっちのブチギレ案件もどうにかしてくれ」
図面が広げられたパイプ机の向かい側で、特級迷宮建築士のグンツが深く、重いため息を吐いた。
彼とリーゼロッテの間には、一枚の稟議書が置かれている。そこには赤インクで大きく『却下』という無慈悲なスタンプが押されていた。
「何度でも言いますよ、グンツさん。第20層の防衛ラインに、ミスリル製の超重量級ゴーレムを3体配置する案は、絶対に承認できません。見積もり額、金貨5000枚。……正気ですか? 第一期工事の再建にどれだけ費用がかかっていると思っているんですか」
「俺だって無駄遣いしたいわけじゃない! だが、第20層は第一期工事エリアの最終防衛ラインなんだぞ!」
グンツは立ち上がり、巨大な図面を指差して声を荒らげた。
「広報のヴィオラの奴が、また勝手に『工事中の搬入用縦穴を通れば、第20層まで一気にショートカットできる』なんてふざけた噂を流しやがったんだ。そのせいで、俺が丹精込めて造った上層の罠を完全にスルーして、罠が未完成の第20層の大扉まで直接降りてくる不届き者が出現する可能性が高くなった。物理的な死の動線を引けない以上、扉の前には『絶対に退かない、純粋な質量と物理的な防御力』を持ったストッパーが必要なんだよ! それを担えるのは、ミスリル製のゴーレムしかいない!」
「不測の事態に備えるという現場監督としての考えは理解できます。しかし、予算がないものは出せません。金貨1枚たりとも、そんな無駄に高い石人形には払えませんよ」
リーゼロッテは鉄板入りのバインダーをドン、と机に叩きつけた。
「法務のステラの交渉で、魔導コンクリートと重機のリース代は無償になっただろうが! これまでの防衛で得た数万枚の利益はどこへ消えたんだ!」
「オークたちの大規模増員による莫大な人件費、三交代シフトを維持するための福利厚生費、そして全90層の仮設インフラ維持費に消えているんですよ。ホワイトな労働環境を維持するためには、形に見えないコストが山のようにかかるのです。石人形を買う余裕はありません」
「石人形じゃない、圧倒的な質量による壁が必要なんだ! 罠がなければ、お前のその分厚い筋肉でどうにかなる問題じゃないんだぞ!」
「……ほう? 私の筋肉では、どうにもならないと?」
グンツの言葉に、リーゼロッテのピクピクと動いていた尖った耳がピタリと止まった。
彼女は静かに立ち上がると、タイトな事務官用スーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖をゆっくりとまくり上げた。
ダークエルフの褐色の肌に包まれた、まるで彫刻のように美しく、そして恐ろしいほどに隆起した上腕二頭筋と前腕の筋肉が露わになる。
「圧倒的な質量と物理防御力が必要なら、無料の極上素材がここにありますよ。……私が、第20層の最終防衛ラインの門番を務めます」
「……は?」
グンツは間の抜けた声を漏らした。
「お前、頭がおかしくなったのか? お前はただの経理の事務官だろうが! いくら鍛えていようが、生身の女がチート勇者の大剣や魔法を防げるわけがない! 俺は部下を危険な前線に立たせる気は――」
「グンツさん。私の固有魔法を知っていますか?」
リーゼロッテはグンツの言葉を遮り、冷徹な笑みを浮かべた。
「私の固有魔法は《質量保存》。通常の空間収納魔法とは異なり、この魔法で収納した物資の質量は、すべて術者である私自身の肉体に加算されるという特殊な性質を持っています」
彼女は部屋の隅に積まれていた、1個で数百キログラムはある魔導コンクリートの巨大な予備ブロックの山に手を触れた。
スゥッ、とブロックの山が空間に吸い込まれて消える。
直後、ズンッ! とリーゼロッテの足元のフローリングが軋み、彼女が立っている周囲の床板がわずかに陥没した。
「今、私の体内には約5トンの魔導コンクリートの質量が保存されています。この状態の私に物理攻撃を仕掛けるということは、厚さ数メートルのコンクリートの要塞を素手で殴るのと同じことです。……どうですか? ゴーレムよりも遥かに安上がりで、融通の利く『圧倒的な質量の壁』でしょう?」
グンツは開いた口が塞がらなかった。
空間収納のデメリットである質量の加算を、自身の超人的な筋肉と骨格で支えきり、あろうことかそれを純粋な防御力と攻撃力に転用するという、狂気じみた魔法の運用法。
「……お前、昔は精霊闘法を修めた武闘派だったとは聞いていたが……経理にしておくには惜しいバグ性能だな」
「経理だからこそ、無駄なコストを自らの肉体で削減するのです。……さぁ、ちょうどいいタイミングでお客様がいらっしゃったようですよ」
リーゼロッテが監視水晶に視線を向けた。
そこには、ヴィオラが街で宣伝して釣ってきたと思われる、筋骨隆々の戦士たちで構成された「剛腕の格闘家パーティ」が、工事用の搬入縦穴をロープで強行降下し、迷宮の第20層へと続く大扉の前に到達しようとしている姿が映っていた。
「私の筋肉と質量の有用性、現場で直接証明して差し上げましょう」
リーゼロッテは鉄のバインダーを片手に、静かに管理室を後にした。
★★★★★★★★★★★
第20層の巨大な大扉の前。
工事中のショートカットルートを抜け、汗だくになりながらも辿り着いた格闘家パーティのリーダーは、荒い息を吐きながらも獰猛な笑みを浮かべていた。
「ハッ、特級迷宮の罠も大したことはねぇ! 噂通り、工事用の縦穴を使えば面倒な罠を全部すっ飛ばして深層まで来れるじゃねぇか! 俺たちの鍛え抜かれた肉体と闘気があれば、この扉の奥の宝は俺たちのものだぜ!」
彼らが巨大な扉に手をかけようとした、その瞬間。
「……ここから先は、関係者以外立入禁止となっております」
大扉の影から、タイトなスーツに身を包んだダークエルフの女性が静かに歩み出た。
鼻眼鏡をかけ、手には事務用のバインダーを持っている。どう見ても戦闘員には見えない出で立ちだ。
「あぁん? なんだテメェは。魔王軍の受付嬢か? さっさとそこをどきな、怪我したくなかったらな!」
格闘家が拳を鳴らし、威嚇するように一歩前に出る。
しかし、リーゼロッテは冷たい眼差しのまま、一歩も引かなかった。
「お引き取りください。これ以上の不法侵入は、当ダンジョンの管理規定に基づき、実力で排除させていただきます」
「ハッ、女の細腕で俺たちを排除するだと? 舐めるなよぉぉっ!」
激昂したリーダーの格闘家が、岩石すら粉砕する闘気を纏った巨大な拳を、リーゼロッテの顔面に向けて全力で振り抜いた。
空気を裂くような凄まじい轟音。
監視室で見ていたグンツが思わず息を呑んだ。
だが。
ガシィィィィンッ!!!
格闘家の全力のストレートは、リーゼロッテが何気なく掲げた片手……いや、彼女が持っていた『鉄のバインダー』によって、いとも容易く受け止められていた。
「なっ……!?」
格闘家の顔が驚愕に歪む。彼の拳は、まるで山そのものを殴りつけたかのように完全に静止し、逆に拳の骨が砕けるような鈍い痛みが走った。
リーゼロッテの足元は1ミリたりとも後退していない。
莫大な魔導コンクリートの質量を加算された彼女の肉体は、物理的に「絶対に揺るがない壁」と化していたのだ。
「……当ダンジョンの設備に対する暴力行為を確認しました。不法侵入と器物損壊の賠償金を請求します」
リーゼロッテが冷徹に告げた瞬間、彼女の右腕の筋肉が、スーツの生地を限界まで引き伸ばして凄まじい膨張を見せた。
「支払えない? ……ならば、地下第100層の強制労働炭鉱で、一生涯かけて賠償金分を働いていただきましょう」
ドゴォォォォォォンッ!!!!!
リーゼロッテの放ったカウンターのストレートが、格闘家の腹部に深々と突き刺さった。
先ほど収納した規格外の質量が乗った、攻城兵器並みの物理打撃。
闘気の防御など和紙のように貫通され、格闘家の巨体はくの字に折れ曲がり、目にも留まらぬ速度で後方の石壁まで吹き飛ばされて激突した。
「がはぁっ……!!」
リーダーは壁にめり込み、白目を剥いて完全に気絶した。
残された格闘家パーティのメンバーたちは、自分たちの最強のリーダーが、事務員風の女のたった一撃で粉砕されたという信じられない現実に、恐怖で顔を引き攣らせた。
「ひぃぃっ……! な、なんだこの女! 筋肉の化け物だぁぁっ!」
「た、退けぇっ! 転移石を割れぇぇっ!」
彼らは我先にと帰還の転移石を取り出し、気絶したリーダーを引きずりながら、逃げるように人間界へと消え去っていった。
★★★★★★★★★★★
「……対象の完全離脱を確認。これで防衛完了だ」
監視室の水晶越しにその圧倒的な蹂躙劇を見ていたグンツは、額に冷や汗を浮かべながらパイプ椅子に深く沈み込んだ。
「どうですか、グンツさん」
数分後、全く汗ひとつかかずに管理室へ戻ってきたリーゼロッテが、眼鏡のブリッジを押し上げながら冷酷な笑みを浮かべた。
「私の物理防御力と質量は、あなたの求める最終防衛ラインのストッパーとして十分に機能したはずです。これで、金貨5000枚のゴーレム発注の稟議は不要ですね?」
「……あぁ、わかったよ。お前の言う通りだ。予算の削減には完全に同意する」
グンツは深くため息をつき、却下された稟議書をゴミ箱へと放り投げた。
チート勇者を素手で粉砕する経理担当。
頼もしいことこの上ないが、上司であるグンツの胃痛の種がまた一つ、明確に増えた瞬間でもあった。
「ヴゥゥゥッ! ワゥッ!」
「きゅ~ん?」
足元では、相変わらず骨ガムを取り返せずに短い前足でポカポカと抗議を続けるノワールと、それを呑気に受け流すブランの平和な光景が続いていた。
「……とりあえず、ノワールにもう一つおもちゃを削ってやるか」
グンツは現場の木材を手に取りながら、圧倒的な暴力と質量を持つ美しき経理担当には、絶対に逆らわないでおこうと心に固く誓うのだった。
物流部門のレイラが輸送ルートを死守したおかげで、第11層から第20層までの『第一期工事エリア』の基礎再建は、いよいよ最終段階へと突入しようとしていた。
そんな忙しない現場の拠点である管理室の片隅で、今日も小さな事件が起きていた。
「ヴゥゥゥ……ッ!!」
低く、いっちょ前に威嚇するような唸り声が響く。
声の主は、黒犬の子犬であるノワールだった。彼は普段ピンと立っている耳を後ろにピタリと反らせ、全身の短い毛をハリネズミのように逆立てて、小さな牙を剥き出しにして激怒していた。
彼の視線の先には、白犬の子犬であるブランがのんびりと伏せている。ブランの大きな口には、先ほどまでノワールが一生懸命にカミカミして遊んでいたお気に入りの『魔獣の骨ガム』がすっぽりと収まっていた。
ブランは全く悪気がなく、「落ちていたから拾った」とでも言わんばかりの呑気な顔で骨ガムを堪能している。それがノワールの逆鱗に触れたのだ。
「ワゥッ! ワァウッ!!」
ノワールは猛烈な抗議の声を上げながら、短い足でタタタッと突進し、ブランの顔面に向かってポカポカと必死の連続犬パンチを繰り出した。さらに、ブランのフワフワの胸毛に噛み付いて力いっぱい引っ張る。
しかし、大型犬種であるブランの分厚い毛皮と豊富な脂肪の前には、ノワールの攻撃など全くのノーダメージだった。ブランは痛がるそぶりすら見せず、「きゅ~ん?」と不思議そうに首を傾げ、そのまま骨ガムを噛み続けている。
全く相手にされず、それでも必死に短い手足をバタバタさせて怒り狂うノワールの姿は、凶暴というよりもただただ愛らしかった。
「……ノワールがおもちゃを取られて完全にブチギレてますね。可愛すぎます。あの必死な前足の動き、ずっと見ていられます」
デスクで書類の山と格闘していた経理担当のリーゼロッテが、鼻眼鏡を押し上げながらうっとりとしたため息を漏らした。
「和んでいるところ悪いが、こっちのブチギレ案件もどうにかしてくれ」
図面が広げられたパイプ机の向かい側で、特級迷宮建築士のグンツが深く、重いため息を吐いた。
彼とリーゼロッテの間には、一枚の稟議書が置かれている。そこには赤インクで大きく『却下』という無慈悲なスタンプが押されていた。
「何度でも言いますよ、グンツさん。第20層の防衛ラインに、ミスリル製の超重量級ゴーレムを3体配置する案は、絶対に承認できません。見積もり額、金貨5000枚。……正気ですか? 第一期工事の再建にどれだけ費用がかかっていると思っているんですか」
「俺だって無駄遣いしたいわけじゃない! だが、第20層は第一期工事エリアの最終防衛ラインなんだぞ!」
グンツは立ち上がり、巨大な図面を指差して声を荒らげた。
「広報のヴィオラの奴が、また勝手に『工事中の搬入用縦穴を通れば、第20層まで一気にショートカットできる』なんてふざけた噂を流しやがったんだ。そのせいで、俺が丹精込めて造った上層の罠を完全にスルーして、罠が未完成の第20層の大扉まで直接降りてくる不届き者が出現する可能性が高くなった。物理的な死の動線を引けない以上、扉の前には『絶対に退かない、純粋な質量と物理的な防御力』を持ったストッパーが必要なんだよ! それを担えるのは、ミスリル製のゴーレムしかいない!」
「不測の事態に備えるという現場監督としての考えは理解できます。しかし、予算がないものは出せません。金貨1枚たりとも、そんな無駄に高い石人形には払えませんよ」
リーゼロッテは鉄板入りのバインダーをドン、と机に叩きつけた。
「法務のステラの交渉で、魔導コンクリートと重機のリース代は無償になっただろうが! これまでの防衛で得た数万枚の利益はどこへ消えたんだ!」
「オークたちの大規模増員による莫大な人件費、三交代シフトを維持するための福利厚生費、そして全90層の仮設インフラ維持費に消えているんですよ。ホワイトな労働環境を維持するためには、形に見えないコストが山のようにかかるのです。石人形を買う余裕はありません」
「石人形じゃない、圧倒的な質量による壁が必要なんだ! 罠がなければ、お前のその分厚い筋肉でどうにかなる問題じゃないんだぞ!」
「……ほう? 私の筋肉では、どうにもならないと?」
グンツの言葉に、リーゼロッテのピクピクと動いていた尖った耳がピタリと止まった。
彼女は静かに立ち上がると、タイトな事務官用スーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖をゆっくりとまくり上げた。
ダークエルフの褐色の肌に包まれた、まるで彫刻のように美しく、そして恐ろしいほどに隆起した上腕二頭筋と前腕の筋肉が露わになる。
「圧倒的な質量と物理防御力が必要なら、無料の極上素材がここにありますよ。……私が、第20層の最終防衛ラインの門番を務めます」
「……は?」
グンツは間の抜けた声を漏らした。
「お前、頭がおかしくなったのか? お前はただの経理の事務官だろうが! いくら鍛えていようが、生身の女がチート勇者の大剣や魔法を防げるわけがない! 俺は部下を危険な前線に立たせる気は――」
「グンツさん。私の固有魔法を知っていますか?」
リーゼロッテはグンツの言葉を遮り、冷徹な笑みを浮かべた。
「私の固有魔法は《質量保存》。通常の空間収納魔法とは異なり、この魔法で収納した物資の質量は、すべて術者である私自身の肉体に加算されるという特殊な性質を持っています」
彼女は部屋の隅に積まれていた、1個で数百キログラムはある魔導コンクリートの巨大な予備ブロックの山に手を触れた。
スゥッ、とブロックの山が空間に吸い込まれて消える。
直後、ズンッ! とリーゼロッテの足元のフローリングが軋み、彼女が立っている周囲の床板がわずかに陥没した。
「今、私の体内には約5トンの魔導コンクリートの質量が保存されています。この状態の私に物理攻撃を仕掛けるということは、厚さ数メートルのコンクリートの要塞を素手で殴るのと同じことです。……どうですか? ゴーレムよりも遥かに安上がりで、融通の利く『圧倒的な質量の壁』でしょう?」
グンツは開いた口が塞がらなかった。
空間収納のデメリットである質量の加算を、自身の超人的な筋肉と骨格で支えきり、あろうことかそれを純粋な防御力と攻撃力に転用するという、狂気じみた魔法の運用法。
「……お前、昔は精霊闘法を修めた武闘派だったとは聞いていたが……経理にしておくには惜しいバグ性能だな」
「経理だからこそ、無駄なコストを自らの肉体で削減するのです。……さぁ、ちょうどいいタイミングでお客様がいらっしゃったようですよ」
リーゼロッテが監視水晶に視線を向けた。
そこには、ヴィオラが街で宣伝して釣ってきたと思われる、筋骨隆々の戦士たちで構成された「剛腕の格闘家パーティ」が、工事用の搬入縦穴をロープで強行降下し、迷宮の第20層へと続く大扉の前に到達しようとしている姿が映っていた。
「私の筋肉と質量の有用性、現場で直接証明して差し上げましょう」
リーゼロッテは鉄のバインダーを片手に、静かに管理室を後にした。
★★★★★★★★★★★
第20層の巨大な大扉の前。
工事中のショートカットルートを抜け、汗だくになりながらも辿り着いた格闘家パーティのリーダーは、荒い息を吐きながらも獰猛な笑みを浮かべていた。
「ハッ、特級迷宮の罠も大したことはねぇ! 噂通り、工事用の縦穴を使えば面倒な罠を全部すっ飛ばして深層まで来れるじゃねぇか! 俺たちの鍛え抜かれた肉体と闘気があれば、この扉の奥の宝は俺たちのものだぜ!」
彼らが巨大な扉に手をかけようとした、その瞬間。
「……ここから先は、関係者以外立入禁止となっております」
大扉の影から、タイトなスーツに身を包んだダークエルフの女性が静かに歩み出た。
鼻眼鏡をかけ、手には事務用のバインダーを持っている。どう見ても戦闘員には見えない出で立ちだ。
「あぁん? なんだテメェは。魔王軍の受付嬢か? さっさとそこをどきな、怪我したくなかったらな!」
格闘家が拳を鳴らし、威嚇するように一歩前に出る。
しかし、リーゼロッテは冷たい眼差しのまま、一歩も引かなかった。
「お引き取りください。これ以上の不法侵入は、当ダンジョンの管理規定に基づき、実力で排除させていただきます」
「ハッ、女の細腕で俺たちを排除するだと? 舐めるなよぉぉっ!」
激昂したリーダーの格闘家が、岩石すら粉砕する闘気を纏った巨大な拳を、リーゼロッテの顔面に向けて全力で振り抜いた。
空気を裂くような凄まじい轟音。
監視室で見ていたグンツが思わず息を呑んだ。
だが。
ガシィィィィンッ!!!
格闘家の全力のストレートは、リーゼロッテが何気なく掲げた片手……いや、彼女が持っていた『鉄のバインダー』によって、いとも容易く受け止められていた。
「なっ……!?」
格闘家の顔が驚愕に歪む。彼の拳は、まるで山そのものを殴りつけたかのように完全に静止し、逆に拳の骨が砕けるような鈍い痛みが走った。
リーゼロッテの足元は1ミリたりとも後退していない。
莫大な魔導コンクリートの質量を加算された彼女の肉体は、物理的に「絶対に揺るがない壁」と化していたのだ。
「……当ダンジョンの設備に対する暴力行為を確認しました。不法侵入と器物損壊の賠償金を請求します」
リーゼロッテが冷徹に告げた瞬間、彼女の右腕の筋肉が、スーツの生地を限界まで引き伸ばして凄まじい膨張を見せた。
「支払えない? ……ならば、地下第100層の強制労働炭鉱で、一生涯かけて賠償金分を働いていただきましょう」
ドゴォォォォォォンッ!!!!!
リーゼロッテの放ったカウンターのストレートが、格闘家の腹部に深々と突き刺さった。
先ほど収納した規格外の質量が乗った、攻城兵器並みの物理打撃。
闘気の防御など和紙のように貫通され、格闘家の巨体はくの字に折れ曲がり、目にも留まらぬ速度で後方の石壁まで吹き飛ばされて激突した。
「がはぁっ……!!」
リーダーは壁にめり込み、白目を剥いて完全に気絶した。
残された格闘家パーティのメンバーたちは、自分たちの最強のリーダーが、事務員風の女のたった一撃で粉砕されたという信じられない現実に、恐怖で顔を引き攣らせた。
「ひぃぃっ……! な、なんだこの女! 筋肉の化け物だぁぁっ!」
「た、退けぇっ! 転移石を割れぇぇっ!」
彼らは我先にと帰還の転移石を取り出し、気絶したリーダーを引きずりながら、逃げるように人間界へと消え去っていった。
★★★★★★★★★★★
「……対象の完全離脱を確認。これで防衛完了だ」
監視室の水晶越しにその圧倒的な蹂躙劇を見ていたグンツは、額に冷や汗を浮かべながらパイプ椅子に深く沈み込んだ。
「どうですか、グンツさん」
数分後、全く汗ひとつかかずに管理室へ戻ってきたリーゼロッテが、眼鏡のブリッジを押し上げながら冷酷な笑みを浮かべた。
「私の物理防御力と質量は、あなたの求める最終防衛ラインのストッパーとして十分に機能したはずです。これで、金貨5000枚のゴーレム発注の稟議は不要ですね?」
「……あぁ、わかったよ。お前の言う通りだ。予算の削減には完全に同意する」
グンツは深くため息をつき、却下された稟議書をゴミ箱へと放り投げた。
チート勇者を素手で粉砕する経理担当。
頼もしいことこの上ないが、上司であるグンツの胃痛の種がまた一つ、明確に増えた瞬間でもあった。
「ヴゥゥゥッ! ワゥッ!」
「きゅ~ん?」
足元では、相変わらず骨ガムを取り返せずに短い前足でポカポカと抗議を続けるノワールと、それを呑気に受け流すブランの平和な光景が続いていた。
「……とりあえず、ノワールにもう一つおもちゃを削ってやるか」
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