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第二章

12.温もり

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「お客様・・・」


「は、はいっ!?」


考え込んでいたから、とっさに変な声が出てしまった。

口をおさえて反射的に周りをみてしまうが、みんなに聞こえるほどでもなかったみたいだ。


「あ、すみません、お仕ご・・・途中でしたよね・・・」


目の前にいるのは、さっきまでわたしが「かわいいなー・・・」と現実逃避の対象にしていた、あの店員さんだった。びっくりと後ろめたさで、リアルに血が凍った音がする。けれどわたしだって、だてに社会人やっているわけじゃない。とっさの営業スマイルを浮かべて、問い返す。


「あの、何か・・・?」


「あ、いえ・・・。先ほどからこちらをご覧になっているようでしたので・・・。ご注文かと思って・・・。すみません、お仕事の邪魔でしたか?」


今度こそ、背筋が凍った。こわいんじゃなくて、恥ずかしすぎて・・・。


図書館の横に、緑一面になった、ひときわ大きな桜の木がある。


太陽の光を受けて、影絵のような木陰を作って、傍らを歩くとそれがきれいだった。

その下で、おじいちゃんと柴犬が休んでいる光景が、なんとなくよかった。

ああ、なんかこういうの、いいなあ、と思った。


「ジェルモーリオ」の扉を開けたとき。

見ているこちらが穏やかになる彼らが、窓からほんの少し見えるように。

無意識にレジとショーケースの近くに、そしてその向きに座席に座ったわたしが、うかつだった。そして、致命的だった。


やらかしてしまった。

仕事の最中に現実逃避するあまり、無意識に彼女を見ていたらしい。声をかけにくるくらい・・・うそでしょ・・・?


「あ、ああ! いえいえ、そうです! えーと・・・」


この時点からして、挙動がおかしいのは知っている。もうそれはいい。これ以上妙なことを口走って出入り禁止になるよりははるかにいい!


二度とあってほしくはないけど、こういうときはもうシンプルに、むだなことはせずに、「コーヒーのお代わりください」でいい。

なのに、それがするっとできないのがわたしだ。


「レ、レモンシフォンと、オリジナルブレンドをお願いします・・・」


余計なことを!


レモンシフォンは、さっき迷ったもうひとつのほうじゃないか。そんなのまた今度食べにくればいいのに!ランチもせずに、二百円のシフォンばっかり一人で追加注文って、ここはケーキバイキングじゃないんだぞ登理っ!!


「レモンシフォンと、オリジナルブレンドですね。かしこまりました。ありがとうございます! あ、空いているカップ、おさげしますね」


手際よく空いたカップとミルクを回収し、笑顔を向けて去っていく彼女の、黒いシャツの背中を見送る。


間なんて、なかったよね・・・。もしかして、あったかもしれないけど、わからなかった。わかりたくないだけかもしれないけど、たぶんなかった。

ああ、いい店員さんでよかった・・・・・・。


静かに息を吐いてふと時計を見ると、十五時半になろうとしている。

最後に時計を見たときはたしか十五分過ぎだったことを思うと、いろいろな可能性を考え始めてしまう。かといって、注文をしてしまった以上、そそくさと帰ることもできない。窓の外では、あのおじいさんと犬は、もういなくなっている。


頭を抱えたくなるのを押さえて、代わりにこめかみをもむ。少しずきずきする。

これはたった今やらかしたことのせいだけじゃなくて、たぶん眼精疲労だ。

最近、ちょっと立て込んでたからかな。


本の売り上げや顧客情報を管理シートに落とし込んで、必要に応じて図表化する。

それがわたしの仕事だ。


単純な文字表記はともかく、数値はグラフ化してみると気づきやすいけど、しないものだと視覚化されなくて、ミスタッチが混じってそのままになっていることもある。

手早く、同時に、慎重に作業することが求められる。


そういう意味で、自分のおっかなびっくりというか、臆病というか。

わたしのそういう性格は、わりと役に立っているし、仕事もそれなりに順調だ。

それに・・・・・・


「お待たせしました。レモンシフォンと、オリジナルブレンドです」


「え、ああ、はい! すみません、ありがとうございます」


気づけばまたやらかしていたらしい。いつのまにか、先ほどの店員さんが、品物を運んできてくれていた。


「すみません、なんだか、長居しちゃって・・・」


「いえ、ごゆっくりされてくださいね。お仕事、お疲れ様です」


こちらを向いて丁寧に返事をして、店員さんがまたショーケースのほうへ戻っていく。


大学生くらいかな。少し茶色の入った、ボブのセミロング。目の大きな、かわいいひとだ。ちなみにわたしは、切るのが面倒だからという理由だけのロングを、清潔感が欠けない程度に後ろで束ねているだけだ。正直、自分でももうちょっと洒落っ気を持てよという気がするけど。


それはそうとして、あの店員さんはなんか、言葉遣いもきれいな気がする。このお店の教育なんだろうけど、なんか、あのひとは自然な感じがする。


けっこう仕事ができるタイプなのかも。

レジでの接客中はもちろん、ホールからの呼びかけにもてきぱきと応じている。

きりっとしていて、それでいてかわいい感じ。あれは、モテる気がする・・・。


いやいやいや。それはそれとして、そんなことを思いすぎて、またさっきと同じことになったら大変だ。まずは目の前の原稿。


ようやく仕事モードに戻り、そろそろとカップを手に取ると、ちょうどよい温かみが伝わってくる。


いろいろ勝手に慌てていたけど、ようやく少し落ち着く。


試しにブラックで一口飲むと、お茶とはちがう苦味が、けれどじんわりと心地よく身体にとけていく。あ、ここのコーヒーなら、ブラックでもありかもしれない。


それに、ほんのりとレモン色のシフォン。


くるみシフォンもそうだけど、ここのお店のシフォンは、素材の色は控えめで目立たないのに、口にするとふんわり香りが広がって、気持ちが緩んでしまう。


「次きたら、抹茶にしようかな」


そうつぶやいて、銀の小さなフォークを手に取った。
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