下弦に冴える月

和之

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 始めの打ちは穏やかに語っていた有美子だったが途中から口調に感情がこもり出した。それは佐恵子との最初の危機に弁護してくれた有美子の姿が重なって来た。あの時は佐恵子の節操のなさに呆れていたが、今回は身ごもった母親としての自覚症状が余りにも乏しいからだ。このふたつの共通点は愛情の欠如のひと言に尽きた。
「そもそもなんで北村さんは佐恵子と別れたの?」
 コーヒーカップに付いた口紅を軽く拭く手付きがまるで茶道の手付きを連想させた。と同時に急にまた聴いて来るなんてこの女は何を考えてるんだと思った。確かに学生時代には「お似合いのカップルね」と言って応援してくれたし、もめると仲をも取り持ってくれた。それだけにこの疑問は彼女の中に今も残っているのだろうか。
「俺には今も判らない、本当に判らないんだ・・・」
 有美子が何かを思い出した様にふっと笑いかけた。
「君は何かを知っているのか」
「このお店ね以前はあなたの例の月明かりの穂高の写真を飾っていたのよ」
 それは中止した最初の個展の折に佐恵子が持ち込んだ物だった。大きく引き伸ばした写真はマスターの要望だったのか、佐恵子の希望だったのかは今は定かではなかった。朔郎は奥でカップを洗うマスターをチラッと覗き見した。
「あなたが正幸と二人で最後の北アルプスへ行ったでしょう」
 不意に有美子が切りだして来た。
「あの時は笑って送り出したけれど佐恵子はすぐにあたしのところに来たのよ」
 ーー二人を見送った後で佐恵子は思い詰めた様な顔をして有美子の部屋に駆け込んで来た。そしてあたしの前であの二人は自殺をしに行ったと泣き出した。「そんな素振りがないのにいったいどうしたの」とあたしはとりあえずは落ち着かせてその根拠を問い質したのよ。トコトン問い詰めるとあたしが元で二人の長年の友情を壊して仕舞ったのよと急にわめき出す始末よ。もう凄かったのよ『あの二人は山へ果たし合いに行ったって』泣きわめくから「じゃあなぜ止めなかったの」って言うと『そんな資格はあたしには無いわ』って言ってもう話にならなかったのよ。今思うとあの時の佐恵子は頭が別のモードに切り替わったのようね。
「それは知らなかった山から帰っても佐恵子はいつも通りに愛嬌を振りまいていたが・・・」
「とにかくあの時の佐恵子は異常だったのよ翌日には『あたしそんなこと言ったかしら』って顔して、何も無かった様にケロリとしているから聞き出すのさえ馬鹿馬鹿しくなって何でこんなんに付き合わされたのかと笑って仕舞った。とにかくそれから佐恵子はあなたを軽蔑していたわ」
 思い過しだと思ったが、確かに少し変わった気がした。だが朔郎には思い至る事は何も無かった。
「妙だなあ? なぜなんだろう?」
「自分の胸に聞けばいいでしょう」
「どう云う事だ! 二人ともちゃんと帰って来た。俺はあの時に正幸とちゃんと話しを付けたと云うのに」
「本当に山では何も起こらなかったの?」
 有美子は不思議そうに朔郎を見る。
「だからそれを確かめようとさっきは別れた理由を訊いたのよ。あたしの推測は当たらなかったのね」
「推測? 何だそれは?」
「本当に何もなかったのね」
「う~ん」と言葉を濁した。それで何かを朔郎は隠してると有美子は追求した。朔郎は長い沈黙の後に「もう時効だなあ」と言ってから喋り出した。
「山の稜線で休憩中に正幸は俺の背中を押して突き落とそうとした。あいつにとっては 運が悪い事に俺は靴紐を締め直そうとかがみ込んだ。その為に正幸が稜線から転げ落ちるところを拾い上げてやったのだ」
「それを佐恵子に話したの」
「いや、正幸との約束で、あいつはもう一切係わらないと云ったから・・・。まさか」
 北村は急に立ち上がってサッサと出口へ行った。
「ちょっと待って、それ本当なの?」
 有美子はレジでマスターに支払いを済ませた北村の顔を覗き込んだ。
「信じる、信じないは君の勝手だ」
 朔郎は捨て台詞を残して店を出た。
「マスターどうしょう」
 有美子は不安げに問うた。                    
「あの人が佐恵子さんの前の彼ですか」
「そうなの」
「じゃああの写真を撮った人なんですね」
「写真まだあるんですか」
「有りますよ。あれは痛いほど心情の出ている作品ですからね。だから有美子さん、さっきあの人が言った事は嘘じゃ有りませんよ」
「マスターもそう思うんですか。・・・もう病院は面会時間が過ぎているし。篠原さんの家は知らないし・・・」
「あれほど自然を畏敬する人なら怒りはすぐに収まりますよ、十七年間も知らなかったのですから」
 マスターは他人(ひと)事の様に言うが・・・。有美子が思うには。
 ーー大自然の悠久の営みに比べれば大した事では無いが、三十数年生きた中の出来事としては看過できない部類に入ると思うが、それを佐恵子と正幸はどう対応するんだろう。
 学生時代はポジティブだった正幸があの件で陰り続けても、北村の許を飛び出した佐恵子には戻るところがなかった。要するに佐恵子にはこれは鬱陶(うっとう)しい恋なのだ。 


    
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