放浪する星

青江 いるか

文字の大きさ
上 下
1 / 4
魔法使い

収穫祭

しおりを挟む
 「ルース!」
 名を呼ばれて、少年は振り向いた。
 彼は丁度、薪を拾い集め合えたところだった。足元には子犬が走り回っている。
  ルースと呼ばれた少年は、走ってくる少女を見て、顔をほころばせた。
「オリヴィア」
 そして駆け寄った少女を受け止める。少女の身体は軽く、ルースは少し眉を顰める。
 「走ってきて大丈夫なのか? また疲れて寝込むぞ」
 「大丈夫よ、昔ほど弱くないわ」
 そう言って、少女は微笑む。それは、雲の間から太陽の光が射したような輝きがある。
 油断禁物、と言って、ルースは彼女の背中をポンポンと叩いた。そして、彼女との目線が前より近くなっていることに気づき、ちくりと心に針が刺さったような感覚に陥る。
 ルースとオリヴィアは、五つ年の離れた兄妹だ。丁度刈り入れたばかりの小麦のような同じ色の髪をして、薄墨色の目を持っている。どちらもよく、母親のほうに似ていると言われ、年子であれば、双子に間違われたかもしれない。――いや、年を追うごとに、間違われやすくなっている。
 ルースはオリヴィアをもう一度見つめ、彼女の頭が、既に自分の眉の辺りにまで追いついているのを確認した。
 ルースとオリヴィアは、十九歳と十四歳の兄妹である。そして、オリヴィアが特別に背が高いわけではない。確かに彼女の背丈は、同年代の中では高いほうに入るかもしれないが、まだ伸びしろのある背丈である。
 その彼女と対峙するルースのほうは――同年代の少年たちに比べて、明らかに低かった。元々線の細い身体と相まって、このところ、実年齢と相応に見られたことがない。友人たちに言わせれば、ルースの見た目は、大体、十五歳ほどにしか見えないという。
 父は、これから伸びる、個人差があるから焦る必要はない、と慰めてくれる。確かに、ルースも、これから伸びるはずだと信じている、信じないとやっていられない。
 けれど。
 そこまで考えて、オリヴィアが首を傾げた。
 「ルース?」
 はっと我に返り、ルースは慌てて両手を放した。
 「ごめんごめん、それで、どうしたの?」
 ルースを呼んだということは、何か用事があったのだろう。その通り、オリヴィアは、思い出したように顔を輝かせた。
 「あのね、今年の収穫祭、夜まで私も参加していいって、お母さんが許可してくれたの!」
 収穫祭とは、その名の通り、毎年の収穫を祝い、感謝する祭りである。それが今年は、丁度三日後にあった。
 この日は、みんな、少し羽目を外す日である。朝から始まり、それは夜中まで続く。いつもは節制しているお酒も、ご馳走も、この日は誰にとがめられることもなく、満足いくまで堪能できる。また、足が疲れて声がかれるまで踊り歌い明かせる。
 夜には村の広場に篝火が焚かれ、その周りで大人たちが踊り明かす。子どもや老人たちは、夜も更けると、家へ帰される。だから、子どもたちにとっては、夜まで収穫祭に参加することは、大人として認められることなのだ。
 何歳から収穫祭の夜に参加できるかは、特に決まってはいない。子どもや老人が家に帰されると言っても、別に大人たちが彼らに見せられないようなことをしているわけではないので、時々、小さな子どもの姿が夜更けにも外で見られる。ただ、多くは睡魔に勝てず、眠りに落ちているが。
 だが、大体、十二、三歳くらいから、大人への準備として、親に夜の参加を許される。これは、大人社会への未来の新しい仲間の紹介でもあり、社交の場でもある。
 そんな中、オリヴィアは、昔から身体が弱く、今はしょっちゅう熱は出さなくなったものの、夜の肌寒さと祭りの熱気を両親が心配し、未だお預けとなっていたのだ。
 しかし、この一年、オリヴィアの体調は安定している。そして、何より、本人が夜の収穫祭に参加したがっている。そういうわけで、今年は両親がやっと許可を出したのだろう。
 十三歳から夜の祭りに参加しているルースは、妹に微笑んだ。
 「良かったな、でも、特に夜に特別なことをするわけじゃないぞ。ただ昼間と同じように、踊り、歌い、飲み食いするだけだ。まあ、昼間よりは酒の数と量が多くなるけどさ。だから、あまり期待しすぎてがっかりするなよ」
 すると、「大丈夫」とオリヴィアはルースの両手を握りしめた。
 「私が嬉しいのは、ルースと一緒にお祭りに参加できる時間が増えることだもの。いつも、家でルースたちの帰りを待つのは寂しいから」
 そして、彼女は、足元に集められた薪を拾おうとする。ルースはそれを止めた。
 「いいよ、これは俺が持っていくから」
 「でも」
 確かに、足元の薪は、一人で持つには多すぎる。しかし、ルースには、裏技があった。
 「大丈夫、それより、この子を家へ連れ帰ってよ。さっきから駆け回っているけど、そろそろばてそうだ」
 ルースが示したのは、足元の子犬だ。今年生まれたばかりで、ジャックという名前である。同じ日に生まれた兄弟たちはおとなしく母犬の傍にいるのに、この子だけは、ルースの後について遠くへ行きたがる。
 「わかった」
 オリヴィアが「ジャック」と呼ぶと、その言葉が自分を指していると理解しているかのように、子犬は足を止めて顔を上げ、ちょこんと首を傾げた。オリヴィアは屈みこんで、子犬を撫でる。
 「帰ろう」
 オリヴィアは昔から、動物に好かれやすい。だからこの時も、子犬は彼女の意思が伝わったかのように、おとなしく彼女の後をついて行った。
 ルースにはわかる。子犬のジャックが母犬と兄弟から離れてルースの後についてきたがるのは、そうすればオリヴィアに迎えに来てもらえると思っているからだということを。そして、オリヴィアの言葉を、その意味を、ジャックなりに理解しているのだということを。
 全く、生まれたばかりの時から、ずいぶん成長したな。
 ルースは苦笑し、日に日に成長していく子犬の様子を思い出し、再び心に針が刺さる。
 子犬にも、もちろん、成長する速度の差はある。特に、ジャックは生まれた時から小さく、今でも兄弟の中で一番体が小さい。
 人間もそうだ。成長する速度に差があって当然だ。
 けれど、丁度、収穫祭の夜に参加することが許された頃から、周りがどんどん背丈が大きくなって、自分が取り残されている感覚がする。
 はあ、と溜め息をついて、ルースは顔にかかった、オリヴィアと同じ色の、しかし彼女とは違い真っ直ぐな髪を払う。ついでにルースはぶんぶんと首を振った。それで、後頭部で束ねた長い髪が大きく揺れる。
 何にせよ、確かに自分は周りよりも背丈は低く、青年というよりも少年かもしれないが。
 それでも、自分には。
 ルースは足元に積まれた薪を指さし、「上がれ」と言った。
 重力に逆らって、ルース一人では抱えきれない薪の束は、空中にいとも簡単に浮かび上がる。
 それを満足そうに見て、ルースは独り言ちた。
 「まあ、俺には魔法があるしな」



 魔法。
 それは、普通の人間にはできない、一風変わった力。
 それを操れるのが、魔法使いと呼ばれる人々である。
 魔法使いは人間の中から生まれる。だから、魔法使いと人間は異なる生き物ではなく、ただ、人間の中で、少しだ け特殊な人々だ。
 手を触れずに物を動かす。火打石なしに火を熾せる。風に強弱をつける。水を操る。触れただけで怪我を治す。動物と心を通わせる。
 そんな、普通の人間にはできないであろうことが、彼らにはできる。
 その力は突然変異だ。ルースは魔法使いだが、妹のオリヴィアは、動物に好かれやすいという特技はあるものの、魔法は使えない。両親にしてもそうである。家族親戚で、他に魔法使いもいない。
 魔法使いは珍しい。少なくとも、ルースの住む村ではそうだ。この村では現在、魔法使いはルースただ一人だ。
 彼が生まれる前には、とても長生きした老婆がいたらしい。彼女も魔法使いで、村人の怪我をいやしたりしただというが、元々、亡くなる十数年前にこの村に流れ着いた旅人で、己のことはあまり話さなかったため、彼女の素性や魔法使いについて詳しく知る人はこの村にはいない。
 そういうわけで、ルースは誰に魔法を教わることもせず、何となく、日常の中で自分にできることを理解していった。
 ルースが魔法を使うのは、大抵、村の仕事を手伝う時だ。重いものを運んだり、あまりに強い雨風を、少しだけ防いだり。軽い怪我なら、治すこともできる。
 途轍もない恐るべき力というわけではなく、あると少し便利な力を持つ、ということで、ルースは村人に重宝されていた。
 ただ、魔法使いについて村人も家族も無知でも、一つ、母がルースに教えてくれたことがある。
 それは、魔法使いにとって、髪の毛はとても大事なものだということだ。
 魔法の力の源なのか、それとも他に魔法を使ううえで役に立つのか。
 それはわからないものの、ルースの母、ローズは昔、今はもういない魔法使いだった老婆に、「魔法使いは髪をむやみに切ってはならない」という話を聞いたのだという。
 だから、大抵の村の男子は髪を短くしているにもかかわらず、ルースの髪は幼いころから短かった試しがない。髪を切ったことがないわけではなかったが、それは前髪を切るなど、必要最低限の行為で、しかも、今まで切った髪の毛は、母が大切に仕舞っている。
 そのことで、同年代の子どもたちから揶揄われないわけではなかった。村人も、自分たちとは少し違う魔法使いのことを、敬遠しないわけではなかった。
 ただ、元々、ルースは負けん気が強かったので、同年代の子どもたちと思い切り喧嘩したことで、しこりが自然と取り除かれ、また、だんだん魔法を村の仕事に応用することで、大人たちの信頼も得た。
 そうして、ルースは今まで生きてきたのである。


 
 家へ戻ると、既に夕食の用意ができていた。
 ルースは感覚が鋭敏で、家に入る前から、夕食の香りで今日の献立を知ることができた。この日は、ルースの好きな根菜の煮込みだ。
 オリヴィアは、ジャックをそのまま家の中に連れてきたらしい。ジャックは夕食づくりの残菜を貰って、食卓の下でご満悦だ。ルースはジャックのその気持ちが伝わってきて、思わずお腹が鳴る。
 ルースは動物の気持ちが分かる。それは言葉で伝わるものではなく、心に直に伝わる。例えば、今のジャックの嬉しさを、ジャックは紙一つ隔てたような感覚で、疑似体験している。 
 いつもそんな感覚を共有しているわけではなく、特に触れた時に感じるのだが、ジャックは生まれた時からかなり長くいるため、見ただけで気持ちが伝わってくるのだ。
 席について、ルースは言う。
 「今度の収穫祭の夜、オリヴィアにも参加を許したって聞いたけど」
 そう、と母ルースが娘に微笑みかけた。
 「もう十四歳だから。母さんは今年も早くに家に戻るから、眠くなったらいつでも戻ってくるのよ」
 ルースは父のトッドにも話しかける。
 「収穫祭の準備って進んでる? 何か手伝うことはある?」
 収穫祭の準備は大人が主導し、子どもも手伝う。この村では、大体、収穫祭の夜に参加を許された頃から大人への準備期間に入り、それから、十八歳くらいで実際に大人と認められる。 
 十九歳のルースは見た目はともかく、年齢ではすでに大人の部類に入るので、収穫祭も主導する側だ。
 「そうだな、簡易屋台を作る手が足りないと言っていたから、それを手伝ってくれると助かる。明日、広場に行ってくれ」
 「わかった」
 ルースの家は、牧畜と農業、その他の内職で生計を立てている。この村のほとんどの家がそうだ。その他に、商人の家もある。大抵が、子どもは家業を継ぐ。ルースはその魔法の力で体格の不遇さを補いながら、村の中の「何でも屋」という地位を確立している。
 「ところで、ルース、収穫祭に誰か誘ったのか?」
 「うん? いや、適当にぶらぶらしようと思ってた。オリヴィアが夜にいるなら、少なくとも夜は、俺がついてるよ」
 それは心強いけど……と母は溜め息をついた。
 「父さんが言ったのは、デートの相手がいるかどうか、よ。そろそろ浮いた噂の一つや二つ、聞きたいところだわ」
 スープを口に入れたルースは、ぶはっと思わず吐き出しそうになった。
 ごほごほっと咳をして、ルースは何とか飲み込んだ。オリヴィアが彼の背中をさする。
 「――いるわけないだろ!」
 ルースは心の中で更に付け足す。
 十五くらいにしか見えない十九歳の男を、どんな人が相手にするというんだ!



 「最初に言っておくけど、酒は絶対呑むなよ」
 収穫祭の明かりがぽつぽつと灯り始めるころ、ルースはオリヴィアに約束させた。
 夜が深まるにつれて、酒の量も増える。明確な規定はないが、オリヴィアの年齢くらいなら、酒を飲むことは許される頃だ。
 しかし、オリヴィアの身体のことも考えて、ルースは絶対まだ妹に酒を飲ませたくない。そして、あまり妹から夜は目を放したくない。特に、今日は羽目を外しやすい収穫祭だ。不埒な輩がいないとも限らない。
 「わかってる」
 オリヴィアはそう微笑んで、広場の中央で燃え上がる篝火を見つめる。焚火を中心として、人々が踊り出していて、音楽は今日一日途切れることがない。
 「……踊るか?」
 ルースが問うと、オリヴィアは顔を輝かせた。「うん!」
 踊りと言っても、みんなそれぞれ、好きなように手足を動かしていて、決まった作法もない。歌も好きなように歌っているから、音程も曲調もばらばらだ。だから、踊りや歌が上手か下手は誰も気にしない。
 オリヴィアはルースの手を引いて、踊りの輪に入る。
 二人とも体が動かすことは好きなので、また、村に住んでいれば行事ごとに踊る機会も多く、もう照れなどはない。日頃の鬱憤を晴らすかのように、心の底から楽しんで踊る。
 オリヴィアが小さな声で歌う。彼女は歌が得意なのだ。
 ルースはきりのいいところで、妹の手を取って踊りの輪を離れた。早くに疲れさせてしまってはいけない。
 広場の端に来て、ルースは簡易ベンチにオリヴィアを座らせる。近くに並べられたご馳走の中から、飲み物を取ってきて、彼女に渡した。
 自分も飲み物を手にして、彼女の隣に腰掛ける。
 夕陽は既に山の向こうに沈み、篝火が人々の心のよりどころだ。それを見つめていると、オリヴィアが唐突に言い出した。
 「あの中にルースが想いを寄せている人はいるの?」
 ぶはっと、ルースは数日前のように吹き出しそうになって、慌てて抑えた。
 「な、何を」
 オリヴィアを見ると、彼女は質問を恥じたように頬を染めて俯いた。
 「……もし、誰かよい人がいるなら、私に構わないで行ってきても大丈夫だよと言おうと思って」
 ルースは笑った。
 「いないよ、あの中だけじゃなく、どこにも」
 まったく、父さんと母さんが変なこと言うから、と彼はぶつぶつ言った。
 想いを寄せる人がいないのは――実を言うと、そんな人がいたことがないのは、本当だ。
 同年代の子どもは、ルースよりどんどん、年を追うごとに大きくなる。かといって、だんだん自分に追いついてくる年下の子どもたちは、弟妹のようにしか見られない。
 他人への好意は、見た目によるものではない。それはそうだが、身体の成長の速度がだんだんずれてくると、どこかに壁のようなものを感じてしまう。ましてや、ルースは魔法使いである。村人たちとの間に、壁が全くないとは言い切れない。
 ……というのは言い訳で、もしかしたら、そういった恋愛事にルース自分自身、あまり興味がないのかもしれない。
 ルースは基本、今の生活に満足している。父と母、オリヴィア、そして村人たちを魔法で手助けできるなら、役に立てるなら、これ以上、何が必要だろうか?
 ふと、ルースは思いつき、オリヴィアに問い返す。
 「そういうオリヴィアは?」
 「え、私?」
 オリヴィアは首を傾げる。
 「私はルースがいればいいよ」
 それを聞いて、ルースは手元にカップがなければ妹に抱きつきたいと思う。
 やがて、風が強くなってきた。もしかしたら、天気が急変するかもしれない。
 そろそろ何か食べるか――とルースが言いかけた時、突風が吹いた。ルースは思わず目を閉じて腕で風を遮る。
 ごおっという音がして、そのあと、人々のざわめきが不穏なものを帯びた。
 「ルース……」
 ルースが目を開けると、広場の中央の篝火が強風に煽られて、周辺に飛び火していた。
 篝火の近くに建てていた天幕に引火し、一気に燃え上がる。周辺の人々は慌てふためき、逃げまどっていた。
 「まずい……」
 誰かの悲鳴と、鳴き声がする。それが天幕の炎の中なのか、群衆の中なのか、はっきりしない。
 ルースは無意識に炎のほうに駆け出していた。
 「ルース!」
 背後でオリヴィアの呼ぶ声がして、ルースは「逃げろ!」と叫んだ。
 魔法で火を熾したことはある。火を消すのも造作もない。ただ、これだけの炎をどうにかしたことはなかった。あってせいぜい、暖炉かランプの火だ。
 できるか?
 やるしかない!
 暖炉の火を消すときは、上から火を圧するようなイメージで魔法を行っている。しかし、この場合にも有効だろうか。
 近づくのに安全なぎりぎりの距離まで来て、ルースは炎を見上げた。
 その炎は大人の背丈よりも高く、大樹の横幅より広い。
 「――消えろ」
 ルースは呟きながら、炎を消すイメージを頭に思い浮かべる。
 炎は一瞬、弱まったものの、すぐに風に煽られ勢いを取り戻す。
 この方法ではだめなのだろうか。
 大量の水があれば、とルースは思う。村人は既に井戸から水を汲んでいるが、それをルースが魔法で運んでも、焼け石に水のような気がする。
 水をかけるなら、もっと大量に、それこそ雨が降れば。
 ……魔法使いは、天候も自在に操れるらしい。
 そんな伝承を、ルースは唐突に思い出した。
 大雨が降った年も、干ばつだった年もある。そのたびに、ルースは魔法の力でどうにかできないかと、試したことはあった。しかし、そんな大層なことはできたことがなかった。
 けれど、今、この炎を消すには、雨を降らせるしかない!
 ルースは、きっ、と目を見開いた。
 風は強く、少しだけ、雨を降らせる湿り気がある。可能性がないわけではない。
 「――雨を」
 ルースは暗い空を見つめた。風は強いが雲はまだ多くなく、瞬く星月が見えている。
 「――雨を」
 ふと、拳を握り締めた左腕首に、何かが触れた。
 目線を下げて左を見ると、そこにはルースに先ほど「逃げろ」と言われたオリヴィアが、兄の手首を握って立っていた。
 「……オリヴィア」
 「魔法を使おうとしているんでしょう、私は何もできないけれど傍にいる」
 ルースは何か言おうと思ったが、彼女の表情に気圧され、そして時間もないので、再び夜空を見上げる。先ほどよりも雲が多く流れてきているようで、星の瞬きが減り、暗さが増していた。
 ルースは左の拳を開いてオリヴィアと手を握る。
 「雨を」
 風がルースの長い髪を弄び、なびく髪が視界を遮る。
 風は重い雲をどこからか運び、厚い雲が、星の瞬きを遮る。
 ルースの肌は、湿気を感じ取った。
 炎に負けない、救いの雨を。
 ひときわ大きい風が吹いたとき、突如、見上げるルースの顔に、冷たいものが落ちてきた。
 雨だ、と誰かが叫ぶ声が聞こえた。
 一度降り始めた雨は、堰を切ったかのように、地面に打ち付けた。
 踊るように燃え上がっていた炎は、徐々に勢いを失っていく。
 ルースは雨に濡れながら、炎が消えたのを見届けて、大きく息を吐いた。
 明かりのもととなる篝火も、広場の隅に灯された火も消えたせいで、辺りは真っ暗だ。
 どっと疲労が押し寄せ、しかし、オリヴィアも雨に濡れていると気づき、気力を振り絞って彼女のほうを向く。
 「オリヴィア、早く中に――」
 言い終わる前に、握りしめた彼女の手が離れて、どさっと何かが倒れる音がした。
 誰かが既に明かりを持ってきていて、すぐに周囲の様子が明らかになった。
 「オリヴィア!」
 ルースの隣で、妹が気を失って倒れていた。
しおりを挟む

処理中です...