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第一章
その一 一
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大きな火鉢を置いてあたたかくした自室の居間で、由貴がこたつに入ってうとうとしていると、廊下の方から足音と騒がしい声が聞こえてきた。
由貴はとろけるような心地よい眠りを妨げられ、うっすら瞳を開けた。いつの間にかこたつ布団の裾に丸くなっていた飼い猫の太郎も、大きな瞳を見張って廊下の気配に耳を澄ませている。
「邪魔いたすぞ、大久保殿はおられるか」
次の間の襖が勢いよく開く音とともに、田山の声が響いた。廊下に面した次の間には、長年召し使っている藤尾が控えている。いきなりの訪問に面食らい、藤尾が午睡を取っておいでです、とおどおどと答える声。
まだ藤尾には、源次郎のことを話していない。ちりっ、と胸が痛むのを感じながら由貴はのそのそ起き上がった。懐から小さな鏡を取り出し、さっとまげやびんの乱れを直す。
「あ、お目覚めでござりましたか。田山様がお越しでござりまするが」
由貴を起こそうと襖を開けた藤尾が、畳に膝をつきかしこまって言う。お通ししてくれ、と言い終わらないうちに、田山が入ってきた。相当焦っているようだ。
「大久保殿、古畑を見なんだか。まったくあいつ、どこに行ったのやら困ったものだ」
由貴より少し後に御伽衆となった古畑四郎は、しっとりと落ち着いたたたずまいの由貴とは違い、武芸を好み活発で、切れるような凜々しさを持っている。
「またどこぞに雲隠れでござりますか」
「うむ、まったく大胆不敵な奴。殿から前触れをいただいておるのに、支度が間にあわぬではないか。そこらに隠れてはおるまいな、姿を見かけたらすぐ教えて下されよ」
田山は身体を揺すりながら早口にまくし立て、御殿の隅々まで一人で探しかねない勢いだ。
「せっかくのたまのお渡りだっ……」
藤尾は同時に田山と由貴ににらまれ、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「まあ、じきに戻ってまいりましょう」
由貴は笑顔を作って田山をなだめた。
「そ、そうだとよいのだが……。いや、お邪魔いたした」
田山はまたどたばたと、あわただしく四郎を呼びながら廊下を小走りに去っていった。
「つい口が滑りまして……。ところで、また急にこちらに殿がお渡り遊ばすかも知れませんね。念のためお支度なさいますか」
由貴はぼんやりした顔でうなずいた。藤尾は一言余計なことが多いのは出会った頃から変わらないが、よく気は回るようになった。
確かに田山の言う通り、藤尾を今手放すのは惜しい。よく人にとっつきにくいと言われ、自身も人づきあいの苦手さを自覚しているだけに、御伽衆の新入りに藤尾をやろう、そう決意するのには時間がかかった。
「……小島は……」
不意のつぶやきに、不思議そうに小首をかしげる藤尾。
「御長屋で召し使っている小島でござりますか?」
なぜ唐突にその名が出たのかと、藤尾はますます不審げに眉を寄せる。
御伽衆御殿で働く者達は、たいてい母屋脇の長屋に住み込んでいるが、小島は長屋付き役人として、長屋住まいの者達の身の回りの世話をしているうちの一人だ。
「きびきびとよく働くそうだな」
「はい、もう入って三年ほどになりますか。今やみななにかあれば小島小島、非常に助かっております」
それがなにか、と目で問う藤尾に、由貴は笑って小さく首を横に振った。小島を藤尾の代わりに、と思うようになっていたが、まずは田山に相談してからだ。
「四郎は見つかったのか、様子を見てまいれ。それによっては早く風呂を使わねば」
さようでござりました、と頭を下げると、藤尾は居間を出て行った。
見送った由貴は一つため息をついて、火鉢のそばに寄ると太郎を膝に抱き上げた。
「おお、だいぶ重くなったな。父親は奥御殿の誰かの猫か」
いつどこで種を仕込まれたものか、太郎という男子名を与えられた雌のトラ猫は、すっかり腹が大きくなって出産も間近と思われた。
「……お前や四郎がうらやましい……」
撫でられてうっとりと目を閉じている太郎を見つめながら、由貴はおどけた笑顔を一転させ、はかなげに微笑んだ。梅の花が散るように、かすかな色気が秘やかにこぼれる。
御伽衆とはそもそも、御家に功があったり当主気に入りの者が老齢になってから与えられる、名誉職のようなものだったという。その名の通り、当初はたまに呼ばれて、当主やその家族の話し相手に上がるのが役目だった。それがいつの間にか、男色を好む何代も前の当主達により、身近に仕える小姓などよりさらに露骨に、寵愛する目的で気に入った者を集めるようになった。そして当主の私的生活空間である奥向きには、女だけの奥と男だけの奥が両立するようになった。
もちろん、男色を嫌って自分では御伽衆を抱えなかった当主もいたが、長年御伽衆として仕えた者を役替えすることは難しかったらしい。若い頃から当主の寵を集めるためだけに生きてきた男達だ。仕事もさほどできず、周りの嫉妬なども激しかった。そのため、隠居には早すぎる年齢の者は御伽衆のまま残り、御伽衆という役職も残されてきた。先代の寵を受けた者達への遠慮で、残さざるをえなかったのだ。飼い殺しのような生活を、むしろ喜んでいた者も多かったという。
一度奥向きに上がった者は、老年となり隠居が許されるか、仕えていた主が亡くなるなどの特別な事情がない限り、それまではきっちり務め上げなければならない。当主一家の私的性的な生活をよく知るだけに、特に由貴ほどの立場になってしまうと、里帰りもそう頻繁には許されない。その分、その長年の奉公の代償として、老後には屋敷を与えられ豊かな生活が保障されている。
とはいえ、重い病にかかれば長期の宿下がりも許されるだろうし、貴之の怒りにふれれば御役御免もあり得ない話ではなかったが、由貴には仮病を使って人々を騙すことも、ましてや貴之を激怒させるような真似など、できるはずもなかった。
側に上がった時からずっと、寵愛してくれている貴之を裏切り続けているからだ。
貴之はいつだったか、寝物語に言ったことがある。
娘によい婿を取らせて隠居したら、紀美や由貴達数名の心許した者だけに囲まれ、静かにのんびり暮らしたいと。ちょっと顔を見たくなっても、思い立った時にすぐ足を向けられないのが、実はもどかしくて仕方ないのだと。
どこかよい場所に小さな隠居所を建て、常に愛する者達の顔を見て暮らしていたい、そう語りまぶしそうに未来を見ていた貴之の横顔を、由貴は忘れることができずにいる。
そんな由貴とは対照的に、四郎は田山に何度も説教されようと、奔放にふるまい続けていた。
四郎には密通の相手がいて、奥御殿に夜な夜な通っているという噂もあったし、今日のように夜伽の相手に選ばれ支度をしなければならないという時になって、姿を消してしまうこともある。
貴之は腹を立て、あまり四郎に声をかけなくなったが、役を免ずる気はないようだった。そうと分かって、より四郎の行動が派手になってきたように思うのだが、由貴は自分がとやかく言うものではないと思っている。
自分が深く深くこころに秘すものがあるように、四郎にもなにかあるに違いない。それが数年にわたり四郎を見てきての、由貴の結論だった。
「お前はいいな、太郎」
由貴はその先を声にしなかった。誰にも聞かれてはならない想いだからだ。
母猫のぬくもり越しにごろごろと伝わる胎児の動きを、そっと腹に当てた手や膝に感じつつ、由貴は今夜はこのぬくもりを抱いて眠りたい、と思った。
そして貴之の望みとはまったく違う、おそらくはかなうことのない夢に遊びたかった。
「子が生まれたらどうしような。引く手はあまただが、一匹ぐらいは残さぬとお前もさみしかろう、なあ」
両手で持ち上げるとあわてて胸にしがみついてきた太郎に声を立てて笑い、由貴はしばらくあやすように太郎を抱いていた。
案の定、夕食を終えた頃知らせがあり、貴之は由貴の居室にやってきた。本来ならば、指名を受けた者が御寝所で貴之を迎えるのが筋だが、格式ばったことを嫌う貴之は、相手が由貴となると直接部屋にやってくる。
「酒の用意を」
うやうやしく襖を開けた藤尾に言いつけながら部屋に入ってくると、貴之はむっつりした顔でこたつに潜りこんだ。
「今宵も冷えまするな」
平伏して貴之を迎えた由貴は笑顔を作り、自分が使っていた小さな火鉢を、貴之のそばに置いた。貴之はちらりと由貴を見ると、そばに置かれた火鉢を背後に押しやり、由貴の手を引く。
「火鉢よりも、人肌がよい」
貴之はにや、と笑い、由貴を抱き寄せてその足をこたつに入れさせた。
「ご機嫌を損ねてらっしゃるのかとばかり思っておりましたが」
由貴は貴之の腕に素直に身体を預けた。
せめてこうしている時は、貴之に従順でありたい。それがいいことなのか悪いことなのか、もう分からないけれど。
「ご機嫌は損ねておるぞ」
表情を変えず平たい声で言い、貴之は由貴の肩や二の腕のあたりをなでた。
「俺が来るかと思って風呂に入ったか」
こくり、と由貴はうなずいた。
「愛い奴よ」
小さな音をたて、貴之は由貴の首筋に口づけた。
「殿、お離し下されませ。間もなく藤尾が酒肴を……」
「面白うない、なにゆえ今さら御伽衆の新入りなどと」
唐突に貴之は言い、由貴を抱く腕に力をこめる。
「奥方様よりお聞き及びではござりませなんだか」
正月の松が取れるのを待って、源次郎は奥向きに入ることになっていた。暮れも押し迫り、それまではあとニ十日あまりとなっている。
由貴は貴之の顔を見ようとしたが、しっかりと抱いた腕がそれを許さなかった。
「聞いた。紀美はなにを考えておるのだ、新入りが入ろうと俺は見向きもせんぞ」
「殿、おやめ下されませ……」
腰のあたりをまさぐられ、由貴は身じろぎした。
「あ……」
いつも懐に忍ばせている小さな鏡を、不意をついて貴之の指がつまみあげる。
「ずいぶんと大事に使っておるな」
貴之はこたつの上に鏡を置いた。鏡はもう何年も由貴が肌身離さず持っているもので、鏡を包むちりめんの布は手垢に汚れ、色褪せすりきれてもいる。
「殿のおそばにある者、身だしなみ大事でござりますれば」
よい心がけよ、とつぶやいた声は、空虚だった。貴之はやはり、寒々しい建前の言葉など見破っているのだろうか。
由貴は鏡から目をそらす。
今もひそやかに想いを交わしあっている相手から贈られた鏡。三年前の正月だっただろうか、出入りの商人から届けられた年始の贈り物の中に紛れ込ませてあった。
手紙は覚えるほどに何度も読み、すぐに燃やしてしまう。決して相手が誰か、悟られてはならない。密会は年に一度の宿下がりの時と、寺社詣りで外出できた時など、年に数回あるかどうかだった。
貴之の想いの深さをこころに肌に刻まれるたびに、こころがきしむ。悲鳴を上げる。どんなに想われようと、どんなに抱かれようと、このこころを貴之に捧げることはできない。
会いたいと思う。そんな気持ちを申し訳なく思う。引き裂かれるような痛みとともに。
気づいた時には、衣擦れの音がしゅるりしゅるりと耳をくすぐり、袴が脱がされようとしていた。
「あっ、殿……。どうか、どうかここでは……」
「瞳も身体も、そうは言うておらんぞ」
由貴の引きこまれそうな深さを持つ、美しい瞳。そのしどけなさに欲情をそそられるままに、貴之は深く荒々しく由貴に口づけ、腰に手を回して帯も解いてしまった。
「……殿、殿……お許し下されませ……」
かすれた声も、貴之の欲情を煽るばかりのようだった。由貴は遠慮のない視線にうながされ、長いまつげを震わせながら、すっかりはだけられてしまった着物を滑らせて肩から落とした。
あらわになった白い上半身に、貴之はじらすようにゆっくり唇を落としていく。
「失礼いたします」
襖越しの藤尾の声。びくり、と反応した由貴の腰を片腕で抱き、貴之は不敵な笑みで襖に向かって言う。
「取り込み中だ、酒はそこに置いて下がっておれ」
は、ととまどい気味の短い返事があり、藤尾が去る気配。
「せっかく燗につけた酒が冷めましょう」
貴之の手を押しとどめながら言うと、無粋なことを申すな、と小声ながら厳しい声が耳に吹き込まれた。
「俺は腹を立てておるのだ」
およそ大名家の当主に似つかわしくない、乱暴な「俺」という言葉遣い。鋭い瞳は、殺気にも似た凄みすらある色気を宿している。
「四郎には、田山様からも……」
「違う」
ぴしゃり、と頬を打つような、強く険しい言葉。
「なぜ、新入りのこと反対せなんだ」
由貴は敷布の上に押し倒されながら、きつく瞳を閉じた。
きっと貴之の心中には、さまざまな疑念が渦巻いているのだろう。今のままが心地よいと、奥向きに人を増やすことを貴之は日頃から望んではいなかった。それを紀美もよく知っているはずだった。
それがなぜ今さら、側室候補ならまだしも、御伽衆なのか。なぜ事前の相談がなかったのか。紀美はなにを考えているのか。なにか企んでいるのではないか。自分の意向を知っているはずなのに、周りの者達はなぜ反対してくれなかったのか。
そういう思いが怒りとなって、今ぶつけられている。
企み、という言葉に、由貴は内心はっとした。
今まで由貴は素直に紀美の言葉を受け取っていたが、田山と共に庭で紀美に謁したあの時、紀美に由貴はかばわれたのかも知れなかった。
「お前達はなにを考えておるのだ、俺をたばかるつもりではあるまいな」
予想通りの言葉に、由貴は覚悟した。
今由貴を組み敷いている貴之は、猛った瞳をしている。
食い荒らされる。だがあらがうことは許されない。
「別してそのようなことはござりませぬが、どうぞ殿のお気の済むように……」
ふん、と暗く笑って、貴之はこたつを無造作に押しやり、由貴の喉に食らいついた。
愛しい人のさわやかな笑顔と声が思い出され、涙が出そうだった。
もうこれ以上、偽ることも裏切ることも、耐えられそうになかった。
由貴はとろけるような心地よい眠りを妨げられ、うっすら瞳を開けた。いつの間にかこたつ布団の裾に丸くなっていた飼い猫の太郎も、大きな瞳を見張って廊下の気配に耳を澄ませている。
「邪魔いたすぞ、大久保殿はおられるか」
次の間の襖が勢いよく開く音とともに、田山の声が響いた。廊下に面した次の間には、長年召し使っている藤尾が控えている。いきなりの訪問に面食らい、藤尾が午睡を取っておいでです、とおどおどと答える声。
まだ藤尾には、源次郎のことを話していない。ちりっ、と胸が痛むのを感じながら由貴はのそのそ起き上がった。懐から小さな鏡を取り出し、さっとまげやびんの乱れを直す。
「あ、お目覚めでござりましたか。田山様がお越しでござりまするが」
由貴を起こそうと襖を開けた藤尾が、畳に膝をつきかしこまって言う。お通ししてくれ、と言い終わらないうちに、田山が入ってきた。相当焦っているようだ。
「大久保殿、古畑を見なんだか。まったくあいつ、どこに行ったのやら困ったものだ」
由貴より少し後に御伽衆となった古畑四郎は、しっとりと落ち着いたたたずまいの由貴とは違い、武芸を好み活発で、切れるような凜々しさを持っている。
「またどこぞに雲隠れでござりますか」
「うむ、まったく大胆不敵な奴。殿から前触れをいただいておるのに、支度が間にあわぬではないか。そこらに隠れてはおるまいな、姿を見かけたらすぐ教えて下されよ」
田山は身体を揺すりながら早口にまくし立て、御殿の隅々まで一人で探しかねない勢いだ。
「せっかくのたまのお渡りだっ……」
藤尾は同時に田山と由貴ににらまれ、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「まあ、じきに戻ってまいりましょう」
由貴は笑顔を作って田山をなだめた。
「そ、そうだとよいのだが……。いや、お邪魔いたした」
田山はまたどたばたと、あわただしく四郎を呼びながら廊下を小走りに去っていった。
「つい口が滑りまして……。ところで、また急にこちらに殿がお渡り遊ばすかも知れませんね。念のためお支度なさいますか」
由貴はぼんやりした顔でうなずいた。藤尾は一言余計なことが多いのは出会った頃から変わらないが、よく気は回るようになった。
確かに田山の言う通り、藤尾を今手放すのは惜しい。よく人にとっつきにくいと言われ、自身も人づきあいの苦手さを自覚しているだけに、御伽衆の新入りに藤尾をやろう、そう決意するのには時間がかかった。
「……小島は……」
不意のつぶやきに、不思議そうに小首をかしげる藤尾。
「御長屋で召し使っている小島でござりますか?」
なぜ唐突にその名が出たのかと、藤尾はますます不審げに眉を寄せる。
御伽衆御殿で働く者達は、たいてい母屋脇の長屋に住み込んでいるが、小島は長屋付き役人として、長屋住まいの者達の身の回りの世話をしているうちの一人だ。
「きびきびとよく働くそうだな」
「はい、もう入って三年ほどになりますか。今やみななにかあれば小島小島、非常に助かっております」
それがなにか、と目で問う藤尾に、由貴は笑って小さく首を横に振った。小島を藤尾の代わりに、と思うようになっていたが、まずは田山に相談してからだ。
「四郎は見つかったのか、様子を見てまいれ。それによっては早く風呂を使わねば」
さようでござりました、と頭を下げると、藤尾は居間を出て行った。
見送った由貴は一つため息をついて、火鉢のそばに寄ると太郎を膝に抱き上げた。
「おお、だいぶ重くなったな。父親は奥御殿の誰かの猫か」
いつどこで種を仕込まれたものか、太郎という男子名を与えられた雌のトラ猫は、すっかり腹が大きくなって出産も間近と思われた。
「……お前や四郎がうらやましい……」
撫でられてうっとりと目を閉じている太郎を見つめながら、由貴はおどけた笑顔を一転させ、はかなげに微笑んだ。梅の花が散るように、かすかな色気が秘やかにこぼれる。
御伽衆とはそもそも、御家に功があったり当主気に入りの者が老齢になってから与えられる、名誉職のようなものだったという。その名の通り、当初はたまに呼ばれて、当主やその家族の話し相手に上がるのが役目だった。それがいつの間にか、男色を好む何代も前の当主達により、身近に仕える小姓などよりさらに露骨に、寵愛する目的で気に入った者を集めるようになった。そして当主の私的生活空間である奥向きには、女だけの奥と男だけの奥が両立するようになった。
もちろん、男色を嫌って自分では御伽衆を抱えなかった当主もいたが、長年御伽衆として仕えた者を役替えすることは難しかったらしい。若い頃から当主の寵を集めるためだけに生きてきた男達だ。仕事もさほどできず、周りの嫉妬なども激しかった。そのため、隠居には早すぎる年齢の者は御伽衆のまま残り、御伽衆という役職も残されてきた。先代の寵を受けた者達への遠慮で、残さざるをえなかったのだ。飼い殺しのような生活を、むしろ喜んでいた者も多かったという。
一度奥向きに上がった者は、老年となり隠居が許されるか、仕えていた主が亡くなるなどの特別な事情がない限り、それまではきっちり務め上げなければならない。当主一家の私的性的な生活をよく知るだけに、特に由貴ほどの立場になってしまうと、里帰りもそう頻繁には許されない。その分、その長年の奉公の代償として、老後には屋敷を与えられ豊かな生活が保障されている。
とはいえ、重い病にかかれば長期の宿下がりも許されるだろうし、貴之の怒りにふれれば御役御免もあり得ない話ではなかったが、由貴には仮病を使って人々を騙すことも、ましてや貴之を激怒させるような真似など、できるはずもなかった。
側に上がった時からずっと、寵愛してくれている貴之を裏切り続けているからだ。
貴之はいつだったか、寝物語に言ったことがある。
娘によい婿を取らせて隠居したら、紀美や由貴達数名の心許した者だけに囲まれ、静かにのんびり暮らしたいと。ちょっと顔を見たくなっても、思い立った時にすぐ足を向けられないのが、実はもどかしくて仕方ないのだと。
どこかよい場所に小さな隠居所を建て、常に愛する者達の顔を見て暮らしていたい、そう語りまぶしそうに未来を見ていた貴之の横顔を、由貴は忘れることができずにいる。
そんな由貴とは対照的に、四郎は田山に何度も説教されようと、奔放にふるまい続けていた。
四郎には密通の相手がいて、奥御殿に夜な夜な通っているという噂もあったし、今日のように夜伽の相手に選ばれ支度をしなければならないという時になって、姿を消してしまうこともある。
貴之は腹を立て、あまり四郎に声をかけなくなったが、役を免ずる気はないようだった。そうと分かって、より四郎の行動が派手になってきたように思うのだが、由貴は自分がとやかく言うものではないと思っている。
自分が深く深くこころに秘すものがあるように、四郎にもなにかあるに違いない。それが数年にわたり四郎を見てきての、由貴の結論だった。
「お前はいいな、太郎」
由貴はその先を声にしなかった。誰にも聞かれてはならない想いだからだ。
母猫のぬくもり越しにごろごろと伝わる胎児の動きを、そっと腹に当てた手や膝に感じつつ、由貴は今夜はこのぬくもりを抱いて眠りたい、と思った。
そして貴之の望みとはまったく違う、おそらくはかなうことのない夢に遊びたかった。
「子が生まれたらどうしような。引く手はあまただが、一匹ぐらいは残さぬとお前もさみしかろう、なあ」
両手で持ち上げるとあわてて胸にしがみついてきた太郎に声を立てて笑い、由貴はしばらくあやすように太郎を抱いていた。
案の定、夕食を終えた頃知らせがあり、貴之は由貴の居室にやってきた。本来ならば、指名を受けた者が御寝所で貴之を迎えるのが筋だが、格式ばったことを嫌う貴之は、相手が由貴となると直接部屋にやってくる。
「酒の用意を」
うやうやしく襖を開けた藤尾に言いつけながら部屋に入ってくると、貴之はむっつりした顔でこたつに潜りこんだ。
「今宵も冷えまするな」
平伏して貴之を迎えた由貴は笑顔を作り、自分が使っていた小さな火鉢を、貴之のそばに置いた。貴之はちらりと由貴を見ると、そばに置かれた火鉢を背後に押しやり、由貴の手を引く。
「火鉢よりも、人肌がよい」
貴之はにや、と笑い、由貴を抱き寄せてその足をこたつに入れさせた。
「ご機嫌を損ねてらっしゃるのかとばかり思っておりましたが」
由貴は貴之の腕に素直に身体を預けた。
せめてこうしている時は、貴之に従順でありたい。それがいいことなのか悪いことなのか、もう分からないけれど。
「ご機嫌は損ねておるぞ」
表情を変えず平たい声で言い、貴之は由貴の肩や二の腕のあたりをなでた。
「俺が来るかと思って風呂に入ったか」
こくり、と由貴はうなずいた。
「愛い奴よ」
小さな音をたて、貴之は由貴の首筋に口づけた。
「殿、お離し下されませ。間もなく藤尾が酒肴を……」
「面白うない、なにゆえ今さら御伽衆の新入りなどと」
唐突に貴之は言い、由貴を抱く腕に力をこめる。
「奥方様よりお聞き及びではござりませなんだか」
正月の松が取れるのを待って、源次郎は奥向きに入ることになっていた。暮れも押し迫り、それまではあとニ十日あまりとなっている。
由貴は貴之の顔を見ようとしたが、しっかりと抱いた腕がそれを許さなかった。
「聞いた。紀美はなにを考えておるのだ、新入りが入ろうと俺は見向きもせんぞ」
「殿、おやめ下されませ……」
腰のあたりをまさぐられ、由貴は身じろぎした。
「あ……」
いつも懐に忍ばせている小さな鏡を、不意をついて貴之の指がつまみあげる。
「ずいぶんと大事に使っておるな」
貴之はこたつの上に鏡を置いた。鏡はもう何年も由貴が肌身離さず持っているもので、鏡を包むちりめんの布は手垢に汚れ、色褪せすりきれてもいる。
「殿のおそばにある者、身だしなみ大事でござりますれば」
よい心がけよ、とつぶやいた声は、空虚だった。貴之はやはり、寒々しい建前の言葉など見破っているのだろうか。
由貴は鏡から目をそらす。
今もひそやかに想いを交わしあっている相手から贈られた鏡。三年前の正月だっただろうか、出入りの商人から届けられた年始の贈り物の中に紛れ込ませてあった。
手紙は覚えるほどに何度も読み、すぐに燃やしてしまう。決して相手が誰か、悟られてはならない。密会は年に一度の宿下がりの時と、寺社詣りで外出できた時など、年に数回あるかどうかだった。
貴之の想いの深さをこころに肌に刻まれるたびに、こころがきしむ。悲鳴を上げる。どんなに想われようと、どんなに抱かれようと、このこころを貴之に捧げることはできない。
会いたいと思う。そんな気持ちを申し訳なく思う。引き裂かれるような痛みとともに。
気づいた時には、衣擦れの音がしゅるりしゅるりと耳をくすぐり、袴が脱がされようとしていた。
「あっ、殿……。どうか、どうかここでは……」
「瞳も身体も、そうは言うておらんぞ」
由貴の引きこまれそうな深さを持つ、美しい瞳。そのしどけなさに欲情をそそられるままに、貴之は深く荒々しく由貴に口づけ、腰に手を回して帯も解いてしまった。
「……殿、殿……お許し下されませ……」
かすれた声も、貴之の欲情を煽るばかりのようだった。由貴は遠慮のない視線にうながされ、長いまつげを震わせながら、すっかりはだけられてしまった着物を滑らせて肩から落とした。
あらわになった白い上半身に、貴之はじらすようにゆっくり唇を落としていく。
「失礼いたします」
襖越しの藤尾の声。びくり、と反応した由貴の腰を片腕で抱き、貴之は不敵な笑みで襖に向かって言う。
「取り込み中だ、酒はそこに置いて下がっておれ」
は、ととまどい気味の短い返事があり、藤尾が去る気配。
「せっかく燗につけた酒が冷めましょう」
貴之の手を押しとどめながら言うと、無粋なことを申すな、と小声ながら厳しい声が耳に吹き込まれた。
「俺は腹を立てておるのだ」
およそ大名家の当主に似つかわしくない、乱暴な「俺」という言葉遣い。鋭い瞳は、殺気にも似た凄みすらある色気を宿している。
「四郎には、田山様からも……」
「違う」
ぴしゃり、と頬を打つような、強く険しい言葉。
「なぜ、新入りのこと反対せなんだ」
由貴は敷布の上に押し倒されながら、きつく瞳を閉じた。
きっと貴之の心中には、さまざまな疑念が渦巻いているのだろう。今のままが心地よいと、奥向きに人を増やすことを貴之は日頃から望んではいなかった。それを紀美もよく知っているはずだった。
それがなぜ今さら、側室候補ならまだしも、御伽衆なのか。なぜ事前の相談がなかったのか。紀美はなにを考えているのか。なにか企んでいるのではないか。自分の意向を知っているはずなのに、周りの者達はなぜ反対してくれなかったのか。
そういう思いが怒りとなって、今ぶつけられている。
企み、という言葉に、由貴は内心はっとした。
今まで由貴は素直に紀美の言葉を受け取っていたが、田山と共に庭で紀美に謁したあの時、紀美に由貴はかばわれたのかも知れなかった。
「お前達はなにを考えておるのだ、俺をたばかるつもりではあるまいな」
予想通りの言葉に、由貴は覚悟した。
今由貴を組み敷いている貴之は、猛った瞳をしている。
食い荒らされる。だがあらがうことは許されない。
「別してそのようなことはござりませぬが、どうぞ殿のお気の済むように……」
ふん、と暗く笑って、貴之はこたつを無造作に押しやり、由貴の喉に食らいついた。
愛しい人のさわやかな笑顔と声が思い出され、涙が出そうだった。
もうこれ以上、偽ることも裏切ることも、耐えられそうになかった。
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行く当てがなくなった僕を保護してくれたのは、元夫が口を開けば罵っていた政敵ヘルムート・カウフマン。
冷徹無慈悲と呼び声高い彼だが、共に食事を摂ってくれたりやりたいことを応援してくれたり、決して冷たいだけの人ではなさそうで――。
カクヨムに書き溜め。
小説家になろう、アルファポリス、BLoveにそのうち掲載します。
路地裏の王子様と秘密のカフェ ―10年ぶりに再会した親友はトップアイドルでした―
たら昆布
BL
大学生の千秋がバイト帰りの路地裏で助けたのは、今をときめくアイドル『GALAXY』のセンター、レオだった。
以来、レオは変装して千秋の働くカフェへ毎日通い詰めるようになる。
「千秋に会うと疲れなんて全部消えちゃうんだ」
トップアイドルとは思えないほど素直に懐いてくるレオに、千秋は戸惑いながらも多忙な彼を支えたいと願うようになる。
しかし、千秋はまだ知らない。
レオが10年前に「また絶対会おう」と約束して別れた泣き虫な親友の玲央本人だということに。
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
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