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しおりを挟む「――いいですか、アーノルド。誇りはあなたを縛るものではなく、支えるものですよ」
祖母から授けられたその言葉は、常に胸奥で澄んだ響きを放っていた。
十歳に過ぎぬ彼は、すでに第二皇子としての務めを理解していた。
王位を継ぐのは兄であり、自分はその揺るぎなき支えとなる。
光を浴びずとも構わない。影であるからこそ、守れるものがある――
◇ ◇ ◇
アーノルドは時折、護衛を伴って密かに城下町へ足を運んだ。
人々の暮らしを肌で知ること。それが己の役目の一端だと、幼心ながらに信じていたからだ。
その日、雑踏の中で耳に届いたのは、甲高い子供の声と荒々しい男の叱責だった。
視線を向ければ、白い粉を前に、商人と対峙する小柄な少女の姿がある。
「――おじさん達、これ産地が違うよ! 本物はもっと、透き通ってるはずだもの!」
「うるせぇ! ガキが商売に口を挟むんじゃねぇ!」
少女は砂糖が偽物だと指摘したらしい。
商人は苛立ち、肩を押さえつけて黙らせようとする。
平民の子供が砂糖の良し悪しを見分けられるはずがない――それが周囲の常識だった。
だがアーノルドには、少女の言葉が虚言には思えなかった。
砂糖は国庫を潤す貴重な品。それを粗悪品と偽り売るなら、由々しき犯罪である。
アーノルドは群衆を割り、一歩前へ進み出た。
「その砂糖、すべて私が買い取ろう」
澄んだ声が響いた瞬間、場の空気が凍りつく。
「またガキが……」
「おい、見ろ。相当いい服だぞ」
小声で言い合う商人達に、アーノルドは静かに告げる。
「小切手を」
「はい、殿下」
侍従が即座に応じる。
「私の祖母は甘い物に目がなくてね。きっと喜んでくれるだろう」
――皇太后の名を仄めかした瞬間、男達の顔色はみるみる蒼白に染まる。
「で、殿下……?」
「ってことは……こ、皇族……!?」
膝を折った商人達は、抵抗もできぬまま衛兵に連れ去られていった。
騒ぎの収まった後、アーノルドは少女の前に膝を折る。
「君のおかげで大事にならずに済んだよ。どうして偽物だと分かったんだ?」
「お父さんがパティシエで……教えてもらったことがあるの」
少女は小さな胸を張り、怯むことなく答える。
「お父さんが言ってたの。お菓子には人を幸せにする力があるんだって。だから、それを悪いことに使うのが許せなくて……」
真っ直ぐな瞳に、アーノルドは息を呑む。
――誇りとは己を支えるもの。
祖母の言葉が、新たな意味を帯びて胸に沁み渡っていく。
「君は立派だね。……けれど、一歩間違えば危ない目に遭っていた。お父さんも悲しむんじゃないかな?」
「!」
少女ははっとして、少しだけ視線を落とした。
「次からは一人で突っ走ってはいけないよ」
「うん……」
反省をにじませた声音。ちょうどその時――
「……な……ニーナ……どこに……」
遠くから男の呼ぶ声が響き、少女は振り返る。
「あ、お父さんが呼んでる」
駆け出す前に、少女はにこりと笑って振り返った。
「助けてくれてありがとう。デイジーに来たら、とびきり美味しいお菓子をご馳走するね!」
小さな背中は、すぐに人混みに紛れて見えなくなった。
「殿下……?」
しばらく動きを見せなかった主に、侍従が控えめに声をかける。
アーノルドはふと我に返り、低く命じた。
「……調べてほしいことがある。パティシエの父を持つニーナという少女と、“デイジー”とは何を指すのかを」
その名を、もう一度確かめておきたかった。
◇ ◇ ◇
数日後、皇太后の誕生日を祝う晩餐会が開かれた。
煌びやかなシャンデリアの下、各国の賓客が集う中、卓上に並んだ菓子の数々はひときわ人々の目を奪っていた。
「アーノルド、これを食べてごらんなさい。私のお気に入りなのよ」
祖母に勧められたのは、真紅の苺が輝く小さなショートケーキだった。
一見すればありふれた菓子。だが、ひと口運んだ瞬間、アーノルドは瞠目する。
繊細な甘み、心を解きほぐすような柔らかさ。
数日前、あの少女が必死に守ろうとしたものが、ここにあった。
「これは……」
「美味しいでしょう? 普段はなかなか口にできない味なのだから、今日は存分に堪能しなさい」
祖母が去り際に微笑み、やがて侍従が耳打ちする。
「殿下、これらはすべてニーナ嬢の父君の手によるものにございます。かつて王都で一、二を争った名パティシエであり、皇太后様も長年のご贔屓。しかし結婚を機に田舎へ移り、夢であった洋菓子店を開かれたそうです。その名が“デイジー”」
祖母は来賓をもてなしながら杯を傾け、上機嫌で言葉を添えた。
「このお菓子は、わたくしの大のお気に入りなの。だから無理を言って、王都に呼んだのですよ」
アーノルドは胸に手を当てる。
これまで食事はただ栄養を取るためのもの――そう考えていた。
だが今、甘い香りとともに広がる温もりに、心そのものが満たされていくのを感じていた。
これが、ニーナの守りたかった味。
これこそが、人を幸せにする力なのだ。
◇ ◇ ◇
宴が終わり、静けさを取り戻した廊下にて。
アーノルドは祖母の傍らに歩み寄った。
「おばあ様」
皇太后が柔らかく目を細める。
「どうしました、アーノルド」
少年は背筋を伸ばし、その瞳にまっすぐ決意を宿した。
「私は……人を幸せにする力を守りたいと思いました。そのために、もっと強くなります」
ニーナにとってのお菓子がそうであったように――
アーノルドは、この国に生きる人々がいつまでも安心して暮らせる国にしたいと強く願った。
誰かを幸せへと導く尊き力が、安易に踏みにじられることがないように。
祖母は驚いたように孫を見つめ、やがて慈しむように微笑む。
「誇りとは、己を支えるもの――ようやく、あなた自身の言葉で理解できたようね」
アーノルドは静かに頷いた。
胸の奥に、あの少女の笑顔が鮮やかに浮かぶ。
きっと彼女はまた無茶をするだろう。だがその時は、自分が必ず守るのだ。
――ニーナに、再び会える日を信じて。
◇ ◇ ◇
――時は流れ、数年の歳月が過ぎた。
兄が王位を継承し、アーノルドは王弟として国政を支える立場に就いた。
祖母は流行り病に蝕まれ、誇り高き生涯を静かに閉じた。
彼の胸に残ったのは、深い喪失と、変わらぬ言葉だけだった。
『誇りは、己を支えるもの――』
ニーナと再び顔を合わせる機会は訪れないままだった。
それでも彼は折に触れて、デイジーの消息を調べさせ続けていた。
やがて届いた報せは、彼の心を揺さぶる。
――ニーナの両親が亡くなった。
幼き日、胸を張って「お菓子には人を幸せにする力がある」と語った少女。
両親の庇護を失った彼女がどう生きるのか、アーノルドは密かに案じていた。
だが続く報せは、彼の唇にわずかな笑みを灯す。
ニーナは店を継いでいたのだ。
小さな肩で、大切な味を守り続けていた。
誇りを失わずに立ち続ける彼女。
その姿を思うだけで、胸の奥に温かな熱が広がっていく。
しかし――同じ頃、彼女が暮らす領地からは、きな臭い噂が届き始めた。
一見急成長を遂げる領地の裏には、ほの暗い不正が潜んでいると……代替わりしたばかりの領主が関わっているのは明白だった。
財貨の横流し、脱税、賄賂――積み上げられた悪行は、水面下に淀んでいる。
「証拠を掴まねばなるまい」
アーノルドは静かに立ち上がった。
皇族としての務め――あの日、祖母に誓った決意を現実にするために。
そして……その裏には、否応なくもう一つの思いがあった。
――ニーナに会いたい。
ただその一心が、彼を駆り立ててもいた。
「殿下」
長年仕えてきた侍従が、微妙に口元を歪める。
「……半分は“下心”にございますね」
アーノルドは言葉を返さず、ただ視線を逸らした。
否定しきれない己の心を、侍従はとうに見抜いている。
けれど――それでも構わなかった。
務めと願いとを重ね合わせ、アーノルドは歩みを進める。
再び会うその時、彼女を守れるだけの力を携えて。
◇ ◇ ◇
再会した彼女は、変わらず誇りを掲げていた。
両親を亡くし、天涯孤独となってもなお、一人で店を守ろうと立ち向かっている。
大切なものを守るために。
その姿が、アーノルドの胸を強く突き動かした。
危険を省みず、無鉄砲に飛び込んでしまう性格は、あの頃と何ひとつ変わっていない。
だが、それを支える芯の強さもまた、あの頃のままだった。
思わず笑みをこぼしそうになる自分を、ぐっと押し殺す。
――簡単なことだ。
皇族であると名を明かし、権力を行使すれば、理不尽に彼女の店を潰そうとする輩など一掃できる。
「王室御用達」とでも告げれば、領主も迂闊には手を出せなくなるはずだ。
だが、それではニーナは決して喜ばないだろう。
彼女が求めているのは、施しでも憐れみでもない。
誇りを胸に掲げ、自らの力で立ち上がろうとしているのだから。
ならば――自分にできることは、ただ見守ること。
彼女の誇りを支える「影」となること。
まどろっこしいと分かっていても、その方がきっと彼女は笑う。
そして、彼女の笑顔が見たいと願う自分がいる。
アーノルドは、ニーナを応援したいと思った。
少年の頃、彼女から与えられた「小さな勇気」の恩に報いるように。
そして――胸の奥で燻り続けていた想いを、今こそ確かめるために。
その後、ニーナの警戒心のない行動に振り回されたり、真っ赤に照れる仕草や、健気に踏ん張る姿に翻弄されたり。
やがて彼女を切望せずにはいられなくなる未来が訪れることを――この時のアーノルドは、まだ知らない。
けれど、胸の奥でその予感だけは確かに芽吹き始めていた。
fin.
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