戦場に跳ねる兎

瀧川蓮

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プロローグ

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ネルドラ帝国の経済界に多大な影響力をもつグリュー・ライドは胸の高鳴りを抑えられなかった。会社での会議を終え帰路につく途中、彼はこの世のものとは思えないほど美しい少女から目が離せなくなった。

身長が低い割にメリハリのある体。魅力的な紅く美しい髪の毛。どこか儚さが漂う美少女に心を奪われたグリューは、年甲斐もなく声をかけた。

まもなく四十代にもなろうという男が、どこからどう見ても十代の少女に声をかけるなど普通はあり得ない。グリュー自身、これまでそのような行為に及んだことは一度もなかった。

経済界にその名を轟かせるグリューだったが、そもそも自ら女性に声をかけるといった行為が未経験なのである。そんな彼を衝動的に突き動かすほど、彼女は魅力的だった。

顔を叩くシャワーの湯が心地いい。グリューは顔をゴシゴシと洗うと、続けて全身をくまなく洗った。今、彼はホテルの一室でシャワーを浴びている。

ダメ元で少女に声をかけたのだが、思いもよらず彼女はグリューについてきた。幼さの残る顔立ちではあるものの何とも言えない色香を纏う少女。これから始まる甘美な時間を想像しただけで、グリューの下半身へ血液が集まり始めた。

「あー、さっぱりした。君もシャワーを浴びてはどうかね?」

グリューは胸の高鳴りを抑えつつ、ベッドに腰掛けた少女に話しかけた。やはり何度見ても素晴らしい美少女だと再確認する。

「私はいいです」

恥ずかしがっているのか、少女は少しうつむき加減だ。そんな姿も愛おしいとグリューは正直に思った。

「そんなことより、早くこっちに来ませんか?」

少女が服を一枚脱ぐ。それを見たグリューはもう我慢できなかった。足早にベッドへ近づくと、少女の両肩を手で押さえそのまま押し倒す。

「い、いいのかい? ぼ、僕なんかで……?」

「ええ……あなたじゃないとダメなんです」

歓喜に打ち震えたグリューだったが、その刹那腹部に激痛が走る。全身を寒気が駆け巡り、口からはだらしなく赤い体液が垂れた。

「な……なな……ご、ごれ……ごれあ……」

少女は覆いかぶさっているグリューの両肩を下から掴むと、力づくで横に投げ飛ばした。みっともなく床へ大の字に倒れるグリュー。その腹には一本のナイフが突き立てられていた。

ひゅーひゅーと変な呼吸音が静かな室内に響く。少女はベッドの上からじっとグリューを見つめる。無表情な顔からは感情がまったく読み取れない。

少女にナイフで刺されたのは理解できる。だが、なぜ自分がこのような目に遭うのかが理解できない。敵が多いのは自覚している。だが、このような少女まで敵にした覚えは――

「……あなたは、この国にとって邪魔な人間です……」

少女が感情を窺えない声色でグリューに声をかける。

国にとって邪魔な人間? 私が? ああ、そういうことか。なら彼女は……。何ということだ。生まれて初めて一目惚れし声をかけた少女がまさか――

そこまで考えが及んだとき、グリューの視界が白く染まった。


生命活動を停止しただの肉塊となったグリューにそっと近づいた少女は、彼の手首と首元に手をあてた。

「……脈なし。生命活動の停止を確認」

グリューが死んだことを確認した彼女は、自身の腕に装着してある腕時計型の通信機を起動させる。

「こちら「鮮血」のリザ。たった今任務を完了した。これより隠蔽いんぺい工作したのち帰還する」

『了解。ご苦労様でした、リザ隊長』

通信を終えたリザはグリューの持ち物をあさり始めた。痴情のもつれ、もしくはモノ盗りの犯行に見せかけるためである。

幼いころから過酷な殺しの訓練を受けてきた彼女にとって、グリューを殺すことなどわけのないことだ。ネルドラ帝国の特殊機関に所属する彼女は、これまで数多くの要人暗殺に成功してきた。実際はこのような回りくどいことをせずとも、もっと簡単に殺害できたのである。

だが、今回は国による暗殺だと気づかれるわけにはいかない。グリューはネルドラ帝国の経済界に多大な影響力をもつ。国が暗殺に関与したとなると、外国への亡命を考える者が出始めるかもしれない。

グリューは優れた事業家だったが、ネルドラ帝国が目論む覇道には否定的だった。当初は泳がせておく方針だった国の上層部だが、彼が公然と国を批判し反対勢力を増やす活動に注力し始めたため放置できなくなった。

その結果がこれである。

偽装工作を終えたリザは、脱いだ上着を再び羽織ると防犯カメラの死角を縫ってホテルから抜けだした。

これまで大勢の命を奪ってきた。今回もただの任務、仕事だ。幼いころから人間兵器として育てられてきた自分にとって、人の命を奪うことだけが存在する理由。

自分に何度もそう言い聞かせる。私は鮮血のリザ。シャーレのリザ。暗殺者で人間兵器のリザ。

でも、それらは本当の私? ううん、私は何? 何も分からない。

頬を撫でてゆく冷たい風を感じながら、リザは大通りの人混みのなかを駆けだした。
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