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1章

12.二頭一対

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 意識が急速に覚醒していく。
 そこは暗い場所だった。
 それもそのはずで、そこは謎の空間に行く前に僕がいた場所──ベヒモスの足の真下であったからだ。

 どうやらあれから時間はあまり経っていないようで、僕の体はまだ潰されていない。
 しかし、それでも遅いながらも時間は進んでおり、足は既に僕が横になってしまえばすぐさま接触しそうなほどにまで近づいている。

 そんな絶望的な状況だが、不思議と僕の頭は冷えていた。
 風きり音が僕の思考を研ぎ澄ましていく。

 直後、凄まじい轟音が都市の中央、白亜の塔まで届いた。



 赤髪の男は腹を抱えて笑っていた。

「まさか、もうその域まで到達するとは……!君はいつも僕の期待をいい意味で裏切ってくれるね」

 男の笑い声はどこまでも晴れ渡る青空に吸い込まれていった。


 砂煙が立ち込める原野。その中心、砂煙の発生地、カラスは少年の死を確信していた。
 最後に確認できたのはベヒモスの足と少年の距離が僅か数Cセルチとなった頃までであったが、少なくともカラスの知識の中にはあの状態から助かる術は存在しない。
 人並の知恵を誇る大ガラスはその瞳に涙を溜め、確信を持ってベヒモスの上空を飛び回っていた。

 一方、ベヒモスは不安に駆られていた。
 確かに自分はこのニンゲンを踏み潰したはずだ。
 あの状態から逃れる術は知らないし、逃れられたとしてもその存在に気づけない筈がない。
 自分の足はを踏んだ感触を訴えている。
 しかし、生物として圧倒的な強者を相手にしているかのような不安が足元から徐々に這い上がってくる。
 神話に生きる伝説の獣は怯えていた。

 ここで、ベヒモスは大きな失態を犯す。いや、厳密には失態とは言えない。
 なぜならそれは、その巨躯故にがもたらした生物的欠陥であったからだ。

 ベヒモスが踏んだのは正確にはオズではなかった。足の下にオズがいることは間違いないが、踏んだのはオズではない。

 果たしてその答えは──

 僕の視界を埋め尽くすのは金色こんじきの八芒星とベヒモスの足の一部。
 ベヒモスの足は僕の目と鼻の先でその動きを止めていた。



 対物理防陣──術者が注ぎ込む魔力量によってその効力を変化させる物理攻撃と呼ばれるもの全てを弾く防御である。
 魔法とはそもそものカラクリが異なる『法』ではなく『術』によってこの世の改変を行う正真正銘、神の御業である。
 その正体は至極単純である。
 この世界に存在するありとあらゆる法則、それを無視できず、法則から逸脱することを不可能とする『魔法』。
 しかし、黒髪の少年が用いたものはそれとは一線を画する。
 この世界に存在するありとあらゆる法則を無視……するのではなく、その根底となる世界創造に等しい御業こそが『魔術』であるのだ。



 謎の空間にて泉の水を口にした僕は膨大な知恵と共に新たなる力──魔術に目醒めざめていた。

 その力は絶大で、術者である僕自身驚いていた。
 知識の海から咄嗟に引っ張り出した物理防護魔術。
 まさか、殺す気で放たれたベヒモスの攻撃を微塵も揺らぐことなくとは……。

 どうやら2匹の怪物はまだ僕が生きていることに気づいていないようで、追撃をしてくる気配は感じられない。
 しかし、状況は何も好転はしていない。
 物理防護魔術を使用できたのは完全なまぐれだ。
 たまたま開いたページが自分の見たいページだったのと同じ様なものだ。
 ベヒモスとカラスの猛攻の中、攻撃用の魔術を模索するのは並の守護者であれば可能だったであろう。
 己の権能で誤魔化してきたが、僕の守護者としての能力は権能を除けば、全くの人並みであるのだ。
 権能を、しかも使い慣れていない戦闘用の権能を使いながら、魔術に意識を割く余裕は今の僕にはない。
 助けを呼ぶのも手の1つだが、並の守護者では被害者を余計に出すだけだろう。
 だが、今の今まで誰もやってこないのをみると、上位の守護者たちに助けを求めるのは難しいだろう。

 つまり、僕は先ほどとほとんど変わらない状況でこの場を収めなくてはならないのだ。
 望みがあるとすれば、唯一変わった”ほとんど”の部分であるが、それも期待はできない。

 物理防護魔術のおかげでダメージを受けることはない。だけど、体力の関係でこれ以上戦闘用の権能を行使するのは危険極まる僕もあの2匹に傷を負わせることはできない。

 僕の生存に気づいたベヒモスは全体重を乗せ僕を押し潰そうとする。
 しかし、揺らぎもしないその盾に驚愕に目を剥く。
 物理攻撃しかできないベヒモスは僕に全くダメージを与えられなくなっていた。

 一方、カラスはと言うと、ベヒモスが邪魔で僕に攻撃ができないでいた。
 どけ、と言うように何度も鳴いているが、焦りに囚われたベヒモスにその声は届かない。

──ここしかない!

 思い出せ、ベヒモスの最期を。

 このベヒモスは
 本来のベヒモスならなどではない。
 であればいける筈だ。
 振り絞れ。
 魔力、体力、気力、己の全てを振り絞れ。

 傷はないが、満身創痍の少年。
 傷はあるが、ほぼ万全の怪物。

 いま、再び、2匹の獣が衝突した。



 ベヒモスの足元から抜け出し、『アタランテ』ですぐさま距離を取る。
 そして再び駆け出す。
 その間僅か数瞬。
 カラスの認知速度を千切り、加速する。
 神速。
 そう呼ぶのに相応しい加速。
 驚きに目を剥く怪物だが、未完成といえど世界を分かつ伝説の獣の1頭、カラスのようにはいかない。
 
 加速した体を浮かせ、権能を
 今まで僕が持っていた速度にあとの移動の全てを任せる。
 一撃だ。
 一撃で終わらせる。
 
右の手の甲が熱を放ち、淡く光を灯すが気にしている暇はない。
 集中しろ。極限まで神経を研ぎ澄ませろ。
 足りないなら何かを犠牲にしてでもかき集めろ。
 聴覚、味覚、嗅覚、それに触覚も
 見えていればそれで十分だ。
 狙いは必中、穿つは過去の因縁。
 思い起こすは、神が作りし最強の生物、海の怪物『レヴィアタン』。
 陸のベヒモス、海のレヴィアタンと、『最高の生物』と称されるベヒモスに対して、『最強の生物』と呼ばれるレヴィアタンを己の身に宿す。
 今──遥か昔、神代に造られし傑作の獣たちの戦いが現代に蘇ろうとしていた。



 凄まじい激痛。
 思わず、声を漏らし、顔をしかめる。
 その不可は『暴力の女神ビアー』とは比べ物にならない。
 だが、それも一瞬だ。
 あっという間にベヒモスの眼前へと近づく僕はその全身を強固な藍色の鱗で覆い、熱と光を放つ右の拳には炎を纏う。
 そのあまりの高温に右腕の鱗からどんどんと黒く変色して行く。
 さらなる激痛に飛かける意識を必死に繋ぎ止める。
 振り抜かれる拳、放たれる極炎。
 全てを灰塵に化す終焉の炎が今解き放たれた。

 紅に染まる視界の中、僕は確かに見た。見てしまった。
 醜悪にも巨大なその口を僅かに吊り上げるベヒモスの姿を。



 ベヒモスは不安に駆られながらも勝利を確信していた。
 迫る矮小な存在は傷こそないものの既に満身創痍だ。
 
 それももう終わる。
 そう思った最中、少年の体が鱗で覆われていく。さらには小さな手に炎を宿しはじめた。

──なんだ、それは!?

 かすかに残る神代の記憶。その中でも最も強烈で鮮明な唯一の記憶。
 荒れ狂う自分よりも大きな巻き上げられた水たちと自身に迫る終焉の炎。
 その時、自分はどう対抗したのか。
 霞んでいく記憶の中にそれはない。しかし、本能が訴えている。この好敵手との決戦と血を欲している。
 ならば、あとはそれに委ねるだけだった。



 加速する思考で、開かれるベヒモスの口が遥かに遅く感じられる。
 徐々に口の中で光を放ち出す威光。最強の生物と渡り合ったベヒモス唯一の遠距離攻撃。
 自身の有り余るエネルギーを集結させて放つ純粋なエネルギー弾。
 ベヒモスの巨体から放たれるそれはさぞ強力なのだろう。
 だが、忘れてはならない。

──このベヒモスはなのだ。

 ベヒモス、最大の攻撃であるが、まずサイズが足りない。
 本来のベヒモスは余りの大きさ故に1頭しか存在しないと言われたほどの存在なのだ。
 建築物と比べられる時点で完全ではないのだ。

 それ故に結末は変わらない。
 レヴィアタンの威光と弱体化したベヒモスの威光。
 当時は拮抗できた力の衝突。
 しかしそれは余りにも呆気ない終わりを迎える。

 一瞬にして極炎に呑まれる極光。
 凄まじい轟音と共に炎に包まれる、都市を揺らがした怪物。断末魔すら燃やし尽くしてベヒモスは掻き消えた。
 後に残るのは草や土ですら炭化し、黒く染まった大地のみであった。

 こうして、巨大な獣と矮小な獣の戦いは幕を閉じた。

 朦朧もうろうとする意識の中、いつの間にか逃げ出していたカラスの後ろ姿とカラスの向かう先──白亜の塔だけが僕の目にこびりついていた。
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