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18:<土曜日> サグカレー

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 幼い頃から、理は双子の兄の染に引け目を感じて生きてきた。よくある話だ。
 出来の良すぎる兄に、平凡な弟。
 いくら努力しても追いつけない、両親には何の期待もされていない次男。
 
 賀来家は庶民だけれど、代々堅い仕事に就く者の多い家だ。
 唯一の例外は祖父と兄。
 祖母は幼稚園の園長、父は大学の教授、母は中学教諭、親戚の大半も教職や公務員といった家系で、そんな中、医師免許を持つ兄は周囲に期待されていた。

 理といえば、兄に追いつこうと彼の真似をしてもどうにもならず、結局両親のすすめで教員免許を取り、高校教諭の職に就いた。
 特になりたいものもなく、なんとなくで働き始めた仕事だ。
 しかし、両親の時代と現代の教員の事情は違う。
 そして、教職は理に合っていなかったようで、就職三年目の今年は、体重が十キロ落ちた。
 
 全ての雑用を投げてくる先輩教員、社会人としてアウトな言動を繰り返す同僚、言うことを聞かない生徒、クレーマーの保護者。一向に改善しないし、させてくれない時代遅れの非効率的なアナログ事務作業。
 
 真面目に取り組めば取り組むほど感情はすり減り、苦しさだけが蓄積されていく。
 理は、自分の限界が近づいていると感じていた。
 とはいえ、せっかく就いた仕事を三年で投げ出して良いはずがない。これからも耐えなければ。

(耐えるって……あと何年?)

 十年、二十年、三十年。本当に自分はこの仕事を続けていけるのだろうか。
 問題なく勤め上げられる自信がない。
 簡単に仕事を投げ出し、海外へ逃亡した兄が羨ましかった。
 
 だからだろう、彼の現在の職場に足が向かったのは。
 田舎の駅、住宅街の奥地、もともと祖父が働いていた店の跡。錆びた階段を上がった先が兄の職場。
 前に一度来たことがあったが、客も少なく、道楽としか思えない仕事ぶりだった。
 なぜ、優秀な兄が医者を辞め、流行らないカレー屋なんてしているのか。意味不明だったので、文句を言って帰ったのを覚えている。
 
 次に店を訪れたとき、従業員が増えていた。
 以前より客も多いが、授業員を雇うほどでもないと感じる。
 まだ年若いアルバイトの女性は、今からでも正社員として人生をやり直せそうだ。
 だというのに、どうして、こんなへんぴな場所のカレー屋でアルバイトをしているのか。
 
 だが、その理由は庭に干してあった、ファンシーな柄のタオルを見て発覚した。
 住み込みだったのだ。
 兄と付き合っているわけではないので、わけありの女性なのだろう。

(なんで、そんなややこしそうな相手に関わるんだ)

 ますます兄が理解できない理だった。
 勉強しかしてこなかった世間知らずの兄に何かあっては大変だと、謎の女性従業員と話をしてみたが、至って普通の人間だった。
 単に偶然が重なり、兄が彼女に住む場所を貸していたらしい。
 楓という女性は、あのカレー屋が好きだから働いているという、かなり変わった人物だ。
 見ていてヒヤヒヤする、どうにも危なっかしい。
 
 楓と別れたあとは、染の店へ向かった。
 自分が苦しみながらも仕事を続けているのに、フラフラと自由に過ごしている兄が許せない。
 両親も染を心配している。まともな職に再就職させなければ。

 店は定休日だが、染はカウンターの奥で兎と遊んでいた。
 自分が深刻に思い悩んでいるときに、なぜ兄はこんなにも平和に生きているのか。
 腹が立ったので文句を言ったら、「まあまあ」と飲み物を出された。酒だった……
 そこから先の記憶がない。
 
 気づけば理は、カウンターの奥で机に突っ伏して眠ってしまっていた。
 周囲にはカレーの匂いが漂い、いつの間にか楓が店に来ている。
 いったいどれほど寝ていたのだと時計を見ると、もう夜になっていた。
 丸半日、爆睡していたようで気まずい……
 
 カウンターの上には、白いカレーが三人分置かれていて、明らかに一緒に食事をする流れだ。
 今すぐにでも帰りたいが、ここで彼らを振り切って出て行くのは大人げない。
 仕方なく、理は染や楓と一緒にカレーを食べることに決めた。
 
 食べながら、楓の前の職場について尋ねる流れになる。
 彼女は新卒でアルバイトに就いたわけではなく、過去に正社員として働いていた。
 しかも、誰でも名前を知っているような有名IT企業の子会社で。
 
「なんで、そんなまっとうな会社を辞めて、カレー屋のアルバイトをしているんだ、君は!」

 思わず叫んだ理は、悪くないはずだ。

「そう言われましても」

 楓は前の会社への未練が全くないようで、困った様子で頬に手を当てた。
 兄も楓も、どこか抜けているところがある。
 こんな調子で、カレー屋を経営していけるのだろうか。急に心配になってきた。

「そうだ、見てよ、理。今度、このイベントに出るんだ」

 唐突に染が一枚のポスターを持ってきた。大きく「カレーフェス」と書かれている。

「へえ、どのカレーを出すんだ?」
「それが……」
 
 二人の目が泳いだ。これは、何も決まっていないに違いない。
 
(大丈夫なのか、締め切りはもうすぐだというのに。いやいや、俺は何の心配をしているんだ。カレー屋を辞めさせるつもりだったのに、フェスを応援してどうするんだ)
  
 聞けば聞くほど頼りなく思える経営状況。
 大いなる不安を胸に抱き、理は洋燈堂をあとにしたのだった。
 
 ※
 
 翌週の土曜、理は再び洋燈堂へ向かっていた。
 明日がフェスの申し込みの締め切りだから、心配で来たわけでは断じてない!
 ……と、心の中で唱えながら。
 
 この日は職場が休みだったが、休日出勤だ。
 学年主任の英語教師に、雑務を押しつけられた。

 もう夜だが、ラストオーダーの時刻はまだのはず。
 ちなみに、理の職場の高校は先週から冬休みに入っているけれど、教師は通常通り平日出勤。
 先週の金曜日は有休を使った。
 
 正月だけは休めそうだが、それ以外は部活の仕事があるので無休。
 理は、特に強くも弱くもない、バトミントン部の顧問だ。
 バトミントン競技の経験はないけれど、若い教師が運動部の顧問になる決まりなので仕方がない。
 ルールを一から調べ、なんとか部活を回している。
 
 頭がクラクラし、足下もおぼつかない。
 やっとのことで階段を上りきり、店の扉を開けた。

「いらっしゃいませ……あ、理さん! こんばんは」

 楓がちょこまかと動き、理をカウンターへ案内する。
 時間が時間なので、会計をしている客が二組と、配達員が二人待機していた。
 前よりも、流行っているみたいだ。

 カウンターの前には、楓が書いたであろうメニューが置かれている。地味に上手な、兎のイラスト付きだ。
 
  <土曜日>

 本日のカレー(サグカレー:ほうれん草のカレー)
 
 
 知らない名前のカレーだが、手書きの説明があったので理解できた。
 帰った客の皿を片付けながら、楓が遠慮がちに話しかけてくる。
 
「サグカレーって、青菜全般を使ったカレーのことなんですよ。北インドでは菜の花のカレーを指すそうですが、洋燈堂で用いるのは主にほうれん草です。この時期、手に入りやすいので」
「本場では、ほうれん草を使わないのか?」
「いいえ。北インドでは、ほうれん草のカレーはサグではなく、パラクやパラックと呼ぶそうです。ただ、日本人が経営するカレー屋ではサグと呼ぶのが主流なんです」
 
 手早く皿を洗い終えた楓は、キッチンからスープを持ってきた。

「トマトスープです、良かったらどうぞ。染さんが、トマトを仕入れ過ぎちゃったみたいで。お客さんにサービスしているんです」
「…………」

 本当に、この店の経営は大丈夫なのだろうか。
 染はといえば、キッチンで黙々と緑色のドロドロ(ほうれん草のペースト)を作る作業をしている。
 ミキサーの轟音で、こちらの会話は聞こえていないようだ。

「そういえば、フェスで出すカレーは決まったのか?」
「ええと、その」

 歯切れが悪い。まだのようだ。

「候補はあるんです。でも、うちの店は新参で有名でもないから、もっとインパクトが欲しいというか。あと一歩何か足りないというか」
 
 良くも悪くも、楓は妥協できない性格らしい。
 他に客がいなくなったので、彼女は店の奥からフェスに出すカレーの候補の写真を持ってきた。

「この赤いカレーと白いカレーを、合い掛けしようと考えているのですが」
「すごいトッピングだな」
「インスタ映えです。日々研究しています」
 
 これは、染一人では絶対に思いつかない案だろう。
 
  
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