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41.忘れない
王都でも地方都市でも、犯罪や騒動が起きれば治安部が自体の収束へ動く。奴隷が逃げたと連絡があったら、まず真っ先に治安部が追う。
まさかゴロナは、もうマルが逃亡奴隷であると伝えてしまったのだろうか。いや、そんなのは暴挙といってもいい。マルを使ってこれから儲けようとしているところなのだから。
ならば、ロナウドが何かを察知したのか。
マルは初めてロナウドと出会った場を思い出した。あのときはアニムスが事前にマルと話し、巧みな会話術で色々としゃべらされていた。ロナウドは、その上司だ。ただの一般人とは違う経験や訓練を重ねているはずだ。
ロナウドの質問の意図は、マルの置かれた状況の全てを知った上で自白を促しているのだろうか。
マルは唾をごくりと飲み込む。
「お、おれ……」
「うん? あぁ、怯えなくていい。困っていそうな気がしたから訊ねたのだ。私で助けになれることはあるか?」
マルの口から無意識に安堵のため息が漏れる。
もしかしたら、これが逃げ隠れもせず真っ当に生きていく最後の分岐点かもしれない。
困っている。助けてほしい。もう全てが嫌だと、大声で泣いて喚いて叫んでしまえと、そんな考えが一瞬浮かんで、それから消えた。背中に冷えた汗が出て、胸が重くなった。
そんなことをすれば間違いなく牢屋へ収監される。逃亡奴隷は重罪だから何十年も出られなくなってしまう。
誰にも脅かされない人並みの人生を得ようと思うのなら、なぜか人生の大半を捨てなければならない。
「実は……少し、困ってることがあって……」
マルは昨日買い物へ行った際に、ホットワインを持った人にぶつかって白いハンカチが汚れてしまったことを伝えた。洗ってみたけれどワインの赤紫色が落ちなくて、贈り物にできなくなって悲しいと。実際はゴロナがわざと汚したのだが。訝しむ視線の先を変えるための話題提供だ。
ゴロナと出会ったばっかりにマルの運命は狂ってしまった。圧倒的な悪の前に、小さな正しき事実は吹き飛ぶ。
マルは、分岐点の先にいるロナウドの元には行けないと悟った。ロナウドと違って、自分は清廉でも潔白でもないのだ。大恩ある主人へ逃亡奴隷であることを隠し、今もまた黙って逃げようとしている。
「……なるほど。染みの問題か。それならおそらく解決できるだろう」
「え……あの、もう染まってしまってるんです。洗ったけど、落ちないんです……」
「マル、屋敷の者の得意なことを思い出すといい。誰が対応できそうか分かるか?」
「……あっ! マチルダさんだ! 洗濯ものを凄くきれいにできるって言ってた!」
マチルダは日雇いの洗濯婦をしていて、その技術をロナウドにかわれ屋敷で働くようになっていた。
「ワインの染みについては、私も幾度となく助けて貰っている。なんでも、意外なもので煮るそうだ。見事に染みを抜くのでそれを訊ねてみたこともあったが、仕事が減ってしまうから教えたくないと笑われた。だからマルはそのハンカチを渡すといい。全てきれいにしてくれるはずだ」
いかにもマチルダらしい。腰に手を当てて『あたしに任せて!』と得意気に言う様が思い浮かんだ。
「ようやく笑ったな」
「え?」
「先ほどのマルは、騎竜中に手綱が切れた隊員のような顔をしていた」
「……それは……とっても酷い顔だったんですね」
「だが無事に生還したようでなによりだ」
あはは、と今度は確実に声を出して笑うと、銀糸の髪を厚みのある手でかき混ぜられた。
好きな気持ちとは、まるで花のようだと思う。ロナウドの鋭くも温かくもあるまなざしが好き。チーズを食べるときに乗せてくれる膝の上が好き。こうしてくしゃくしゃにマルの髪を混ぜる大きな手が好き。好きの花弁を集めてまとめると、大きな花へと育つ。抱えきれないほどの好きで一杯の花束になっていく。
そんなことを考えていたせいか、ぽんぽんと花が生まれた。淡くて明るい色合いの中に、銀色の花も混じっている。
「俺、この銀色の花が一番好きなんです」
「奇遇だな、私もだ」
「ご主人様も? 俺と同じですね! この花、最初は蕾だったけど、少しずつ開いていくようになってから育つのが楽しみだったんです」
「それは……光栄だ。いや、気にしないで続けてくれ」
なぜかロナウドが照れているようにも見えたが、マルは言われたとおり素直に続ける。
「今はしっかり咲いてるし、前よりも大きくなってるし、花が頑丈になったっていうか、強くなってる気がするんです。ねぇ、立派になってると思いませんか?」
「そうだな、私も同意見だ。あの小さな蕾がこれほど大きくなるとは……嬉しい限りだ」
マルの花も変わったが、ロナウドも以前より確実に変わった。ほとんど固まっていた目尻も口の端も、柔らかくなっている。気が付かない人もいるだろうけれど、近しい者は分かっているだろう。
「ご主人様、俺、お屋敷に戻るのが楽しみです。ほんとに楽しみなんです」
マルにとってロナウドは、想い人でもあると同時に、誇りにもなっていた。この人の屋敷に勤めていたことは、一生涯忘れない。あの日、宿の厩舎でぼろ雑巾のようになっていたマルを救ってくれたロナウドを。屋敷の人たちを。
「奇遇だな。私もだ」
忘れない。
まさかゴロナは、もうマルが逃亡奴隷であると伝えてしまったのだろうか。いや、そんなのは暴挙といってもいい。マルを使ってこれから儲けようとしているところなのだから。
ならば、ロナウドが何かを察知したのか。
マルは初めてロナウドと出会った場を思い出した。あのときはアニムスが事前にマルと話し、巧みな会話術で色々としゃべらされていた。ロナウドは、その上司だ。ただの一般人とは違う経験や訓練を重ねているはずだ。
ロナウドの質問の意図は、マルの置かれた状況の全てを知った上で自白を促しているのだろうか。
マルは唾をごくりと飲み込む。
「お、おれ……」
「うん? あぁ、怯えなくていい。困っていそうな気がしたから訊ねたのだ。私で助けになれることはあるか?」
マルの口から無意識に安堵のため息が漏れる。
もしかしたら、これが逃げ隠れもせず真っ当に生きていく最後の分岐点かもしれない。
困っている。助けてほしい。もう全てが嫌だと、大声で泣いて喚いて叫んでしまえと、そんな考えが一瞬浮かんで、それから消えた。背中に冷えた汗が出て、胸が重くなった。
そんなことをすれば間違いなく牢屋へ収監される。逃亡奴隷は重罪だから何十年も出られなくなってしまう。
誰にも脅かされない人並みの人生を得ようと思うのなら、なぜか人生の大半を捨てなければならない。
「実は……少し、困ってることがあって……」
マルは昨日買い物へ行った際に、ホットワインを持った人にぶつかって白いハンカチが汚れてしまったことを伝えた。洗ってみたけれどワインの赤紫色が落ちなくて、贈り物にできなくなって悲しいと。実際はゴロナがわざと汚したのだが。訝しむ視線の先を変えるための話題提供だ。
ゴロナと出会ったばっかりにマルの運命は狂ってしまった。圧倒的な悪の前に、小さな正しき事実は吹き飛ぶ。
マルは、分岐点の先にいるロナウドの元には行けないと悟った。ロナウドと違って、自分は清廉でも潔白でもないのだ。大恩ある主人へ逃亡奴隷であることを隠し、今もまた黙って逃げようとしている。
「……なるほど。染みの問題か。それならおそらく解決できるだろう」
「え……あの、もう染まってしまってるんです。洗ったけど、落ちないんです……」
「マル、屋敷の者の得意なことを思い出すといい。誰が対応できそうか分かるか?」
「……あっ! マチルダさんだ! 洗濯ものを凄くきれいにできるって言ってた!」
マチルダは日雇いの洗濯婦をしていて、その技術をロナウドにかわれ屋敷で働くようになっていた。
「ワインの染みについては、私も幾度となく助けて貰っている。なんでも、意外なもので煮るそうだ。見事に染みを抜くのでそれを訊ねてみたこともあったが、仕事が減ってしまうから教えたくないと笑われた。だからマルはそのハンカチを渡すといい。全てきれいにしてくれるはずだ」
いかにもマチルダらしい。腰に手を当てて『あたしに任せて!』と得意気に言う様が思い浮かんだ。
「ようやく笑ったな」
「え?」
「先ほどのマルは、騎竜中に手綱が切れた隊員のような顔をしていた」
「……それは……とっても酷い顔だったんですね」
「だが無事に生還したようでなによりだ」
あはは、と今度は確実に声を出して笑うと、銀糸の髪を厚みのある手でかき混ぜられた。
好きな気持ちとは、まるで花のようだと思う。ロナウドの鋭くも温かくもあるまなざしが好き。チーズを食べるときに乗せてくれる膝の上が好き。こうしてくしゃくしゃにマルの髪を混ぜる大きな手が好き。好きの花弁を集めてまとめると、大きな花へと育つ。抱えきれないほどの好きで一杯の花束になっていく。
そんなことを考えていたせいか、ぽんぽんと花が生まれた。淡くて明るい色合いの中に、銀色の花も混じっている。
「俺、この銀色の花が一番好きなんです」
「奇遇だな、私もだ」
「ご主人様も? 俺と同じですね! この花、最初は蕾だったけど、少しずつ開いていくようになってから育つのが楽しみだったんです」
「それは……光栄だ。いや、気にしないで続けてくれ」
なぜかロナウドが照れているようにも見えたが、マルは言われたとおり素直に続ける。
「今はしっかり咲いてるし、前よりも大きくなってるし、花が頑丈になったっていうか、強くなってる気がするんです。ねぇ、立派になってると思いませんか?」
「そうだな、私も同意見だ。あの小さな蕾がこれほど大きくなるとは……嬉しい限りだ」
マルの花も変わったが、ロナウドも以前より確実に変わった。ほとんど固まっていた目尻も口の端も、柔らかくなっている。気が付かない人もいるだろうけれど、近しい者は分かっているだろう。
「ご主人様、俺、お屋敷に戻るのが楽しみです。ほんとに楽しみなんです」
マルにとってロナウドは、想い人でもあると同時に、誇りにもなっていた。この人の屋敷に勤めていたことは、一生涯忘れない。あの日、宿の厩舎でぼろ雑巾のようになっていたマルを救ってくれたロナウドを。屋敷の人たちを。
「奇遇だな。私もだ」
忘れない。
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