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父は生まれた時からぼくを嫌っていたと云うより、母が気に入らなかったから母に辛くあたるが、気丈な母は弱気を見せなかった。ついに父は音を上げた、つまり矛先をぼくに向けた。これには母は耐え切れなかった。幼児のぼくを連れて家を出た。ぼくの為に嫌っていた水商売に身を置いた。それは店がアパートと夜間保育まで提供してくれたからだ。ぼくが小学校へ入るまでと決めてスナックのホステスとして働き出した。
その店は古い町屋が残る有名な花街から、大きな通りの北側にありました。そこは南側の通りとは一線を隔てて、新しいビルやネオンに飾られた店が立ち並んでいた。南側のお茶屋さんで舞妓を招いて接待したあとに、四条北側のスナックで二次会のような雰囲気で呑める店に母は勤めていた。この店では長沼さんは常連客だった。
彼は慣れない母に店での接客を事細かく伝授し、更に反省点を指摘した。彼の手ほどきで店の雰囲気に馴染むことが出来て、彼女はやっと安定した生活を歩みだした。そんな折にぼくは病気に掛かり母は金策に困ってしまった。しかしもうこれ以上男には隙を見せたくないと母は頑張ったが、長沼さんにふと溢しまった。その人はその場で腕時計を外して金の足しにしなさいと言った。今まで綺麗な包装紙にリボンを掛けて、指輪やネックレスをプレゼントするお客ばかり見ている母には驚きだった。そんな風に渡されたからこれならなんとか返せそうだと預かった。後でそれが百万近くする品物と知ってここから私はずるずると落ちてゆくのかと後悔した。案の定、長沼さんは母を水商売から辞めるように言った。子供が学校へ行くまではこの仕事を続けるしかなかったが、住まいは面倒を見ると云われ、この人の妾になるのかと決心した。しかし彼が新居に泊まる事はなかった。家賃を払わないのならこの子の保育代ぐらいは稼げると普通の仕事勤めをした。
それも長沼は認めてくれる「いったいあなたの望みはなんなの」と云うと「家で猫を飼ってるがこいつは絶対裏切らないし寂しい時は必ず傍へ寄って来てくれる。猫ならどこにでもいると思うが家の猫だけは格別だ、実に心が洗われる。同じように女なら幾らでも居るが君は一人しかいない」と云われた。
「まあ! あたしは猫なんですか」彼女は目一杯可愛く怒って見せた。
それから母は長沼さんの真意を知って、幾分かは謎が解けてきた。だが恋を知らない若者ならともかく、いい歳をした男にはありえない。ただ彼の云うとおり、金は有るんだからその気になれば幾らでも女性と寝て過ごせる。それで満足であれば彼は、毎晩奥さんが許さなくとも泊まっていくだろうが、泊まらないのにほぼ毎日やってくる。まるで猫カフェに来る客のようにコーヒーを飲んで帰る。それにしても高いコーヒー代だ。客が一人だから何時間居ても気楽なメイドだった。休みの日に一緒に連れ添って出歩くこともある。疲れると大抵鴨川の河川敷のベンチに座る。気候と天気が良ければ年甲斐もなく若者に混じって私の隣で芝生に寝転ぶこともある。そんな時に彼はじっと空を見続けていた。
ある日「なぜ君の傍に居たいか知りたいだろう」と君の疑問に応えてやると初恋の話をした。それは人生最大の危機だったと樺太での話だった。
村はずれの石ころまで、誰の所有だと決まっている内地とは違い、樺太は殆どの土地が手付かずで、三男坊の俺には一旗挙げるのにはもってこいの場所だった。そこで君の様な女性と出会った。だが一番自由な所が、一番危険な所と隣り合わせだったと後で知った。
それは樺太に渡って三年目の夏に突然襲って来た。ソ連が突如北緯五十度線の国境を越えて侵略してきた。長沼はこのとき恵須取(えすとる)、豊原に次ぐ樺太第三の町、敷香(しすか)に居てここは山から切り出した材木を流木にして幌内川へ流した集積所で製紙工場があった。
長沼はここで亜屯から慌ただしくやって来た製紙会社の社員によってソ連の越境を知らされた。彼らは敷香に留まったが、長沼は樺太庁の豊原に向かって一目散に南下した。しかし彼女とは会えず樺太から脱出した。
亜庭(あにわ)湾に面した一番奥の豊原に近い海岸は遠浅で船もなく、大泊までやってきた。ここは北海道へ逃れる避難民でごった返していた。遅れて来た長沼に桟橋は遠く、とても乗船できる状態ではなかった。更に浜伝いに南へ逃げて一隻の古い小さな漁船を見つけた。一瞬これで海峡を渡れるか思案した。だが余裕はない、銃弾から逃れるのを優先してシケの夜の海を漕ぎ出した。死の覚悟が出来てる兵士と違って、身を守る術のない民間人の恐怖は大きかった。
まともに波を被る荒れた海は身の避けようがなかった。当たれば楽になれる銃弾よりも、この船出は恐ろしく沖へ出て悔やんだ。やっと逃れて陸が見えるといい気なもんで、あれほどの後悔が吹っ飛んでしまった。足に伝わる大地の感触で気力が湧いた。人家のない海岸を歩くうちにそれも萎え終に行き倒れた。
「敷香からここまでの強運をここで帳消しにするなんて、神はなんて非情だ! 運命をもてあそばれた」と怨み骨髄の中で意識が遠のいた。この浜頓別で飢え死にしそうになったときの残念、無念さの絡んだ恐怖は比べ物にならなかった「俺は此の時に助けてもらった佐伯さんには言い尽くせぬほど感謝している、それと同じぐらい今の君にも感謝している」って云うから「あたしは何もあなたにしていません」って言ったら「君が居るだけで幸福なんだ」って言ってました。
父は生まれた時からぼくを嫌っていたと云うより、母が気に入らなかったから母に辛くあたるが、気丈な母は弱気を見せなかった。ついに父は音を上げた、つまり矛先をぼくに向けた。これには母は耐え切れなかった。幼児のぼくを連れて家を出た。ぼくの為に嫌っていた水商売に身を置いた。それは店がアパートと夜間保育まで提供してくれたからだ。ぼくが小学校へ入るまでと決めてスナックのホステスとして働き出した。
その店は古い町屋が残る有名な花街から、大きな通りの北側にありました。そこは南側の通りとは一線を隔てて、新しいビルやネオンに飾られた店が立ち並んでいた。南側のお茶屋さんで舞妓を招いて接待したあとに、四条北側のスナックで二次会のような雰囲気で呑める店に母は勤めていた。この店では長沼さんは常連客だった。
彼は慣れない母に店での接客を事細かく伝授し、更に反省点を指摘した。彼の手ほどきで店の雰囲気に馴染むことが出来て、彼女はやっと安定した生活を歩みだした。そんな折にぼくは病気に掛かり母は金策に困ってしまった。しかしもうこれ以上男には隙を見せたくないと母は頑張ったが、長沼さんにふと溢しまった。その人はその場で腕時計を外して金の足しにしなさいと言った。今まで綺麗な包装紙にリボンを掛けて、指輪やネックレスをプレゼントするお客ばかり見ている母には驚きだった。そんな風に渡されたからこれならなんとか返せそうだと預かった。後でそれが百万近くする品物と知ってここから私はずるずると落ちてゆくのかと後悔した。案の定、長沼さんは母を水商売から辞めるように言った。子供が学校へ行くまではこの仕事を続けるしかなかったが、住まいは面倒を見ると云われ、この人の妾になるのかと決心した。しかし彼が新居に泊まる事はなかった。家賃を払わないのならこの子の保育代ぐらいは稼げると普通の仕事勤めをした。
それも長沼は認めてくれる「いったいあなたの望みはなんなの」と云うと「家で猫を飼ってるがこいつは絶対裏切らないし寂しい時は必ず傍へ寄って来てくれる。猫ならどこにでもいると思うが家の猫だけは格別だ、実に心が洗われる。同じように女なら幾らでも居るが君は一人しかいない」と云われた。
「まあ! あたしは猫なんですか」彼女は目一杯可愛く怒って見せた。
それから母は長沼さんの真意を知って、幾分かは謎が解けてきた。だが恋を知らない若者ならともかく、いい歳をした男にはありえない。ただ彼の云うとおり、金は有るんだからその気になれば幾らでも女性と寝て過ごせる。それで満足であれば彼は、毎晩奥さんが許さなくとも泊まっていくだろうが、泊まらないのにほぼ毎日やってくる。まるで猫カフェに来る客のようにコーヒーを飲んで帰る。それにしても高いコーヒー代だ。客が一人だから何時間居ても気楽なメイドだった。休みの日に一緒に連れ添って出歩くこともある。疲れると大抵鴨川の河川敷のベンチに座る。気候と天気が良ければ年甲斐もなく若者に混じって私の隣で芝生に寝転ぶこともある。そんな時に彼はじっと空を見続けていた。
ある日「なぜ君の傍に居たいか知りたいだろう」と君の疑問に応えてやると初恋の話をした。それは人生最大の危機だったと樺太での話だった。
村はずれの石ころまで、誰の所有だと決まっている内地とは違い、樺太は殆どの土地が手付かずで、三男坊の俺には一旗挙げるのにはもってこいの場所だった。そこで君の様な女性と出会った。だが一番自由な所が、一番危険な所と隣り合わせだったと後で知った。
それは樺太に渡って三年目の夏に突然襲って来た。ソ連が突如北緯五十度線の国境を越えて侵略してきた。長沼はこのとき恵須取(えすとる)、豊原に次ぐ樺太第三の町、敷香(しすか)に居てここは山から切り出した材木を流木にして幌内川へ流した集積所で製紙工場があった。
長沼はここで亜屯から慌ただしくやって来た製紙会社の社員によってソ連の越境を知らされた。彼らは敷香に留まったが、長沼は樺太庁の豊原に向かって一目散に南下した。しかし彼女とは会えず樺太から脱出した。
亜庭(あにわ)湾に面した一番奥の豊原に近い海岸は遠浅で船もなく、大泊までやってきた。ここは北海道へ逃れる避難民でごった返していた。遅れて来た長沼に桟橋は遠く、とても乗船できる状態ではなかった。更に浜伝いに南へ逃げて一隻の古い小さな漁船を見つけた。一瞬これで海峡を渡れるか思案した。だが余裕はない、銃弾から逃れるのを優先してシケの夜の海を漕ぎ出した。死の覚悟が出来てる兵士と違って、身を守る術のない民間人の恐怖は大きかった。
まともに波を被る荒れた海は身の避けようがなかった。当たれば楽になれる銃弾よりも、この船出は恐ろしく沖へ出て悔やんだ。やっと逃れて陸が見えるといい気なもんで、あれほどの後悔が吹っ飛んでしまった。足に伝わる大地の感触で気力が湧いた。人家のない海岸を歩くうちにそれも萎え終に行き倒れた。
「敷香からここまでの強運をここで帳消しにするなんて、神はなんて非情だ! 運命をもてあそばれた」と怨み骨髄の中で意識が遠のいた。この浜頓別で飢え死にしそうになったときの残念、無念さの絡んだ恐怖は比べ物にならなかった「俺は此の時に助けてもらった佐伯さんには言い尽くせぬほど感謝している、それと同じぐらい今の君にも感謝している」って云うから「あたしは何もあなたにしていません」って言ったら「君が居るだけで幸福なんだ」って言ってました。
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