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誰にとっての幸福

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 そう、じゃない。

「誰の、というより……もう私には子供が産めないんだって思ったら悲しくて。
 自分が、女性ではなくなってしまう気がして」

 そうだ、私は女性として妊娠、出産できないのが悲しいんだ。卵巣を失ってしまうのが怖いんだ。

 秀一は腕を伸ばし、美姫の黒髪を指で優しく梳いた。

「卵巣があってもなくても、子宮を失おうとも、貴女が女性であることに変わりはありませんよ。
 魅力的で美しい、私の愛する女性です」

 美姫の胸が熱くなった。

「ッッ……将来、結婚して、子供を産んで、お母さんになるのが夢だったんです。お父様とお母様みたいに仲のいい、夫婦になって……ッグ」

 涙声でそう答えた美姫に、秀一は悲愴な眼差しを向ける。

「貴女は、幸せの意味を履き違えている。結婚したからといって、子供を産んだからといって、決して幸せになれるわけではないのに。
 貴女にとって本当の幸せは、なんですか」
「ウッ……ウゥッ……」

 美姫は、肩を大きく揺らした。

 分かってる。
 結婚して子供を産めば、幸せになれるだなんて限らない。

 私が子供を産んだところで、大和とまた絆を取り戻すことは出来ないだろうってことは、気付いてる。

 でも、私にはどうしていいのか分からない。
 どうしたら、皆が幸せになれるのか……

 秀一のライトグレーの瞳が近づいた。その瞳の奥は、美しくありながらも胸を締め付けられるほどの切なさで揺れていた。

「貴女は、羽鳥大和だけでなく、兄様や姉様、財閥の人間、世間……全ての人間の顔色を窺い、怯えて暮らしている。

 そんなに世界中の人間に愛されたいのですか? 愛されなければ、気が済まないのですか?
 全ての人に愛される人間など、この世にはいないというのに。

 たとえ神さえも……神を憎む人間だっている、私のように。

 私が愛されたいのはたった一人、美姫だけです。たとえ世界中の人間が私を嫌おうとも、憎もうとも構わない。
 貴女さえいてくれれば、それでいいのに。

 どうして貴女は……いつまでも少女のような幻想から抜け出せないのですか」

 美姫はボロボロと涙を零した。

「ウッ、ウゥッ……わた、しは……誰、も……傷つけ、たくないだけ。
 私のせい、で……不幸に、なって……欲しく、ない」

 秀一の長い指先が、美姫の涙を掬い上げる。

「誰も傷つけずに生きている人間などいませんよ。多かれ少なかれ、意識的、無意識的にも関わらず、人は誰かを傷つけて生きているのです。

 貴女は自分の考えを人に押し付け、幸せの価値を決めつけている。人間が幸か不幸かを感じる基準は、その人の気持ち次第です。出来事そのものや与えた人間が問題ではなく、それをどう受け取るか、どう感じるかによって決まります。
 自分の痛みは、結局自分で乗り越えるしかない。幸せになりたいのなら、他人に頼らず、自分で掴み取るしかないのです。

 貴女は、余計なことを考えすぎるのです。自分にとってどうするのが一番幸せになれるのか、それを考えればいい」
「簡単に……言わ、ないで下さいッグ」

 それが出来ないから、こんなに苦しんでるのに。

 美姫は肩を大きく揺らして泣いた。

 秀一が美姫の頭を優しく撫でた。

「簡単、ですよ。
 ただ、そこに飛び込む勇気さえあれば……簡単です」
「ウッ、ウゥッ……」

 泣き続ける美姫の頭を、ずっと秀一は撫で続けた。

 美姫が落ち着いたのを見計らって、秀一はサイドテーブルに置いてあった下剤と睡眠剤を美姫の掌にのせた。

「そろそろ薬を飲んで、休まないといけませんよ」
「まだ、寝たくありません」

 お願い、一人にしないで……

 心細そうに見上げた美姫に、秀一は優しく微笑んだ。

「大丈夫ですよ。面会時間が終わるまで、横についていますから」

 それでも不安そうな顔を見せる美姫の耳元に、秀一が顔を寄せ、耳元で囁いた。

「添い寝、してあげましょうか」

 美姫は全身を跳ねさせた。

「け、結構です!!」

 薬を飲むと、美姫は瞼を閉じた。けれど、いつ秀一が自分から離れてしまうのか不安だった。

「秀一さん……子守唄を、歌ってくれませんか。小さい頃に歌ってくれた、あの子守唄を」

 手を握ることも叶わない。だからせめて、彼の声で存在を感じたかった。

 フッという息が聞こえ、「いいですよ」と柔らかく秀一が答えた。
 
 小さく息を吸う気配を感じ、秀一が子守唄を歌い始める。それは、『コサックの子守唄』というロシア語の子守唄で、秀一が幼かった頃に母親が歌ってくれたものだった。

 眠れや愛し子 安らかに
 空から月も のぞいてる
 お聞きよ私の 子守歌
 まどろむお前の 頬に微笑えみ

 やがては旅立つ 愛し子よ
 門出に手を振る りりしさよ
 見送る涙が 母の夢
 眠れや愛し子 安らかに

 異国の言葉で意味は分からなかったものの、物悲しく叙情的な響きに、幼いながらも胸を締め付けられた感情が蘇る。

 秀一さんは今、何を想ってこの唄を歌っているんだろう。
 私はもう……子守唄を子供に歌うことなく、一生を終えるのかな。

 どうして私は、秀一さんへの想いを断ち切れないんだろう……

 さまざまな思いが、秀一の切ないメロディーと混ざり合って溶けていく。

 美姫はいつの間にか、眠りに落ちていた。

 秀一は美姫の寝息が深くなったのを確認し、口遊むのをやめた。



「美姫……どうか、私を選んで下さい」



 眉を寄せ、唇に顔を寄せたものの、動きが止まる。そこから上へ移動し、額に口づけた。
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