下弦に冴える月

和之

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(1)第一章

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 定刻で仕事を切り上げてから北村朔郎(きたむらさくろう)は六階の職場を離れ、廊下の端にあるエレベーターに乗
った。彼はエレベーターの中で考えた。
 昨夜、随分と昔の恋人から突然に、まったく唐突に会いたいと云って来た。しかも恋人を奪った亭主の正幸(まさゆき)は彼にとっては中学時代からの友人であった。
 その昔の恋人、佐恵子(さえこ)は鼻から抜けるような甘い声で 、それでいて明瞭に本人の消息を訊いてきた。長い話の末に今日、彼女にあう約束を取り付けられた。
 朔郎は懐かしさと半ば後悔が頭の中で止めどなく激しい渦になってさらされていた。
 ビルから一歩出るとムッとする暑さに顔を舐め尽くされた。
「しつこい夏だ!」
 朔郎は思わず叫びたくなった。彼は気持ちが昂じていく自分を感じとった。
「いかん! いかん! 。落ち着け、落ち着け。しかし何でまたあの女は急に会いに来るんだ」
 朔郎はビルの前の通りから御堂筋へ出た。心斎橋から思い鉛を付けたような足取りで御堂筋を歩いた。
 仕事の終わった此の時間は、軽快な足取りで若い二人連れが、次々と彼を障害物のように通り過ぎていった。行き過ぎた連中にしてみれば確かに四十二歳の彼は歳を取り過ぎていた。だがこれから会う人は彼ら若者の年代にタイムスリップさせる想い出の人である。なのに心は決して軽くない。なぜならそれは十七年前に朔郎を捨てた女であった。
「今さら会いたいなんてどう言う了見なんだ」 
 心の叫びとは裏腹に気持ちは昂(こう)じてしまう。それは彼女が最初の女であり、彼に人生の道しるべを付けた女だった。

 長堀を少し過ぎて堺筋にある喫茶店に彼は入った。心斎橋の賑わいにすればここは場末のおもむきがあった。そこは時間の観念から解放された客だけが紫煙をくぐらせていた。彼らはコーヒーを味わいながら時の流れの外に身を置いていた。
 薄暗い仄かな灯りの中に髪こそ少し短めだが昔の彼女の姿が浮かび上がっていた。彼は少しばかり心ときめかせてテーブルに座った。間近に観る彼女はやはり目尻や肌に十七年の歳月を映していた。
 朔郎は気落ちしたがすべてが昔のままなんて有り得ないと言い聞かせた。それでも彼女は若く見えた。朔郎を見る佐恵子の瞳が反射的に微笑んだ。
「驚いたでしょう」
 そう言いなが輝かせた佐恵子の瞳が彼を戸惑わせた。そのすべての意味を失いかけた時に、脳裏の片隅で冬眠した記憶が蘇った。その時に佐恵子は昔の笑顔を浮かび上がらせた。
「朔郎さん・・・」
 佐恵子の瞳が変化した中で長い空白の月日が埋まっていった。その瞳は長年にわって凍り付いた彼の執念を溶かし始めた。
 彼女の見せた笑顔に昔の慈愛が満ちていた。彼の不安は一瞬に霧散した。
「元気そうね。あれから結婚したの?」
「いいや」
 彼は無表情で答えた。心の不安は消えても硬直した表情まで行き渡らなかった。
「でも女の人、いるんでしょう」
 朔郎はやっと作り笑いを浮かべた。
「まだあのアパートに住んで居るのね、繋がらないかも知れないと思いながら電話したけれどすぐに貴方が出てホットして懐かしくなってきたの」
 十七年振りに佐恵子に会って彼は慎重に言葉を選んでいた。なぜ電話したのか、なぜ会いたくなったのか詮索したが澄み切った彼女の瞳が断念させた。
「・・・、正幸は元気なのかい?」
「ええ」と佐恵子は急にトーンを下げた。が「かおりは元気よ」と再び元のトーンに戻した。
 自分の娘の名を聞きいて朔郎は静かに頷いた。そして煙草を取り出して紫煙をたなびかせた。ほろ苦い味だった。
「まだ煙草吸ってるのからだに悪いわよ」
「何いってんだ君が教えたんだ」
「あら、そうだったかしら」
 彼女は笑って茶化した。
「それより電話では何も訊かなかったけど、あなたかおりの事は心配じゃないの」
「他にもあるが・・・、それより幾つになったんだろう?」
「十八で高校三年になるわ」
「じゃ次の春に卒業するのか」
 躰の線は崩れていない。あれから子供は産んでいないのか? 正幸がそれで納得しているのだろうか? 此の疑問に今一度、佐恵子の瞳を見直した。
 彼女は、此のひとは何を考えているのだろうと云う目をしていた。
 これは恋人時代からそうだった。悪意はないのは分かり切っていた。だがなんだか自分が尊敬に値しない人に取られて不愉快だった。今も朔郎は佐恵子のその瞳に押されぱなっしだ。彼はその瞳に向かって切り返した。
「正幸とは上手くいってるのか?」
「え、え」 
 彼女はちょっと言葉を詰まらせてから。
「上手くいってるわよ」
 それがどうしたと 彼女は押し返した。
「正幸か・・・。あいつは卑怯だ!」
「貴方にそんな事を言う資格はないわよ」
「さあ、どうだろうねぇ」
「どう云う事なのよ」
「まあいい。あいつはあいつで苦しんでいるだろうなあ」
 一瞬、彼女の顔がこわばった。
「まだそんなこと言ってるの。もう何しに来たのか分からなくなってくるでしょう。あなたがそんなに執念深い人とは思わなかったわ」
 次に彼女は呆れたように作り笑いを浮かべた。佐恵子は表面では笑っていても瞳は動揺していた。
「本当に何しに来たんだ」
 ふたりは心斎橋から地下鉄御堂筋線に乗った。三つ目の駅が梅田である。結局ふたりは話らしい話も、約束もせず梅田で別れた。           
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