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第二章

19.半分

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昼間に公園にいる人は、意外に多い。


だいたいはお年寄りだけど、ベビーカーを押した親子連れの人や、車いすを押してもらいながら、水場の周りを散策する人。立ったまま木で腕立てをしているおじいちゃんもいて、びっくりした。さっきからランニングをしている半袖半ズボンのお兄さんは、もう3回目の前を走っていった。


ちゃんと立ち寄ってみるとけっこう大きな場所で、水場といってもけっこうな広さだ。さっきはつがいのカモがゆるゆると泳いでいったし、遠くのほうには、白くて大きな鳥が、水場の中心部にいくつかある土台のようなもののひとつで、どこか遠くを見ながら立ち止まっている。昔、祖父母の田舎で見たっきりだけど、探せばカメが甲羅干しでもしていそうだ。あそこでは、綺麗な青をまとったカワセミを一度だけ見て、とっさに携帯をかまえたけど、撮り損ねて悔しい思いをしたことがある。


2つだけ空いていたベンチに座り、侑都くんもわたしも、借りた折り紙の本を、時間をかけてめくっていた。


時折、「これ、綺麗だね」「こんなの、わたし折れないや」と、侑都くんに向かって言った。もちろんそれは心にもないことを言っているのではないけれど、「そうですね」とか、「慣れれば、大丈夫です」と返事をしてくれる侑都くんとは、さっきまでなかった、微妙な距離があった。受け答えはしてくれるのだけど、どこか硬い空気がした。慎重になっている、というか。

「綺麗」にも「わたしには折れない」という言葉に嘘はないけど、どこかで気もそぞろというのが、自分でもわかる。わたしがそう思っているだけか、わたしがそう思っているのが、侑都くんに伝わってしまったのか。


「学校に行っていない」

不用意にわたしが引き出してしまった言葉。

それが、少なくともわたしの中で、わだかまっていた。


今、何年生で、いつから学校に行っていないのか。親御さんは、どうしているのか。

そんなことは、ほとんど通りすがりのわたしが聞くべきではないし、そんなことを訊けば、さっきまでの侑都くんとの距離は、決定的に遠くなってしまう気がした。

だったらいっそ何も聞かなかったように振舞えれば、あるいは侑都くんも楽だっただろうと思う。それにあの時、あまりいい展開ではないのを承知で、「そうなんだ。大変だね。じゃあ、また今度ね」とか、無理やりその場を収めても、いっそよかった気もしてきた。


沈黙とも言い切れない沈黙の中でページをめくっていると、目の前をさっきの人がまた走っていった。ランニングのお兄さん。少なくとも、もう4週目だ。さっきとほとんどペースが変わらない。後ろ姿を目で追っていると、さすがというか、余分な部分がほとんどない、細身だけど、ひきしまった脚をしていた。


「ああいうの、すごいよね」


久しぶりに顔を上げた侑都くんに対し、言葉を続ける。


「わたし、体育とかぜんぜんダメでさ。中学校の時、冬にマラソン大会とかあったけど、最悪だったな。隠れるところないし、いちいち先生が見回ってたから、休んでると『あとちょっと』とか言われてさ。残り一周以上あったんだけど。わたし、遅かったから。侑都くんのところもあるの? そういうの?」


「2年生になったらあるらしいです。ボクは・・・・・・ボクも、遅いけど」


「早い子は早いよね。運動部の子とか、さすがって感じで。上手い子は上手に隠れて、適当にさぼってたけどさ」


侑都くんは、中学1年生だったらしい。ということは、ついこの間までは、小学生。どうりで、年齢が読みにくいだけだ。


「2年生になったら」ということは、今、1年生か。

というかその前に、子どもの前で堂々と「サボり」の話をしてしまった。おとなとしてどうよという話なんだけど、言ってしまったものは、もはや仕方がない。


「登理お姉さん、サボらなかったんですか?」


「わたしはね・・・・・・サボらなかった、っていうか、サボれなかった、かな。いや、別にさ、サボりたかったんだけどさ。そういう場所って、みんな目をつけてるから、もう先客・・・・・・っていうか、他の子たちがいてさ。いなくても、後から来たりするから、なかなか入れなくて。それでついつい道端でぜえぜえいってたら、まあなんでか、そういうときに限って先生の見回りが来たりするんだよね。『頑張って!』って言われてもねえ。もう頑張ってたんだけど、わたし、運動ってめっちゃ苦手で、遅かったからさ」


「ボクも・・・・・・体育、嫌いです」


「好きな子は好きなんだろうけどね。わたしも、体育のある日は、前の日の夜から憂鬱だったな。あ、ごめん、変な話しちゃったね」


体育祭のリレーやクラスマッチの競技よりは数段マシだったけど、とにかく嫌で嫌で、でも正面から逆らう勇気もなく。

わたしにできたことと言えば、「熱が出ますように」とか、そんな類の、小学生のような、他力本願の願い事だけだった。


「あの・・・・・・」


「ん?」


「サボってないで、学校行けって言われます。折り紙なんて、小さい女子のすることだって・・・・・・」


どこかで、そのうち来ると思っていた言葉。けれどその突然の言葉に、心臓のあたりがきゅっと縮まった。


「・・・・・・それは、お父さんお母さんから?」


「みんなから。小学生のときからあんまり行けなくて。先生も金曜日に来て、もう中学生になったんだから、ちゃんと学校来て勉強しないと、って。今みたいに家でやるのもいいけど、それだとキョウチョウセイが育たないし、3年生になったら受験もあるからって、この前お母さんと先生が話してて・・・・・・」


キョウチョウセイ。おそらく覚えたてであろうその言葉に、「だれとでも仲良くできる力」というニュアンスがあることを、痛いほど知っている。そんな口調だった。侑都くんの目は膝の上の本を見ているけれど、もうそのページはずっとめくられていない。置かれた掌は、行き場をなくしていた。


「あ」


同時に言った。侑都くんの手の甲に、小さな赤丸がとまる。ナナホシテントウ虫。

完熟トマトみたいな赤に、墨汁のような黒丸。幸運の知らせとか、ずっと昔に何かで聞いた気がする。


「テントウムシか。久々にみた」


「虫、怖くないんですか?」


「わたし? ああ、このくらいなら、まあ・・・・・・」


虫嫌いの人は多いし、もちろんわたしもまったく好きじゃない。

けど悲しいかな、安物件の一人暮らしに慣れていると、この程度の虫なんてなんともなくなっている。「この程度」じゃない虫の相手を、嫌でもしなくてはいけないから。正直、女子が全員虫なんかで、わーとかきゃーとか言うなんて、都市伝説だ。

もちろん、そんなことは侑都くんに言わないけれど。


侑都くんがそっと指を立てる。

もそもそとその指をよじ登っていき、爪の先からテントウムシが飛んでいった。


「幸運、か・・・・・・」


心の中だけで、そっとつぶやく。


もうとっくに見えないのに、二人ともまぶしすぎる空を、答えのない白い雲を、ただ見ていた。
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