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北方遠征編

レオニクス・ヘネラール

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 北部闘牙族中心部『フロスト・ブレイヴ』。
 大気温はヴァシム城近辺よりも十度近く低くなっており、肌寒さも覚える。季節が移り、雪が積もる頃になればその気温差は十度では効かなくなるくらい寒くなるらしい。三分の一と言わず、一年の半分は飢えると言われても信じてしまいそうだ。

「暖かいところはあるかなぁ」

 ロルフの隣でメゼスが溶けそうになりながら、いや、事実、体の一部を粘体に変えながら呟いた。
 お菓子作りがしばらくできておらず、疲れがたまっているらしい。

「流石にあるとは思うけどねえ」

 荒れているとはいえ中心部。
 それぐらいはないと、統一したところで闘牙族の先行きは怪しい。

「生クリームをたっぷり使った山盛りのホールケーキを作りたい……。大きくなったクノヘでも食べられないくらいの大きさの……。ロルフのとこのおチビちゃんが埋まるくらいに生クリームを盛り付けたやつが作りたいよぉ」
「設備なら貸すから、是非とも俺の家で作ってよ」

 少なくとも、食べきれるだけの面子はいるとロルフは思っている。メゼス一人で食べきれるのかもしれないが、甘いものが好きな人は多いため、是非ともロルフの邸宅で作って欲しいという思いがあるためだ。

「今作りたいの」

 頬を膨らませる形で、メゼスがむくれっ面を晒した。肩をすくめる。
 直後に、後ろから振り返らずとも物量によってわかるかのような鋭い視線が飛んできた。メゼスの粘体が体に戻って行き、しっかりと人型に戻る。気分なのか、プラチナブロンドの髪にウェーブをかけて、少し伸ばしていた。

「シルヴェンヌ様が怖い」

 懲りずにメゼスが言ったが、シルヴェンヌからの圧は弱くなっている。見た目はしっかりとしているからだろうか。
 ロルフが半ばメゼスに呆れながらピレアを視界の端に捉えると、顔面を蒼白にして、紫色の唇を諤々と震わせていた。

(堂々としてりゃあいいのに)

 実力は確かなのだから、と付け足して。ついでに言うなら少数でも戦える胆力も。
 芸術の港、ミュゼルでエヘルシットの将軍、ウェルズの精鋭相手に時間稼ぎを敢行したのだ。並大抵の実力者ではなく好奇心も旺盛だからこそ、ロルフは彼女の同行を決めたというのに。まあ、元々いなかったから、残しておかなくてもヴァシム城周りを睨むのに問題ないという理由もあるが。

 視界を戻すと、柵による多重防壁が開けられ、中から先触れを買って出た闘牙族出て来た。後ろには立派な鴨頭草(つきくさ)(青味の深い水色のような落ち着いた色)のマントをたなびかせた、アレイスターよりも筋肉質な闘牙族の男。

「陛下、あれが我が弟のレオにクス・ヘネラールにございます」

 アレイスターがセスの視界を遮らない位置、そしてロルフやメゼスにもしっかりと下げた頭が見える位置で膝をついて、奏上した。

 仮にも族長が取る行動ではない。もっと下の者が取るべき態度だ。

 現に、レオニクスと紹介された男の顔が強張ったのが遠くからでも見える。レオニクスの不快感を確認したのはロルフだけではなかったようで、シルヴェンヌの機嫌が降下したのが背中を向けていても分かった。メゼスの顔は変わっていないが、変えていないだけかもしれない。
 何より、よろしくない影響が出ているとはっきり分かったのは、ピルヴァリとその配下に緊張が走ったことだ。

 レオニクスが不快感を完全に露にしないことで、セスに形だけでも忠義を誓っているのが見えたのはまだいい。だが、同時に援軍と闘牙族の間にいきなり亀裂が入りかねない行動である。

 レオニクスが途中で馬から降り、近くに来ていた翼人族に預けて徒歩で近づいてきた。胸は堂々と張っており、戦闘に備えて着けているのであろう籠手も勇ましく振られている。顔も下げることはせず、目線は真っすぐに、セスを見ているともとれる向きで。兄とは真逆の印象を受けた。
 レオニクスが近づくたびに、竜人族の目が鋭くなっていく。いつでも飛び掛かれるように、すぐにでも襲えるように。
 レオニクスはその中を、速度を微塵も変えず、堂々と歩いている。兄のアレイスターは顔を下げ気味にして、眉を寄せていた。口元は引き締められている。

 レオニクスが膝をついた。セスとレオニクスを結ぶ線を引き、アレイスターからその線に直交する線を引けば、レオニクスは直交する線より後ろである。顔がようやく下がった。

「随分と堂々とした行進ね、レオニクス・ヘネラール。ここに来たのは余計なお世話だったと思ってもよろしくて?」

 掟破りもいいところだ。
 基本的には謁見者が最初に言葉を発する。そうでない場合は、最上位者が最初になるはずだ。
 最上位者の妻が誰よりも先に口を開くなど、前代未聞である。

「ねえ、アレイスター」

 シルヴェンヌの冷たい声は、次に闘牙族の族長に牙を剥いた。

「そのようなことはございません。陛下の力なくては、闘牙族の統一はありえないこと。雲を掴めと言うようなことにございます。弟の愚かな行いは、平に、平にご容赦ください」

 レオニクスの目が大きくなり、アレイスターの方を向いた。
 当のアレイスターは、地面にこすりつけんばかりに頭を下げている。ピルヴァリの目にも、動揺が走ったように見えた。
 あまりにもへりくだりすぎているように見えれば、それもそうだろう。

「イリアス・ヘネラールが礼儀を失するような男には見えなかったのだけれど、貴方の弟は立派な父の何を見て生きてきたの?」
「返す言葉もございません」
「セス様、他の頭目の話も聞きましょう。イリアス・ヘネラールの後がこれでは、人心が離れるのも納得がいってしまいますわ」

 シルヴェンヌのこの言葉には焦ったのか、レオニクスの目が地面に行き、固まった。意識してはいないだろうが、体も当初より一段下がっている。

「シルの言い分も、理解できるの」

 セスがアレイスターもレオニクスも見ず、右手を開いて目を落とした。
 遊ぶように指を動かしている。
 アレイスターが前に出た。ちらっと見えた額には、土がついている。

「案ずるでないアレイスター」

 アレイスターが何かを言う前に、セスが制止した。動かしていた右手首を止めて、セスの目がアレイスターに移る。

「礼を失したのはこちらも同じ。手打ちと行こうではないか」

 アレイスターの頭が勢い良く下がった。

「ありがたき幸せ。陛下の御寛大な判断に、感謝申し上げます」

(ま、これで完全に竜人族は抑えられたか)

 本気だった可能性も否めないが、シルヴェンヌがあのような言い方をすることで他の者はレオニクス、ひいては闘牙族を責める機会を失った。過剰なまでに低いアレイスターの腰も、竜人族の留飲を下げるのに一役買っただろう。同時に、この混成軍において逆らってはいけないのは誰かを改めて知らしめる結果になった。

「シルも、気をつけよ」
「はい」

 萎んだ声を出して、シルヴェンヌが極僅かに頭を下げた。

「さて、レオニクスよ」
「はっ」
「先ずは皆に暖を取らせ、休息を与えたい。案内を頼めるな」
「かしこまりました」

 今度はレオニクスが深々と頭を下げた。

「して、陛下の兵はいかばかりでしょうか?」
「聞いておらぬか? ここに居るのは、四百八十ほどだ」
「四百八十……」

 絶句したわけではなく、どちかというと数の少なさに違和感を覚えたような声であった。
 少し前までは数千単位だと考えれば、その異様な減りに驚くのは仕方ないとしても、どこか別の、侮っているような感情すら見受けられる。

 そう感じたのはロルフだけではないようで、折角静まった雰囲気が、剣呑さを取り戻しつつあった。アレイスターは、ここで初めて弟にきつい視線を送っている。

「それから」

 その中でも一切雰囲気を変えずに、セスが黒い沼を足元に広げた。レオニクスに警戒の色が出ないのを確認して、ロルフの中に少しだけ安堵の感情が湧く。

 セスが沼から一枚の書状を糸で釣りあげた。

「他の派閥の者にも伝えてほしいことがあるのだ。疾く、我の下に現れよ、と」

 書状のうち一枚がレオニクスに投げ渡された。

 そう、糸で投げ渡されたのだ。

 直接セスから受け取ったという意味では厚遇と言えるかもしれないが、遠くにいるうちに、ぞんざいに渡されたと考えれば扱いが軽い。

「そちの不満だが」

 セスが沼から取り出して座っていた椅子から立ちあがった。
 レオニクスがつられて顔を上げかけて、下げなおす。

「武闘派に決闘を申し込むことで一つ、取り払おう」

 ゆっくりとセスがレオニクスに向けて歩を進めた。
 メゼスの前を過ぎると、メゼスがセスの後ろに付き従い始める。

「同時に決闘のみで武闘派を取り込むことで我からの援軍となす。我らの力による屈服だが、我の軍勢ではなく闘牙族の仲間。そちも、使いやすかろう?」

 セスがレオニクスの前にしゃがんで、レオニクスを見下ろした。

「……お心遣い、感謝いたします。されど、闘牙族の族長は我が兄。そのようなことは、兄にお聞きください」

 アレイスターがセスに向くように、座ったまま半分体を動かした。

「さりながら、陛下を迎え入れる準備を進めていたのは弟にございます。何より、私よりも弟の方が戦闘に向いております故、陣頭指揮を執るのは弟。武闘派を扱わせようとしてくださった陛下の慧眼、誠に畏れ入ります」

 ロルフは少し、馬鹿馬鹿しくなった。
 耳をすませば、ロルフの後ろに控えているピレアがアレイスターの言葉を小声で繰り返しているのが聞こえる。

「要らない言葉だよ」

 ロルフも小声で、でも聞こえてもいいやと思いながらピレアに言った。
 ピレアの言葉が止む。

「ささやかながら、歓迎の式典も開きたいと思っておりますので」
「良い。そのようなことをしている余裕はなかろう」

 アレイスターの言葉をセスが遮った。

「アルコールも水も食糧も、全てが貴重なもの。祝杯に取っておいた方がよろしいかと」

 アレイスターが次の言葉を挟むよりも早く、メゼスが生真面目に、ナギサに口調を寄せて言った。
 同時に、ナギサから「陛下が一番に何かを口にされるようなことがあれば、絶対に止めてくれ」と頼まれていたので、ロルフはその役割をしてくれたメゼスに感謝をしておく。

 セスの目がメゼスに行った後、立ち上がってアレイスターに体を向けた。

「では、案内してもらおうかの」
「承知いたしました」
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