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蝿よ、蝿よ

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 カイラの残存魔力が部屋から消えた直後に、ノックの音が響いた。
 魔法が働いた痕跡くらいは、セオリアにも辿れる。
 監視や追跡系統の魔法が発動された気配はないのに、この屋敷の侍従たちは私室を開けられて困るタイミングで訪れることがない。
 まるでどこかで家中を管理しているような采配をとる侍従長のアスティは、人嫌いで有名だったセオリアの祖父の信頼を受ける男性だった。

 主従の枠組みを越え、二人が密やかな思いを通わせていたという噂から派生した純愛物語は増刷されるたび、売り切れるほどだった。
 祖父と侍従長が親しかったのは事実であり、おそらく祖父の方には抱え込んだものがあったとセオリアは推測している。
 妻が亡くなり、子供達が大きくなってからも、選ばなかった道へ戻ることが出来ず、後悔を胸にこの世を去った。
 でなければ、未練がましく彷徨ったあげく心をここに残していかなかったはずだ。

「人の寿命なんて、それほど長いものではないのに待ちきれずここに留まるなんて、執念というのは恐ろしいものだ」

 祖父の意思を宿して飛び回る九枚羽の球体の出現はいつも突然だ。
 壁を跳ねながら、セオリアがドアに近づくのを邪魔してくる。
 諦めの悪い祖先の醜態に苦笑いしながら、セオリアはドアノブに手をかける。

「大魔道士の訪問は、私の都合さえ聞こうとしない気まぐれなものだ。お前の許可を得ず男を引き入れて、楽しんでいたわけじゃない」

 アスティが後ろで束ねた黒髪に白いものは見られない。不老なわけではないが、老いるペースが極端に遅く、加齢を死ぬ間際まで感じさせない民族なのだろう。
 恋をした時そのままの魅力を保っていられる相手はそういない。蝿の姿を真似て、アスティから隠れている祖父にとって彼は青春そのものなのかもしれなかった。

「優れた魔力をお持ちの方は、世間一般の常識とかけ離れてしまうものなのでしょう。お部屋にお招きしたのがカイラ様であることは予測しておりました。あの方を伴い、風通しの良い場所へ移動してくださるのをお待ちしておりましたが、お二人がお部屋から出てきてくださらないので私がこちらまで参りました」
「私は招いていないし、ぬいぐるみを依代にして話をしただけだ」
「転移くらい、あの方にはどうとでもなるのでしょう?」
「それは」
「私のように歳を取り、無害そうに見える相手が急に豹変して襲ってきたらどうされるおつもりですか?」

 真剣な顔の忠告を物陰から聞いている蝿には、何もかも捨てて襲いかかる根性がなかったのだろう。
 後継を作り、家名を守ることを義務づけられていた男は、恋心を打ち明けることもせず命が尽きた。
 寿命と魔力を練り込んで創った操り人形は、艶やかな銀の巻き髪と華やかな顔立ちで人気だったという祖父とは似ても似つかない。
 あのような姿で想いが遂げられるはずもないのに、情けない姿になってもこの世界に執着する祖父がセオリアには理解出来ない。

 会議の度に、こちらの矜持をすり減らしていく憎らしいあの男が、セオリアへの恋に焦がれ、どうにもならない感情に振り回されているのかと思うと愉快だった。
 カイラは誠実な男ではないが、セオリアに不利益なことに関わらない。
 どこでどんな気持ちの変化があったかわからないが、元々美しく光を放っていた星に目を向ける時期が来たというだけのこと。
 疑う要素は少ないように思えた。

「……お嬢様、私の話を聞いていらっしゃいましたか?」
「お前の言葉は心に留めた。心配するな」

 蝿の飛び方を習得したらしい機械人形は、叩き潰される危険も顧みず愛しい侍従に近づいてくる。
 
「動かないでください。すぐに砕きます」

 冷却魔法を唱え始める彼をセオリアは止めた。恋は愚かで、儚い。成就しないものを追いかけても掴めはしないのに。

「窓を開けておけば消えてくれるだろう。こちらの都合で命を奪うことはない」

 指を動かして窓を開けると叶わなかった恋の残り火が逃げていく。彷徨う魂が虫にしか見えていないアスティの心情を探るように、セオリアは彼を見つめていた。
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