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12:<木曜日> ジンジャーチャイ

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 入り口から寒い風が店内に吹き込む。
 三人揃って外を見ると、派手な色のダウンコートを着た田中さんが立っていた。

「雛……!」
「お、お兄ちゃん!? なんでここに!?」
「そこの店主から、聞いた」
 
 楓は、そっと染さんと田中さんの様子を窺った。
 実は、今日の昼に田中さんが店を訪れた際、染さんが雛ちゃんのことを伝えたのだ。
 
(未成年を夜に店で預かるのだから、連絡をしておいた方がいいよね)
 
 雛ちゃんは、戸惑いを隠せない様子で田中さんを見つめている。怒られると思っているのだろう。
 けれど、田中さんはカウンター席に座って、雛ちゃんに言った。

「よそ見しないで、勉強しろ。そのために、ここへ通っているんだろ?」
「え? 怒らないの? 勝手に学校を早退して、勝手にカレー屋さんにお世話になっているのに」
「思うところはあるが、俺なんて授業をさぼる常習犯だったから、雛のことをどうこう言えない。しかも、高校中退だ」
「それは、お父さんが死んじゃったからでしょ?」
「いや、どうかな。そうじゃなくても、勉強は嫌いだったから。お前は俺に似ず真面目で勉強ができる。それだけですごいと思うぞ」
 
 雛は、信じられないというように、兄の顔を凝視し続けている。
 
「いいの……?」
「最初は反対した。でも、ここの店主が少しの間だけ勉強を見させて欲しいと言ってきたんだ。受験まで時間もない、やれるだけやってみろ。真面目に学校の授業に出てくれるに越したことはないがな」
「お兄ちゃん……」
「ただ、夜の街を一人で歩くのは駄目だ。だから、これからは俺が迎えに来る。この時間帯なら、仕事は終わっているから」
「ありがとう!」

 雛ちゃんは勉強に戻り、店内に静寂が訪れる。
 楓は染さんの許可を得て、田中さんにジンジャーチャイを淹れる。
 チャイにはいろいろな種類があるのだ。
 いつも店で出しているのはマサラチャイだけれど、今日のチャイには生姜とブラックペッパーが入っている。温かくなる組み合わせだ。
 他にもレモングラスやミントを使った爽やかな種類もある。
 
「おう、ありがとな」
 
 店の掃除を終え、楓は染さんに声をかける。
 
「染さん、ヘメンのご飯、あげておきましょうか?」
「ありがとう、鍵は店の奥にかかっているから」
「了解です」
 
 最近は、忙しいときには楓がヘメンの世話をしている。
 モフモフで癒やされるから、率先して引き受けているのだ。
 楓たちの様子を見た田中さんが、「お前ら、夫婦か?」なんて突っ込んでいた。
 そんなわけがないのに。
 
 
 ヘメンに餌をやって戻ると、勉強を終えた雛ちゃんが染さんや田中さんと話をしていた。
 
「ねえ、カレー屋さんは、どうしてそこまでしてくれるの? 私に勉強を教えても、メリットないよね」
「うーん、昔の自分と重なって見えたからですかね。僕も受験のときはいろいろありました。それに、メリットはありますよ。大事な常連さんの確保です」
「心配しなくても、十分確保できてるよ。ここのカレーはおいしいもん! 無事に大学生になれたら、私、アルバイトをするんだ。そのお金で、カレーを食べに来るよ」

 結局、雛ちゃんの言ったことは実現しないのだけれど、彼女は別の形で洋燈堂と関わることになる。それはまた別の話。
 田中さんと雛ちゃんは、二人仲良く夜道を帰っていった。
 
(私も早く、正社員の仕事を見つけなきゃ……だけど)
 
 最近、楓はまともに求人情報を見ていない。
 洋燈堂の居心地がよすぎて、ここを離れたくない気持ちが出てき始めたのだ。
 このままではいけない、染さんにお世話になりっぱなしではいけない。わかっているのに。
 今、なんとか生活できているのは、染さんが無料で家を貸してくれているからなのだ。

「あの、染さん」
「ん、何?」
「……いいえ、なんでもないです」
 
 まだ冬だし、新しい求人がたくさん出始めるのは、年が明けてからだし。
 駄目だとわかっていても、先送りにしたい。
 
「そうだ楓ちゃん、今度の木曜は定休日なんだけど。一緒に買い出しに行かない?」
「いいですよ」

 最近の洋燈堂は不定休なのだ。
 お店の壁や、楓の始めたインスタやツイッターに月ごとの定休日が記載されている。
 
「休みの日にごめんね。代わりに好きなスパイスを、なんでも買ってあげるよ。お菓子も」
「子供扱いしないでください」
 
 いつかは自立しなきゃならない、いつまでも甘えられない。
 けれど、やみくもに適当に仕事を選んでも、また同じ結果の繰り返しになる。
 今度は失敗しないよう、慎重に動かなければ。

(自分のやりたい仕事、ちゃんと考えよう)

 年下の女の子に触発されてしまった。

(私も、もっと頑張ろう)

 パンパンと頬をたたいた楓は、染さんと別れ、一階にある部屋へ戻るのだった。
 
 ※
 
 次の木曜は、はらはらと雪が降っていた。初雪だ。
 学生の頃から使っているコートにマフラーを巻き、楓は店の外に出た。

「楓ちゃん、行こうか」

 染さんは、倉庫からワゴン車を出している。
 大きいので配達では乗らないけれど、買い出しのときなどに利用していた。

「運転しましょうか?」
「いいよ。休日に付き合わせちゃうんだし、運転くらいさせて?」
 
 染さんは楓を助手席に押し込み、自分は反対側のドアから運転席へ乗り込む。
 この日向かうのは、スパイスを扱っているお店だ。何店舗か、回るらしい。
 
 洋燈堂では、インドから直接スパイスを送ってもらうこともあるし、業務用通販で買うこともあった。
 新しい食材が欲しいときや在庫の減りが早い場合は、こうして買い出しに行くこともある。いつもは染さんが行っているので、楓は初めてだ。
 本当は染さん自ら海外にスパイスを仕入れに出かけたいらしいけれど、人手と資金が足りないので難しいそうだ。

(私が料理もできるようになれば、染さんは自由に動けるのかな……だ、駄目だ、正社員の仕事を探す身なのに!)
 
 ソワソワしているうちに、一件目の店に着いてしまった。
 オフィス街の中の古い雑居ビルの三階がスパイス店みたいだ。
 無機質な階段を上がり、薄暗い廊下を進むと、異国風の店が現れる。
 扉は開けっぱなしだ。

「ここですか?」

 楓は入店するのを躊躇した。
 というのも、お店の中が海外の店そのものだったからだ。
 並んでいるのは、外国製品ばかり。商品説明もヒンディー語だ。
 染さん曰く、ここは一番良心的な価格の店で、様々な食材が手に入る場所らしい。

「わぁ、スパイスがいっぱい」

 近所のスーパーとは比べものにならないほどのスパイスが、大袋で棚いっぱいに積み上げられている。

「マスタードシード、コリアンダーシード……ニゲラもある! アサフェティダも……」

 アサフェティダは「悪魔のクソ」と呼ばれるほど強烈な香りがする。取扱注意のスパイスだ。
 けれど、油で炒めれば、タマネギのような香りになる。

「豆が安い! レンズ豆が、一キロで三百五十円だって! ムング豆も安いですよ!」

 店の奥に、大量の豆の入った袋がたくさんあった。
 ちなみに、ムング豆は緑豆とも言う。洋燈堂でダルカレーに使用する豆がこれだ。
 海外のベジタリアンの人たちは、タンパク質を取るためにこの豆を食べることが多いという。

「あっちの冷蔵庫には、肉が置いていますね! チキンレッグがいっぱい!」

 最初は怖がっていた楓だが、だんだん楽しくなってきた。
 
「楓ちゃん、お米と豆とクミンシードとマスタードシード、カルダモン、コリアンダーとメースを買うよ」
「かしこまりました!」
「お米と豆は重いから、楓ちゃんは持っちゃ駄目。僕が持つよ」

 染さんは、インドのバターであるギーや、各種オイルなども買っている。
 お会計の間、キョロキョロと店内を見ていると、お菓子のコーナーがあった。

「バルフィ、ドーサ、ミタイ、イドリ? ドーサとイドリは、ミックスの粉がある」

 あいにく、インドのお菓子には詳しくない。
 
「楓ちゃん、お菓子が欲しいの?」

 棚を物色していると、染さんが声をかけてきた。
 
「ち、違います。気になって、見ていただけで」
「遠慮しなくていいよ」

 染さんは、お菓子とミックスの粉を一通りレジへ持って行ってしまった。
 また、子供扱いされた気がする。
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