トラップ便所

ブつもサこ

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トラップ便所

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 学校でうんこをするのは大罪だ。
 死刑に相当するくらいに。


「だれも、いないよね」

 二階の踊り場から、左右をうかがう。
 誰もいない廊下へ、ぼくは飛びだした。
 古い床板をきしませながら、薄暗い校舎を駆けぬける。突き当たりのドアへ滑りこむ。胸を撫でおろす。
 
  顔をあげた。
  
 ブルータイルの海が見える。奥に切られた小窓は北向きで、網入りガラスの薄い影が、投網みたいに投げ散らかされてあった。それは、白いモルタルの壁に走ったヒビや、黄ばんだ陶器の洗面台、赤っぽく曇った鏡なんかも、いっしょくたに絡めとっている。
 
 上履きの舟を、海へ漕ぎだす。
 
 運動場の声が、潮騒となって遠く聞こえる。左手に並ぶ小便器は、錆びたパイプで壁に繋がれ、まるで係留船みたいだ。トラップにへばった尿石はフジツボそっくりで、トイレブラシくらいでは、歯もたたないに違いない。

 このトイレは、忘れられた港に似ている。
 汚くて、静かで、だれもいない。いつ来ても、なんど訪ねても、けっしてなにも変わらない。
 化石状に時のとまった空間は、いつもぼくを安心させる。

「ふう」

 安堵の息と同時に、肛門がガス漏れを起こした。中身が出ないよう、慌てて引き締める。
 
 小学生にとって、学校でうんこをするのは大罪だ。見つかれば、即有罪。笑われ、さらされ、ばい菌扱いされる。いわゆる『社会的な死』ってやつだ。

 嘘でも大げさでもない。
 現に、兄の幼なじみがそんな目にあった。
 
 彼は、小学五年生の夏に、トイレで踏ん張っていたところをクラスメイトに発見され、『ゲリッパ』と命名された。
 
 小気味いい響きが受けたのか、そのあだ名は中学にあがっても引き継がれ、不良たちの格好の的になった。
 公開オナニーや強制ものまね、カツアゲ、パシリ、サンドバッグ。一通りのいじめを受けたすえ、面白半分に蹴りまわされ、左足をびっこにされたらしい。
 高校は定時制へ進学したけれど、小中五年間でねじくれた足と性格は治らず、結局は中退したという噂だった。
 
 もう何年も前に兄から聞かされた話は、今でもぼくを震えあがらせる。
 もし、自分がそんな目にあったら……
 不吉な想像に、冷汗がにじんだ。濡れた鼻先を、指でぬぐう。
 
 そこを、かすかな悪臭がかすめた。
 
「また臭ってる」

 ぼくは、しかめた顔を北窓へ向けた。
 このトイレが臭いのではない。
 町の北はずれにある、肥料工場の臭いだ。
 学校が風上にあたるため、普段は臭くも何ともない。しかし、たまの風向きで、薬品と堆肥の混じりあった腐臭が、学校まで運ばれてくるのだった。
 
「風、そんなに強かったっけ」

 さっき校舎裏を通ったとき、空気は静かだった。立てつけの古いトイレの小窓も、震えていない。
 
 嫌な臭いだ。
 臭いだけじゃない。
 なにしろゲリッパは、あの肥料工場に勤めているのだ。兄の話では、中卒のうえにびっこだから、人の嫌がる仕事に就くしかなかったらしい。
 
 もういちど、鼻をぬぐった。
 
 ゲリッパのような人生なんて、死んでも送りたくない。
 これからやってくる青春や、出会うであろう素敵な友達、いつか結ばれるかわいい彼女……
 そういったすばらしい将来をフイにしないためにも、学校でうんこをしているだなんて、絶対に知られてはならない。
 
 黒カビの浮いたタイルの目地へ、黄色い上履きをのせる。一歩足を踏みだすたび、便意は暴力的に肛門を殴りつけた。
 暴発させないよう、慎重に足を運ぶ。
 
「がまん、がまん、あとちょっと」
 
 便秘症のくせに、すぐにお腹を壊す──それが、ぼくの体質だった。
 
 保育園のころは、両親から事情を聞いた先生が、先回りをして面倒を見てくれたので、それほど困らなかった。
 幼稚園になると、下を気にかけてもらうのが恥ずかしくなった。けれど、お漏らしをする子はめずらしくなかった。ぼくは、その常連というだけだった。
 
 だが、小学校へ進むと、悠長にはしていられなくなった。
 お漏らしは、日常にはありえない、特別な見せ物になってしまった。
 ちょうどそのころ、兄からゲリッパの話を聞かされたこともあって、ぼくは強くおののいた。
 恐怖はストレスとなり、便秘と腹下しを加速させる。そして、さらにストレス。完全な悪循環だ。
 
 冗談のつもりで披露した話が、ぼくを不登校手前にまで追いつめたことに、兄は責任を感じたらしかった。三晩かかって、知恵と記憶をひっくり返し、この旧校舎のトイレを思い出してくれた。
 
 なんでも、いまぼくたちが使っている新校舎は、兄が小学校を卒業する年に完成したもので、兄たちの代までは、ずっと旧校舎で過ごしてきたらしい。
 兄とぼくは一回りも年が離れているから、もう十年以上も、旧校舎は使われていないことになる。うんこをするには、神様みたいな場所だった。
 
 大丈夫だ。このトイレがあるかぎり、ぼくはゲリッパにはならない。

「でも、待って」

 軽くなった足取りを、ぼくは、ぎくりと止めた。
 今までは考えもしなかったことが、急に頭に思い浮かんだからだ。
 
 兄たちがこの旧校舎を使っていたのならば、ゲリッパの人生が終わったトイレとは、ここのことなのではないだろうか?
 
  慌てて首をふり、不吉な想像をふりはらった。
  
 ここがゲリッパのトイレであれそうでなかれ、関係ない。小学五年生になる今日まで、この場所が、ぼくを救い続けてきたのに変わりはないのだ。
 
 ふたたび歩を進める。いちばん奥の、白いベニヤ張りのドアを開ける。
 後ろ手にノブを閉めようとして、ぎょっとした。
  
 目をしばたたき、こすって、もういちど眺める。
 
 そこにあったのは、見慣れたの古い洋式便器ではなかった。
 真っ白な、最新型のウォシュレット便器だった。
 
 便意も忘れて、ぼくはのぞきこんだ。
 閉まっていた便ふたのセンサーが反応し、自動で持ちあがる。
  
 とっさに後ずさりをした。
 
 ふたが開ききってしまってから、ぼくは、もういちど体を乗りだした。
 おそるおそる、真新しい便器を観察する。

 落ちついて見てみると、トイレは、まるごと取り替えられたのではなかった。タンクや便器はもとのままで、ウォシュレットの便座が、上から取りつけられてあるだけだ。
 
 他に変化はないかと、個室を見まわす。ヒビの多いモルタルの壁に、これまた真新しいリモコンが、ネジで埋めこまれてあった。
 
「不思議だなあ」

 だれも使わないトイレに、なぜ最新の便座が取りつけられたのだろう。
 じっくり考えてはいられなかった。突きあげる便意にせかされて、慌ててドアを閉めた。
 
  ハーフパンツと下着をいちどきに下ろし、便器へ腰を落ちつける。排泄音かくしの音姫が、軽快に水音を流しはじめた。
  
 肛門をゆるめる。
 うんこが発射される。
 
 それは、まさに発射だった。
 かちこちに水分の抜けた丸便が、シャふンパンの栓のようにふっとんだあと、粘膜にくるまれた小ぶりの便が、ロケットとなって、次から次へと飛びだしていく。
 
 偽の水音が終わるころには、ぼくはすっかりスッキリしていた。去った便意のかわりに、長距離走を終えたあとに似た、爽快さと達成感がこみあげてくる。
 
 満足の余韻にひたりながら、壁のリモコンへ手をのばした。ひっこめた。
 
 家でするようにウォシュレットを使いたかったけれど、だれが使ったかわからないノズルには、抵抗があった。
 トイレットペーパーを引きだし、お尻を拭こうと腰を浮かせる。
 
「あれ」

 腿が便座から離れない。もういちど浮かせてみる。だめ。もういちど。やっぱりだめだ。
 
 足を踏んばって、体を持ちあげる。便座に接した皮膚が突っぱるだけで、一ミリも立てない。お尻、腿裏、膝の裏……体重をかけていた部分が、残らず便座に張りついてしまっている。
 おそらく、便座に瞬間接着剤か何かが塗ってあったのだろう。

「ひどいイタズラだ」

  怒りがわきあがった。だれが何のために、こんな嫌がらせをするのだろう。
 
 ──何のため、だって?
 
 思いいたって、顔から血の気が失せた。
 
 犯人は、引っかかった人間に恥をかかせたくて、こんな罠を仕掛けたのではないだろうか。
 
 便座が新しくなったのは、きっと、このトイレに、多くの人が出入りするようになったからだ。
 長く訪れる人のなかったここが、いつの間に、そしてなぜ頻繁に使われるようになったのかは、わからない。そんなことはどうでもいい。
 言えるのは、いつだれがやって来てもおかしくない、ということだ。
 
  ここはもう、安全ではない。
 
「そんな」

 恐怖にせかされて、力まかせに立ちあがる。腿はびくともしない。もういちど。もういちど。

 あがけばあがくほど、便座に張りついた皮膚から、知らないだれかの悪意が這いこんでくる。
 虫となったそれは、神経をよじのぼり、知覚をこじあけ、脳みそにねじ入る。ぼく内側を、おぞりおぞりとのたずりはじめる。
 
 体が震えた。
 人に見つかるのも怖かったけれど、それ以上に、正体不明の悪意がおそろしかった。
 
「やだ、どうしよう」

  予鈴が鳴った。
  旧校舎のスピーカーが死んでいるため、その音は、薄膜を隔てたみたいにおぼろだ。昼休みの運動場からひきあげるみんなの声も、よそごとのように遠い。
  
「授業、はじまっちゃうな」

 タンクに背を預ける。動いて汗をかいたせいか、便座が妙に熱く感じる。
 
「助け、呼んだほうがいいのかな」

 火照った体をもてあましながら、頭を回転させる。
 
 ゲリッパになるのは嫌だ。けれど、自力で腿をはがせない以上、だれかの力を借りるしかない。でも。
 
 迷う心を、ぼくは殴りつけた。
 助けを呼ぶなら、今のうちだ。生徒のうろついていない授業中のほうが、きっと騒ぎが小さくてすむ。
 
 決心して、後ろ手に洗浄レバーをひいた。せめて、現物だけでも始末しておいたほうがマシだ。
 
「おーい」

 水の音に紛れた声は、小さくて情けなかった。
 
「おおーい」 

 少し大きく呼んでみる。
 廊下に反響した声に、二度目のチャイムが重なった。授業がはじまった。
 
「おおおーい」

 力の限りに叫ぶ。
 耳をすませる。
 何の音も返ってこない。
 
 人を求める段になって、こんどは静寂が怖くなった。このまま夜になってしまったらと思うと、不安で胸が押しつぶされそうだ。
 
「おーい、おーい、だれか」

 呼びに呼んだ。声がかれる。返事はない。
  
 いったん休憩をとることにして、水洗タンクに背をあずけた。
 陶器の肌が、Tシャツの背中を気持ちよく冷やす。
 
 その冷たさを感じてはじめて、太股の裏がさっきよりも熱くなっていることに気がついた。
 たしかに、体は汗ばんでいる。だが、それにしたって熱すぎる。
 
 U字便座の先を触ってみる。熱い。
 腿じゃなく、便座が熱くなっている。
 
 壁のリモコンパネルを見る。
 便座の温度設定は『中』になっているが、それよりも明らかに熱かった。
 
 サーモスタットが壊れているのだろうか。
 ボタンを『切』にあわせてから、ぼくは再び声をはりあげた。
 
「だれか、だれかぁ」

 相変わらず返事はない。
 
 運動場から、くぐもったホイッスルが聞こえてきた。
 
 そういえば、五時間目の授業は体育だった。ぼくがいないことに、だれか気づいてくれただろうか。
 いつもペアを組む、タケシのことを考える。彼は親友と言ってよかったけれど、お調子者で、口を滑らせることが多い。用心して、うんこの遠征については話していない。
 タケシだけじゃない。学校中のだれにも話していない。ぼくがここにいるのを、だれも知らない。
 
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、うん」

 よぎった不安を、声にだして打ち消す。
 それでも込みあげてくる不安を、涙といっしょに飲みこもうとつとめた。手のひらをまぶたへ押しあて、呼吸を整える。
 
 ホイッスルの音が、また聞こえた。笑っているのはタケシだろうか。ついさっき向かいあって給食を食べていたのが、ずっと昔に感じられる。嗚咽をこらえると、頭の奥がじんと痺れた。
 
 はっと、耳をすませた。
 
 じんと鳴っているのは、頭の中ではなかった。便座だ。中に仕込まれた電熱線がうなっている。
 腿の裏が、さっきよりも熱い。
 リモコンのマイナスボタンを押す。パネルは『切』をさしている。ボタンを連打する。なんど押しても『切』。それなのに、熱はあがっていく。
 
 そうこうするうちに、便座は、我慢ができないくらいに熱くなってきた。
 つま先をつっぱって、腿を浮かせる。張りついた皮は、びくともしない。
 
 便座はどんどん熱くなる。
 お好み焼きの鰹節のように、ぼくはのたくった。
 
「たすけて」

 身をよじる。音姫が反応して、涼しげな水音をたてはじめる。
 
 ひらめきが走った。
 ウォシュレットのボタンを押す。モーターが響き、ノズルの出る気配がした。 
 
「はやく出て」

 体を折り曲げ、股の間に手を入れる。
 
 ウォシュレットの水を弾いて便座にかければ、少しは温度がさがるはずだ。だれかが来てくれるまで、それでしのごう。
 
「…………? ぎゃあああああ」

 手が水に触れた瞬間、ぼくはエビぞりになった。
 灼熱。
 熱湯だ。
 便座だけでなく、ウォシュレットの加温装置まで故障している。
 
 打たれるお尻が、焦げてしまいそうに熱い。
 停止ボタンへ拳を叩きつけた。何度も、何度も。しかし、どう叩いても、熱湯は止まらない。

 リモコンが効かないのなら、ノズルを折ろう。身をかがめ、股の間に手を突っこむ。お湯の噴きだすノズルを握り、力をこめる。
 
「どうして。どうして折れないの」

 何度か挑戦したみたけれど、不安定な体勢のせいか、まったく歯がたたなかった。
 
 熱湯にさらされた指が痛い。骨の髄までえぐられているみたいだ。
 
 我慢できず、手を引きあげた。
 
 指を見て、ぎょっとした。皮膚がカリカリに焦げて、のぞいた肉が真っ赤にただれている。
 
「お湯じゃない」

 それが何かを考えるよりも早く、尻が悲鳴をあげた。
 
「あぎゃぎゃ」

 振りまわした腕にセンサーが反応し、また乙姫が鳴る。さわやかな水音に混じって、肛門がじゅうじゅうと音をたてる。

 むかし、粗大ゴミ置き場のカーペットを、イタズラで燃やしたことがある。そのとき嗅いだのにそっくりな、いやな臭いがたちのぼった。
 
「いや、ぎゃ、うぎゃ」

 手足をバタバタさせる。膝下が振り子のように振れて、踵が激しく便器を打った。暴れる拳がリモコンにぶつかる。ボタンがピピッと鳴って、ウォシュレットがゆるんだ。
 
 少しだけ遠のいた痛みに、ほっと息をつく。
 
 しかし、またすぐに衝撃が襲ってきた。
 
 どぅ、どぅ、と軽快なリズムが肛門を打つ。便意をうながすためのリズム水流だ。
 強弱をつけられた噴水は、まっすぐに注がれていたときよりもずっと鋭く、直腸をえぐった。
 
「ぎゃあ、ぎゃあ」

 激痛。目がかすむ。意識がとぎれる。
 
「あぎらかっじぇかじぃ」

 前後に動きはじめたノズルが、ぼくの意識を引きもどす。ムーブ機能。灼痛が、金玉と肛門を往復する。
 
「おいうわえじっか」

 痛みにやられた神経が、体を、ばね仕掛けのように跳ねあがらせた。ばつん、と尻が弾ける。皮から離れた尻肉が、少しだけ便座から浮いた。まだくっついたままの腿肉が、わずかずつ剥がれていく。
 
 前後に揺れるウォシュレットが、金玉の薄皮を洗っていく。袋はあっという間に溶けさって、中の肉玉を丸だしにした。玉と体とを繋ぐ神経が、酸にすすがれる。か細い糸はほつれて、小さな肉の塊が、果実みたいに落っこちた。
 
「あいっつじゃじゃぃ」

 ウォシュレットは動きつづける。玉の守りを失った棒の根本に、容赦なく酸が叩きつけられる。
 
「あがふぃうあおぢじゃだおいぃ」

 異臭と煙が、鼻をもぐ。
 死にものぐるいで立ちあがる。腿皮が弾け、便座が離れる。肉のそげた棒が、便器にぼちょんと音をたてた。

 ウォシュレットが止まった。
 
「ひひぐ」

 ぼくは床へへたりこんだ。
 尻の下がパリパリいう。焦げて炭になった皮膚が砕けているのだ。そこから滴る酸が、青いタイルに広がって、ふくらはぎを焦がしていく。

 痛みに責められても、もう立つことはできなかった。

 なぜ、こんな目にあわなければいけないのだろう。ちんちんも金玉も失った。もうまともに生きていけない。
 
 骨の露出した指で、涙のあふれる目をこする。
 
「うほへ」

 針束を突っこまれたような痛みが、目玉を襲った。まぶたを開けようとする。開かない。指に残っていた酸のせいだ。

 痛みと暗闇でパニックになったぼくは、とっさに手を突きだした。ベニヤのドアをしゃにむに探る。
 何でもいい。外に出たい。
 
「わぱいあぢでぅす」

 手のひらが悲鳴をあげた。慌てて引っこめる。
 ドアノブは、まるでバーナーであぶったみたいに熱かった。
 
 熱鉄にへばり残った手のひらの肉が、ノブの上で、じゅうじゅうと音をたてて焦げていく。
 
 肉の少なくなった手で、ベニヤのドアを力いっぱいに叩いた。うまく力が入らず、べちょべちょと間抜けな音がするだけだった。
 
「どぅぁああぁだぁれかあぁああ」

 痛みに叫んでいるのか、助けを呼びたいのか、もはやわからない。
 手もお尻も腿も、死にそうに痛い。
 
「あぇいがじゃうぅっっん」

 叫ぶ。声がかれた。息をつぐ。
 
 深呼吸が効いたのか、少しだけ冷静になれた。 
 Tシャツの裾を、手さぐりで裂く。ボロを左手に巻きつけ、もういちどドアノブをさぐった。布ごしの指に触れた鍵のつまみをねじる。ロックの外れる音を確かめてから、意を決してドアノブを握った。熱い。溶けた化繊が、肉と一緒にものすごい臭いをあげる。
 ノブをまわす。
 
「ち、ぢくじょううぅ」

 ノブはまわらなかった。何かで固定されているらしい。体当たりをする。ドアはびくともしない。
 
「じゃぺといじぁあああ」

 声をあげて泣いた。
 涙で酸が流され、少しだけ瞼が開くようになった。闇に現れた細い光の向こうに、ドアの白が見えた。血と肉とでまだらに赤く染まっている。
 
 ついさっきまで自分の一部だったものが、無惨な染みになっている。凄惨な現実から、思わず顔をそむけた。トイレのタンクと、個室の仕切り板が目に入る。
 
 薄闇に、希望が光った。
 
 仕切り板の上には、子供ひとりがギリギリくぐれるくらいの隙間があった。
 トイレタンクを足場にすれば、脱出できるかもしれない。
 
 ずるずるになった下半身を叱咤し、起きあがる。便ふたを下ろし、足をかける。玉も棒もない股の間に、焦げた尻肉をぶらぶらさせながら、上履きの足を踏んばった。タンクへのぼる。
 
 仕切りの上へ右手をかけ、体を持ちあげる。
 
「ぎゃじゃぇいつ」

 のけぞった。
 瞬間、見えたのは、間仕切りの上にきらめく刃と、宙を舞う四本の指だった。
 
 バランスを崩したぼくは、タンクに尻もちをついた。むき出しの肉に激痛が走り、神経を反射させる。飛びあがった体はタンクから落下し、とっさにつきだした左手が、閉まった便ふたを突きぬけた。肩口までが、ずっぽりと便器へはまりこむ。
 
「うべぅるあいえうと」

 指のない右手をタンクのへりへかけ、酸につかった左腕を抜く。ぎざぎざに割れたプラスチックの蓋に、二の腕が引き裂かれた。肘の先では、前腕の骨が折れて肉から突きだし、裂け目のふちに引っかかっている。
 
「ぐあじょどっこい」

 力まかせに手首までねじり抜く。現れた腕は、むさぼられたスペアリブみたいになっていた。
 
 なるべく見ないようにして、もういちど力をこめる。真横に折れ曲がった手首が、まだ抜けていない。背中に体重をかける。折れた手首が、筋をびぎびぎと鳴らす。
 ぐっと踏ん張ると、捕らえられていた部分が、あっけなくすっぽ抜けた。
 勢いあまって尻もちをつく。血と肉が宙にまき散らされるのが、スローモーションで見えた。
 後頭部に衝撃が走った。仕切り板にぶつかった頭はピンボールみたいに弾かれ、ドアへ突っこんだ。熱せられたノブが、右目の眼窩に埋まる。眼球が弾け、焼ける音がした。
 
 ドアが、勢いよく外れた。


 タイルの海に、ぼくは浮きつ沈みつしている。
 酸と火傷でほとんどを奪われた視界を、ふいに二艘の舟が過ぎった。
 先行する一艘に、もう一艘が続く。リズムよく波に乗った先舟とは違い、左後方を追う舟は、無様に航跡をふらつかせている。
 
 二艘からは、堆肥の臭いが漂っていた。
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