下弦に冴える月

和之

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 この日は朔郎の誘いを受けて正幸も見送りに来ていた。佐恵子も有美子を連れて来て正幸に紹介した。だがあまり有美子に関心がないのに佐恵子は気落ちした。それどころが正幸は朔郎をはやし立てた。                   
「佐恵子さんが居るからこそお前は好きなことが出来るんだぞう、だから佐恵子さんをもっと大事にしろ、そうでないとトンビに油揚げをさらわれるぞ」
 列車を待つ間にしきりと正幸は冷やかしていた。
「心配ない、俺は彼女を信じている」
 朔郎は笑って応えていた。事実この時期、佐恵子に対して揺るぎない信頼を寄せていた。
「私たちは本当に愛してるんですから、そんな事ある理由(わけ)ないでしょう、馬鹿な事を言わないで!」
 佐恵子も強く否定した。
 正幸はふたりからこれほどの反撃を食らうとは予想仕切れなかった。正幸は平身低頭して謝っていた。ふたりは正幸の失言に笑って許せる余裕があった。
 朔郎を見送った三人は駅前から少し歩いた。
 終始、陽気に振る舞って居た佐恵子だったが、急に朔郎を見送ると肩の力が抜けて気力まで落とした。これには有美子も一役買っているから痛いほど解った。
 この変化に正幸がすぐに対応した。
「どうしたの? 急に元気ないね」
 この言葉に情緒のない人だと有美子から正幸は顰蹙(ひんしゅく)を買った。
「そんな事ないわ!」
 佐恵子も正幸の言葉には敏感に突っぱねた。
 佐恵子の落とした肩に正幸は彼女の憂いを見た。いつも活発な佐恵子が垣間見せた姿に正幸はそっと優しく語り続けた。そのしつこさに有美子が呆れていた。

 やっと正幸と別れたふたりは近くの喫茶店に入った。
「あの人、何なの」
 ふたりがテーブル席に着くなり有美子が放った第一声だった。
「まるでハゲタカみたいに佐恵子に付きまとっていたわね」
「そうね、この春から一流企業の商社マンなんだけど。だから普段はそう云う人じゃないんだけど・・・」
 そう云う人じゃないから有美子に紹介したけれどと困惑気味だった。
「佐恵子も卒業なのに北村さんは留年なの」
「単位が足らないのよ、そこへゆくと正幸さんは成績抜群よ」
「まあ佐恵子の趣向はそれぐらいにして、あの人だと今度の旅でそこそこの作品は集まると思うの・・・」
 そこで有美子は佐恵子の実家の熊本で個展の第一号を拓く事を勧めた。
「そこへ両親を誘うのよ。朔郎さんの写真を見て感動してくれれば晴れて入籍出来る、まあ今の世の中でそこまで拘る人は京都では居ないわね、何で九州の人ってそうなの」
 田舎ねって付け足した言葉を慌てて有美子は訂正した。それを佐恵子は笑った。
「この街は不思議な街ねとても千年の文化を受け継いでるなんて思えない、やる事すべてが新しいそれでいて千年前の文化も残っている」               
「まあね、お公家さんがずるいのよ、武家社会からの生き残るすべを身につけているからこの街だけじゃないかしら。それより佐恵子は腹をくくったんだから、この個展は絶対成功させなけゃあダメよ」
 相談に乗ってくれた有美子に応えるべきと正幸を見合わせたのだが、正幸の真意を佐恵子は掴みきれなかった。

   
 有美子に賛同した佐恵子は個展の下調べを兼ねて久し振りに実家に帰る事にした。だがスーツ姿でビシーと決めた商社マンの正幸とこの日、偶然に駅で声を掛けられた。これが運命を変えた。
「北村の留守に何処へ行くの?」
 佐恵子はバリバリの社会人一年生になった正幸に見とれた。
「家に居ても仕方ないから実家へ帰ろうと思って」
 この時に正幸は初めてふたりがまだ籍に入れていない事もその理由も知った。それだけではなかった。佐恵子の来ないでと云う弱々しい言葉を振り切って正幸はとうとう熊本まで付いて来た。
 熊本駅を降りてふたりはタクシーに乗った。
「新入社員なのに本当に仕事は大丈夫なの?」
「だから会社とは電話で了解はとれてるから心配ないよ」
「まだ入社したばかりで日が浅いでしょう」
「だからすぐに取り返せるよ、それよりも唯一無二の友だ。ほっとけるか」
 この前の朔郎の見送りの時と違って、調子の良いこと言っているけどスーツ姿の正幸は頼もしく見えた。
 事実、実家での父は実に正幸には愛想が良かった。前回は弁明を与えず朔郎を激しく罵った父が、正幸の説く朔郎の人となりに耳を傾けてくれた。これなら父も公正な目で作品を見られる。これは個展を前にしては良い収穫になった。
 正幸はその日の汽車でトンボ帰りだった。佐恵子は正幸を駅で見送ると引き返して実家に一泊して帰った。行きしなはあれほどしつこくまとい付いたのが嘘の様にあっさり正幸は京都へ帰った。
 しかし有美子に電話すると、佐恵子は渦中に居るから周りが見えていないと説教した。
「まず将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」と相手はまずは第一の関門を突破したつもりじゃないかしらと懐疑的だった。
「でも断ったのに付いて来たのよ」
「その言い訳は通用しないと思う」
「それでもちゃんとお父さんを説得してくれたし・・・」
「どっちにしても北村さんは善意には受け取らないわよ」
 さあどう弁解するのと有美子は呆れた様に電話を切った。        
    
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