遥かなる遺言

和之

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「なんであんな男が降って湧いたんだ」遠ざかる礼子の乗る車に向かって叫びたい衝動だった。そこへアパートの手前の道を別な車が飛び出してアパートへの道を曲がるとそのまま走った。まさかあの男が車では来ないだろう。最近はやけに神経が過敏に成りすぎた。井津治は車を目で追いながら角を曲がりアパートの階段を上がり終えた。部屋の前にはまたしてもあの男が立っていた。慣れは怖いもんだ直ぐには追い払う気がしなかった。
「少し様子が変わってきたじゃねえか」
  男は此の前と同じ調子で喋り出した。最初は敵意さえ抱いていたものが同じ遺伝子のなせる技か薄れてしまった、が決して許しはしない。
「余程金に困ってるのか暇なのかどちらかのようだなあ」
  井津治は相変わらず隙を見せないように言った。
 男は井津治の微妙な変化を読み取って薄笑いを浮かべた。
「察しがいい」
 さっきの礼子の態度から一変して、今日はこの男の言い分を少しは聞いてやっても良い気がした。
「俺が言ってるのは親としての監督責任か遺産相続かだが前者は二十年も前に放棄しているから後の方だなあ、まあどっちにせよ中で話そう」
 今は余程の敵意が湧かなければ追い払えない。こう云う腐れ縁は他人より始末が悪い。
「物分かりも良くなったなあ」
  すっかり男は穏やかな口調になった。これでは縁は切れていても拒めにくい。
「けしてあんたを認めた訳じゃないぜ」
  そう言いながら井津治はドアを開けた。なかなかこぢんまりとしたいると男は部屋を見回して座った。取ってつけた様な親らしい態度が厚かまし過ぎた。が一応怒りの沸点には達しなかった。
「さっきの公園では三人で随分と長い事話し込んでいたなあ、あれを見てこないだお前が言った事がまんざらウソでもないと確信したよ」
 井津治は食器棚からカップを取り出し流しに立った。
「一体どこまでつきまとえば気が済むんだ」 
「判りきったことを訊くなぁ、さっきの様子じゃ旗色が悪そうじゃないのかい、俺に肩入れしてほしくなったんじゃないのかい」
「あんたには介入してもらいたくないね」
 そう言って井津治は流しでコーヒーを煎れて戻って来た。
「やっと客扱いしてくれるようになったか」
 男は一口付けた。井津治も座ると一口飲んだ。
「今はそう云う話はしたくないんだ」
  こうして息子と落ち着いて対面すると、男は親心をもたげてしまい話題を変えた。          
「なんで京都に住まないんだ、此処も不便じゃないけど」
「見れば判るここから琵琶湖が見える。湖は波がないから落ち着く」
「それでも冬は荒れるだろう」
「海ほどでもないよ」
「そうか冬の海はきついぞ特に能登はなあお前は行ったことあるのか?」
「母さんの生まれた所だなあ、母さんと何度が行った」
「あいつと行ったか・・・」
  男は頭(こうべ)を落として暫く黙った。
「そこで知り合ったのかい」
  井津治はここぞとばかりに男の過去に話を突っ込ませた。
「大阪から最後の高校時代のグループで旅行してなあ、そこであいつを見て一目で気に入った」
「じゃどうして暴力を振るうようになったんだ」
「そりゃお前・・・」
 と言い出して男は苦笑いをした。
「夫婦喧嘩ってなあ人様々なんだ。しかし始まった頃には切っ掛けなんて忘れてる。気が済むまではなあ」
「今の奥さんとはどうなんだい」
「心配するな上手くやってる」
「別に心配はしねぇがそれじゃ大阪に居ればいいのに連日出て来るらしいが仕事もほっぽり出してまともに生活出来ないのかい」
「何いってるんだ例の長沼のおやっさんが死ぬまでは真っ当に生きてた」          
「じゃどうしてそのままあんたの云う真っ当な人生を生きないでおじさんの遺産に頭突っ込むんだ。とうの昔に別れて籍も入っていない俺の許へ押しかけたところで一銭も入らないのに」
「そう冷たいこと言うな親子じゃないか」
「今更何を言い出す。法律は一切の情を無視するんですよ」
「だがなあ本人の遺言っていうやつは別物なんだ、法律でもこれは無視出来ねぇんだ粋な計らいじゃねぇか、遣りたくない者には遣らねぇ遣りたい者に遣る」
「じゃあんたはまったく無視される方だ」
「いや良く考えてみろ、長沼のおっさんが一番気にいってた女のこれでも最初の亭主なんだ」
「言ってることは事実だが、知っていればむしろもっとも遣りたくない人物じゃないのか」
「これでも純情で出会った頃はそうでも無かった。まだ尻の青い時分だったからなあ・・・。まあ今はそんなことどうでもいい、あの葬式の司会やってた男なあ」
  大事な母さんを俺にはどうでもいいと云う言葉がむかついた。
「野々宮裕慈って言うんだけど」
「ああそいつなあそいつを降ろせばいいんだろう」
「分かってないなあそんな簡単な事じゃない、彼女は喪が明けても決めないかもしれない」
「馬鹿野郎! そんな欲のない人間がいるか!」
「彼女はそんな単純な子じゃないよ」
「それじゃ一番たちの悪い人間だなあ」
「あんな純粋な人を・・・。あんたはそんな言い方しか出来ないのかい」
 これ以上は話が噛み合わないと思った井津治は男を退散させた。だが男はまったく理解出来ないと云うより、そう云う意識が頭の中に溶け込めないのだ。
「また気分が良くなったら会おうじゃないか」と云って去った。 
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